どこかの城Ⅱ
モデラートはそっと窓の方に目を向けた。皆、そちらを見たが、トリルの姿はなかった。射し込む月の光があるだけだ。
「トリル?」
ユーシャは思わず窓に駆け寄った。姿が見えないばかりか、気配さえ感じられない。
「見えるか? ロン」
スラーに聞かれて、ロンは首を振った。
「えっと、今トリルさんは光の花の力を受けていて、暗いところでは光を放ち、明るいところでは見られたくない相手には見えなくなるんだったよね」
「ああ」
「つまり、俺たちには見られたくないってこと?」
「明かりを消せば嫌でも見える」
「その前に、逃げ出すかもしれないわ」
モデラートの言葉を、ロンは無視した。
「姿が見えなくても声は聞こえるはずだ。何でこんなことをするのか話してもらおうじゃないか。俺たちに申し訳なくて、姿を隠してるのか?」
一瞬の沈黙のあと、トリルの声が聞こえた。
「僕は……この国を自分のものにしたい。この国も、モデラートも」
ユーシャの近くで聞こえていた声が、だんだんとモデラートの方へ遠ざかって行く。
「僕はずっとモデラートを愛していた」
ユーシャはショックを受けたが、トリルが信じろと言っていたことを思い出し、気持ちを落ち着けた。何かわけがあるに違いない。
「行こう、モデラート。この国の新しい王は僕だ。そして君は、僕の妃だ」
モデラートは廊下の先へ向かったらしいトリルを目で追っていたが、不意にユーシャたちの方を振り返った。そして、ためらいながら、トリルに続いてその場をあとにした。
「どうなってんだ。あれは本当にトリルさんだったのか? 確かに声はトリルさんのものだったが……。どうしちまったんだよ、トリルさんは」
スラーが一人でぶつぶつ言った。
「それにしても、トリルさんが王子様で、お頭がお姫様だったなんてなー」
「それより、早くここから逃げた方がいい」
ロンがスラーの呟きを遮った。
「なぜ?」
ユーシャはモデラートが去った方向に視線を据えたまま、静かに尋ねた。
「あいつのあの様子じゃ、すぐに兵士たちがやって来る。俺たちを捕らえにな」
「私はここにいるわ」
「殺されるかもしれないぞ」
「トリルはそんなことしないわ」
「言う通りにした方がいいよ、ユーシャ。だってトリルさん、まるで人が変わったみたいだったじゃないか。悪魔に取り憑かれてでもいるような……」
――悪魔に取り憑かれた……?
最初に会った時、トリルは、悪魔に囚われてしまったから助けて欲しいと言った。悪魔を倒す必要はない、反撃する隙を与えてくれればいいと。あれは、そういうことだったのか? トリルは悪魔に捕まってしまったのではなく、悪魔に取り憑かれて、心を支配されてしまったのか。ずっとトリルが隠していたのは、このことだったのか……。
「ユーシャ」
不意にラルゴが声を掛けた。
「逃げてくれ。これは、僕たち二人の問題だ」
ユーシャは思わずラルゴを見た。
ロンが歩み寄り、ラルゴの肩に手を置いた。
「俺はお前と一緒に行くぜ」
ラルゴは一瞬ロンの目を見つめ、それからスラーの方を向いた。
「スラー、ユーシャとマズルカを外で待っているタイたちのところまで連れて行ってくれ」
スラーは頷き、ユーシャを促した。ユーシャは黙ったままだったが、渋々歩き出した。それを見て、ラルゴとロンはモデラートの消えた方へ向きを変えた。ユーシャは二人の後ろ姿が見えなくなる前に鸚鵡に変身し、あとを追った。スラーが呼び止めようと後ろを振り返った時には、ユーシャはもうずっと遠くに行っていた。すぐに大勢の兵士たちが近付いて来る音がしたので、スラーは隠れるしかなかったのだった。
ラルゴとロンはユーシャに気が付かず、奥へ奥へとどんどん進んで行った。
「この先に玉座がある」
ラルゴが小声で言った。
「二人は、きっとそこに……」
ユーシャは先回りしてこっそり玉座の間に入った。
モデラートが玉座のそばに座り込んでいるのが見えた。きっとトリルもいるのだろう。モデラートは悲しげな目をして宙を見上げている。
ユーシャはそっと舞い降り、柱の陰に隠れて様子を窺った。
「モデラート……君は僕を愛しているか」
トリルのどこか正気でないような声が聞こえて来た。
「ずっと、君の気持ちを知りたいと思っていた。兄上と婚約しているが、本当は……。……聞かせてくれ、君の気持ちを」
