どこかの世界の少女
闇が消えてから、ひと月が過ぎた。
あの日、ほっとしたあまりトリルに抱き付いたユーシャを、彼は優しく抱き返してくれた。
今、こうしてぼんやり海を見ていると、まるで夢だったかのような、遠い遠い出来事だった。
「全て、終わったのね……」
ユーシャは港に佇んでいた。何をするでもなく、ただ何となくぼんやりしていたのだ。
「トリル……」
――私の役目は、終わったのね。
そんな彼女の視界に、向こうから手を上げて歩いて来る人影が映った。
「ユーシャー!」
「スラー」
スラーは軽やかな足取りでユーシャの前まで来ると、立ち止まって暮れ掛けた夕焼けの空に目をやった。
「きれいだなあ」
「ええ」
ユーシャとスラーはそのまましばらく夕日を眺めていた。
「……これから、どうするの?」
ユーシャが沈黙を破って尋ねた。
「んー、この国に落ち着くことになるんじゃないかなー」
意味ありげに笑って、スラーは続けた。
「これは俺の勘なんだけど、タイの奴がアマービレのおふくろさんと一緒になるみたいなんだ。俺とあいつはいつも一緒だからな」
ユーシャは、無口なタイがアマービレや母親の面倒を親切に見ていた様子を思い出した。
「あなたも恋人を見つけたら?」
ユーシャが勧めると、スラーは本気で考え込んだ。
「でも、相手がいるかなあ。フォルテはロンだし、マズルカくらいしかいないよな」
「いいんじゃないの? マズルカは人間に生まれ変わったら、きっととてもきれいな娘になるわ」
ユーシャはからかい気味に言った。
「でも今は俺の手のひらに載る大きさなんだぜ。人間に生まれ変わったって、そんなすぐに見方は変えられないよ」
「……そうね。ずっと思い込んで来たことは、簡単には拭い去れない……」
ユーシャがラルゴのことを言っているのだと気付いて、スラーは笑いを引っ込めた。
「でも、時が変えてくれるさ。必ず」
ユーシャは笑顔で頷いた。
「モデラートがきっと、ラルゴの心を救ってくれるわ。兄弟のわだかまりも、少しずつ消えて行くでしょうね」
人ごとのようなユーシャの言い方に、スラーは微かに眉をひそめた。
「ユーシャも、この国に残るんだろう? トリルさんと一緒に」
「どうなるかわからないわ」
ユーシャは曖昧に答えた。
「ロンはこの国を出て行くらしいの。フォルテも付いて行くって言ってるわ。ロンは嫌がってるけど……きっと二人で一緒に旅立つことになると思う」
俺もそう思う、とスラーは笑いながら言った。
「それで、ユーシャも一緒に行っちまうつもりなのか?」
ユーシャは首を振った。
「私には……他に行くところがあるように思うの」
スラーと別れたあと、日が暮れ切った夜の闇の中を、ユーシャは城に向かって歩いていた。
門の前まで来た時、暗がりに立っている小さな人影に気が付いた。
「カーポじいさん……」
カーポじいさんはユーシャを見ると、にこやかに微笑んだ。
「随分待たせてしまったね。お前さんの願いを叶えに来たよ」
「願い……?」
カーポじいさんは頷き、ユーシャの前に手を翳した。
「あ……」
光が溢れた。そして、溢れる光と共に、ユーシャの心の中に、忘れていた記憶が溢れ出て来た。
ユーシャは胸に手を置いた。
「それじゃ、あなたがあの雲の上の……」
「お前さんの願いは、叶えるのがとても難しいものだったからね。ずっと見守っていて、やっと見つけ出すことが出来た」
カーポじいさんはユーシャの顔を覗き込んだ。
「これからどうするね?」
「私……」
ユーシャは束の間、目を閉じた。
「私は、もうここにいる必要はありません。だから、帰るべきだと思います」
「お前さんの好きに出来る。お前さんが願えば、ドアは再び現れるはずじゃからの。じゃが、ユーシャ、本当にそれでいいのか? このまま、あの王子に会わずに行ってしまって……」
「私の役目はもう、終わったから。結局、大したことは出来なかったけど」
「そんなことはないじゃろうよ。あの王子は、お前さんがいたから戻って来られたんじゃ」
「そうでしょうか?」