「私は……」
モデラートは一瞬俯き、また顔を上げた。
「私は、他の人を愛したことなんてない。私が愛しているのはあなただけよ」
僅かな沈黙があった。
ユーシャは目を疑った。モデラートが見上げている方向、トリルのいる辺りから、暗い闇が現れ始めたのだ。
「やっぱり……」
あの闇の声だ。
「やっぱり、そうだったんだな……」
闇の声は震えていた。
「トリル!」
ユーシャは人間に戻って飛び出した。玉座に駆け付け、剣を抜いて闇を追い払おうとした。その瞬間、真っ暗な闇がユーシャに覆い被さって来た。真っ黒だった。周り中、真っ黒。誰かがユーシャの腕を掴んだ。トリルだ、と思ったが、目を開けるとそこにいたのはラルゴだった。
「ユーシャ」
ラルゴがユーシャの体を引き寄せた。
「……無茶をするなと言ったのに……。この闇に飲み込まれたら、心が消えてしまうのに」
「ラルゴ……あなた……」
どこか違和感を覚えてユーシャは呟いた。
「トリル!」
すぐそばでロンの声がした。
「ロン! 大丈夫か」
ラルゴが叫び返すと、闇の中からロンの姿が現れた。
「あなた……トリルなの?」
ユーシャは呆気に取られてラルゴを見上げた。
「僕はあいつを探さなければ」
声も姿もラルゴのものだが、その口調は確かにトリルだった。
「どういうことなの、これは。どうしてあなたがラルゴの姿に……」
では、今トリルの姿をしているのは……。
「ラルゴとトリルが入れ替わってるの?」
ラルゴ――いや、ラルゴの姿をしたトリルは唇を噛んだ。
「これは僕とアレグロの心の問題だ。ユーシャ、逃げてくれ」
ユーシャは首を横に振った。
「私、逃げないわ」
「ユーシャ」
「あなたは私に、信じろと言ってくれた」
胸に手を当て、ユーシャは続けた。
「私は、あなたの心からの言葉を信じるわ。だから、一緒に行かせて」
トリルはユーシャの真剣な瞳を見つめ返した。
「……僕にユーシャの心は変えられないな」
呟くようにトリルは言った。
「わかった。一緒に来てくれ。守り切れないかもしれないけど……いや、きっと守ると言おう。その方がきっと、何でもうまく行くだろうから」
トリルの顔に明るい微笑みが浮かんだのを見て、ユーシャはほっとした。
「いいのか、トリル」
トリルが頷くと、ロンは光る剣を振るった。
その瞬間、闇がぱっと散り、ユーシャたちはさっきまでいた玉座に戻って来た。闇は再び広がろうとしたが、ロンの突き付ける剣を見ると、怯えたように壁に沿って上り始めた。
「屋根の上だ!」
ロンの叫びと共に、三人は走り出した。
トリルとロンはバルコニーから身軽に屋根に飛び乗り、ユーシャは鸚鵡になって上がった。
ふと下を見ると、バルコニーにモデラートが出て来ていた。必死にこちらを見上げている。トリルとロンが闇に向かって行くのを視界の隅に捉えながら、ユーシャはモデラートのところへ降下した。
「モデラート! ハヤクアレグロノトコロヘ……」
モデラートは一心に闇を見つめていた。
「モデラート!」
ユーシャはもどかしくなって人間の姿に戻った。
「そうだ、貝殻よ。貝殻でアレグロに呼び掛けて。アレグロをあの闇から助けなきゃ」
「……呼び掛けても、アレグロ様には届かないわ」
「どうして?」
モデラートは両手のひらを広げて見せた。そこに、虹色の巻き貝が載っていた。トリルの貝殻よりも赤っぽい、二つの巻き貝が……。
「アレグロ様の貝は二つ共、私が持っているの。だから連絡は出来ない」
「二つ共? でも、ラルゴは貝殻を持っていたと、ロンが……」
ユーシャははっとした。
「トリルの貝……?」
潮風号が襲って来た時、船の甲板に落ちていた貝殻……あれを落としたのが、ラルゴだったとしたら? 森でユーシャから貝殻を奪った闇は……闇の正体は……。
『ああ、良かった。ちょっと厄介なことになっていて、助けが欲しかったんだ』
最初にトリルと交わした会話が、ユーシャの脳裏に蘇った。
『助けって?』
『……我が国の王子が、悪魔に囚われてしまって……』
『もしかして、あなたは王子様を助けようとして、そんな目に遭わされたの?』
『ああ。情けないけど、僕の力ではどうすることも出来なかった』
そうだ。三つのお守り……光る剣を、ラルゴは持っていない。闇の力に光の力は邪魔だから、手放した……?
ユーシャは闇を見上げた。
「トリルじゃない。あれは……悪魔に囚われているのは……ラルゴ?」
「アレグロ!」
トリルが闇に向かって叫んだ。
「アレグロ! 目を覚ませ。戻って来い!」
闇は何も答えず、トリルの体を包み込もうとした。トリルは身をよじって避け、更に大きな声で呼び掛けた。
「アレグロ! 聞こえないのか。僕は……」
再び闇が迫り、トリルは屋根から足を踏み外した。何とか縁に掴まったが、闇がトリルを飲み込もうと近付いていた。
「やめて!」
突然響いた声に、闇は動きを止めた。
ユーシャのマントを着たモデラートが屋根の上に立っていた。
「やめて、アレグロ様……」
闇が微かに揺れた。
トリルの手が滑り、屋根の縁から離れた。
「トリル!」
――トレモロ様は逃げ切れないわ。トレモロ様に、あの闇を倒すことは出来ない。
落下して行くトリルの体を、深い闇が包み込んだ。
――トレモロ様は、自分のためには決して戦わない。大切なものを守るために逃げているの。
「だめ……」
――大切な人を傷付けるくらいなら、トレモロ様は自分を犠牲にするわ。たとえ、自分が死ぬことになっても……。
「だめ! トリル!」
ユーシャはバルコニーの手すりを乗り越え、闇めがけて身を躍らせた。
それは一瞬の出来事だった。だが、ユーシャにとっては長かった。トリルにとっては、もっと長かったに違いない。
真っ暗闇の中で、ユーシャはトリルの手を取って立っていた。
「この闇は、ずっと僕を追って来た……。アレグロの、心の闇だ」
「心の闇……?」
「アレグロはモデラートを愛するあまり、僕と彼女の仲を疑っていた。その、悲しみと憎しみの心が、あの闇を生み出したんだ」
トリルは闇を追い払おうとするかのように首を振った。
「ソーレの国へ向かう途中で闇に襲われた時、アレグロの心は闇に吸い込まれてしまった。ユーシャの十字架を掛けたけど、間に合わなかった。でも、十字架のおかげで闇はアレグロの中へ戻れなくなった。だから僕を探し出し、僕の体を乗っ取った。ユーシャに呼び掛けられて目覚めた時、僕はアレグロの中にいた」
「アマービレの家であなたの書き置きを見つけて、私はすぐ貝殻に呼び掛けたのよ」
「不思議だな。僕はアレグロの姿で、貝殻は持っていなかったのに、君の声が聞こえたんだ」
「そう……不思議ね……」
「この闇は、アレグロの心であり、そして、僕の心でもある。僕の心の闇で、アレグロの心の闇だ。だから僕は向き合わなければならない。君は戻ってくれ」
「私は戻らない」
「ユーシャ……」
「話して。トリルのこと。私、ここにいるから」
トリルは闇を透かし見た。
「僕は、僕がいない方がアレグロのためだと思っていた。だから国を空けて、旅ばかりしていた」
ユーシャはただ立って、トリルの声を聞いていた。
「一年前、久し振りで国に戻った時、モデラートに会って、アレグロの様子がおかしいと聞かされた。一日中部屋に閉じ籠っていたり、奇妙な夢を見たりするらしいと。西の海の海賊の首領が、アレグロではないかという噂まで流れていた。だから僕は、海賊の正体を突き止めるために西の海へ向かった。一緒に行きたいと言うのでモデラートも船に乗せた。――それがまずかったんだ。アレグロは、僕とモデラートが二人で仲良く旅に出たと思い込んでしまった。西の海で、潮風号が嵐に遭って、闇の中で、僕はアレグロの姿を見た。アレグロは悪魔に心を囚われてしまっていたんだ」
闇が濃くなった。
「海賊も、この城の人たちも、悪魔になったアレグロに操られている。闇が離れている間は何も覚えていないようだけど……。この闇に飲み込まれてはいけない。アレグロの心を取り戻さなければいけない。僕は……」
トリルがユーシャの手を強く握った。
「僕は、消えてしまっても……」
ユーシャはトリルの手を握り返した。
「お前は僕からモデラートを奪った」
闇の中から、くぐもった声が聞こえた。
「モデラートは僕を愛していると言ったのに。ずっと僕に嘘をついていたんだ」
「モデラートは嘘をついてなんかいないわ」
トリルが口を開く前に、ユーシャは素早く言い返した。
「モデラートはトレモロの姿をした僕に、愛していると言った」
「それは、どんな姿をしていても、あなたがあなただとわかったからよ。モデラートが愛しているのはあなただけよ」
闇の中に、一筋の光が射した。
――それは、ほんの一瞬の出来事だった。
ユーシャは、何かの上にぽすんと落ちた。
「ユーシャ」
優しい声と共に、力強く背中に回された腕の温もりと、柔らかい息遣いがユーシャに届いた。目を開けると、すぐ近くにトリルの顔があった。
「ユーシャ」
再び、囁くようにトリルが呼び掛けた。その声も、口調も、紛れもなくトリル自身のものだった。
「また、君の十字架に助けられたよ」
二人の下には、地面から数メートルの高さに浮かぶ絨毯があった。
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