「もし、あの王子が一人で闇の中に残されたのなら、我が身を犠牲にしてでも闇を封じようとしたに違いない。とどまろうと決めたのは、お前さんがいたからじゃ。自分が飲み込まれれば、お前さんまで一緒に飲み込まれてしまう。そうなってはならないと思ったから、あの王子は戻って来たんじゃよ」
カーポじいさんは冷やかすように笑った。
「あの王子にとって、お前さんはよっぽど大事な存在なのじゃな」
ユーシャは何も言わなかった。
「まあ、お前さんが帰りたいと言うなら止めはせんよ」
カーポじいさんはユーシャに宝石箱を差し出した。
「これは……」
「お前さんがいつでも戻れるように、用意してあったものじゃ」
それは、最初に貝殻を拾った時に飛ばされた、あの広間にあった宝石箱だった。そうか。これはトリルが出したものではなかったのだ。そういえばトリルも、覚えがないと言っていたっけ。
「種を蒔けばお前さんの世界に戻れる。それじゃ、わしは先に行っとるよ」
そう言うと、カーポじいさんは鳥に姿を変えて飛び立った。夜の空を照らして、まるで燃える不死鳥のように城の上を越えて消えて行く。あとには、一つのドアが残った。
ユーシャは宝石箱を開け、中からハンカチに包まれた種を取り出した。それを地面に落とすと、あっと言う間に芽が出て、太い幹がぐんぐん伸びた。ユーシャは枝に掴まり、急速に成長する木に運ばれてドアのある高さまで上った。ノブに手を掛けようとした時、声が響いた。
「行くな!」
見下ろしたユーシャの目に、トリルの姿が映った。トリルはもう、暗闇で光ってはいなかった。だがユーシャの目には、まるで光っているかのように、はっきりと映った。
「私は……帰らなくちゃ」
ユーシャは静かに言った。トリルは黙って首を振る。
「ここは私の住む世界じゃない。私は、こことは全く違う世界から来たの。そこへ戻らなくちゃ行けないのよ」
「だったら、僕も一緒に連れて行ってくれ」
「あなたには行けないわ。ずっとずっと高いところなのよ。空の上。そこから私は降りて来たの」
「……天使?」
「そんな風に呼ばれることもあるけど……とにかく私はそこで失敗をして、罰として記憶を消されてこの世界に降りて来たの。困っている人がいるから、その人を助けなさいって。それが出来たら元の世界に戻れるって言われたわ」
「困っている人を助ける……それが僕だったのか?」
「そうよ。だから私はあなたを守らなければならなかったの」
「使命のために?」
「そうよ」
突き放すように言っても、トリルはユーシャから目を逸らさなかった。ユーシャを見つめたまま、ゆっくりと言葉を継いだ。
「……城で闇に包まれた時、周りは完全な暗黒だった。今にも飲み込まれそうに思えたけど、恐怖は感じなかった。寄り添うユーシャの温かさが、僕の心を強くしてくれた。意識が途絶えそうになっても、繋ぎ止めてくれるたった一つの手があったから、僕はとどまれたんだ」
トリルはユーシャに手を差し伸べた。
「ユーシャが来ないなら、僕がユーシャに付いて行く。僕はもう自分を抑え込む気はない。やりたいように生きるし、愛したものは何が何でもそばに置く」
「トリル……」
「もし、今虹の山へ行けるなら……そこで願い事を聞かれたなら、僕はこう答えるだろう。ユーシャと一緒に生きたいって」
「……もし、今、虹の山に行って、願い事を聞かれたら、私はこう願うわ。トリルのそばにいたい。トリルの笑顔を見ていたい。これから先もずっと……」
「一緒に生きよう、ユーシャ。愛しているんだ」
ユーシャは身を翻し、トリルの両腕に飛び込んだ。
「……私も……。愛している……」
二人は力強く抱き合った。
「出掛けよう、ユーシャ。船の用意は出来ている。今すぐ二人で、旅に出よう」
「どこへ行くの?」
「ここじゃない、どこかさ」
頭上のドアはいつの間にか消えていた。
ユーシャとトリルは手を取り合い、城をあとにした。二人の新しい旅が始まる。そしてまた、新しい物語もここから始まるのだった。
どこかの世界の物語 波野留央 @yumeyuki
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