どこかの城Ⅰ
「そこにいるのは誰?」
ユーシャは飛び上がりそうになった。
「あ、怪しい者じゃありません」
振り返ると、窓を開けた女の人と目が合った。
「私は、新しく雇われて来た者です」
苦し紛れに出任せを言う。怪しまれないように、出来るだけ平静に……。
「そんな話、聞いてないけど……」
怪しまれているようだ。
「あの……急に決まったんです」
「……それで、ここで何をしているの?」
「道に迷ってしまって……」
女の人はユーシャをじっと見つめた。マズルカはユーシャのマントの中に隠れている。
「……この城はわかりにくいものね」
女の人の顔が引っ込み、少しして窓の横のドアが開いた。
「いらっしゃい。使用人の部屋に案内してあげる」
ユーシャはほっとして、歩き出した女の人のあとを追った。これでうまく城内に入れた。――でも、この女の人は誰だろう。使用人には見えないが……。
考えていると、前を歩いていた女の人が口を開いた。
「あなたとは、西の海で会ったわね。アレグロ様と一緒にいた……」
不意を衝かれて、ユーシャは慌てた。
「あの時はごめんなさいね。あなたの乗っている船が、海賊船だと思ったのよ。本当に悪かったわ」
「いえ、あの……」
「私のこと、覚えてない? 覆面をしていたからわからないのかしら?」
女の人は一度も振り返らず、淡々と喋っている。
恐る恐る、ユーシャは聞いた。
「あなたは、潮風号に乗っていたんですね……トリルと一緒に」
女の人が振り返った。冷たい青い目でユーシャを見据える。
「あなた、名前は?」
「あ、ユーシャ……です。……あなたは?」
束の間沈黙したあと、相手は言った。
「私はモデラート」
ユーシャは女の人に一歩、近付いた。
「やっぱり、あなたはラルゴ……アレグロ王子の婚約者なのね」
「そうよ」
「あの時、急に東の国の船から逃げ出したのは、アレグロに気付いたからだったのね」
「ええ。あの人には、見つかりたくなかったから」
「潮風号に乗っていたのは……」
「海賊を倒すためよ」
「あなたがどうして、海賊を……?」
モデラートが黙ってしまったので、ユーシャは質問を変えた。
「トリル……トレモロ王子がここに来ているはずなの。モデラート、会わなかった?」
「いいえ」
「そう……」
「アレグロ様は?」
「え?」
「アレグロ様は今、どうしているの?」
「……アレグロは……闇の力にやられて、ずっと眠っているわ。一度目を覚ましたんだけど、また意識を失ってしまったの」
「闇の……力……」
モデラートの表情が、一瞬つらそうに歪んだ。
「あの闇は何なの? モデラート、あなたは何か知っているの?」
ユーシャはモデラートに詰め寄った。
「トリルはあの闇に狙われてるって言ってたわ。ずっと、追われているって」
「そうよ。だからトレモロ様は、この国を離れた」
「トリルも知っているのね? あの闇の正体を」
モデラートはそれには答えず、俯いた。
「アレグロ様は、トレモロ様が自由気ままに生きていると言うけれど、そうじゃないのよ」
「どういうこと?」
「トレモロ様は、自分のためには決して戦わない。大切なものを守るために逃げているの。大切な人を傷付けるくらいなら、トレモロ様は自分を犠牲にするわ。たとえ、自分が死ぬことになっても……」
「そんなこと、私がさせないわ」
ユーシャはきっぱりと首を振った。
「トリルには、誰かのためではなく、自分のために生きて欲しい」
――私はそのためにここにいる。そのために、この世界に来たのだ。
「無理よ」
諦めきったような口調でモデラートは言った。
「トレモロ様は逃げ切れないわ。トレモロ様に、あの闇を倒すことは出来ない」
「なぜ?」
「あの闇は……トレモロ様の……」
その時、廊下の先で話し声が聞こえた。
モデラートは口をつぐみ、そちらの気配を窺ってから、またユーシャを見た。
「……来て、ユーシャ。ここにいると見つかるわ」
ユーシャは黙ってモデラートに従った。
案内されたのは、奥の方にある小さな部屋だった。
「使用人が寝起きする部屋よ。粗末だけど、誰も来ないから安心して休んで」
モデラートが出て行ったあと、ユーシャはもう一度トリルに呼び掛けてみた。ほとんど期待していなかったのだが、何度か呼ぶうちに意外にも貝殻からは返事があった。
「……ユーシャか?」
「トリル!」
驚きと喜びで、思わず声が大きくなってしまった。
「無事なんだね、ユーシャ。今どこにいる?」
「あなたこそ、どこにいるのか教えて。すぐそこに行くわ」
「すぐ行くって、君はどこにいるんだ?」
「私はソーレの城にいるわ」
「何だって? なぜ君まで城に……」
トリルは言葉を切り、呆れた様子でため息をついた。
「また一人で無茶をしたんだな、君は」
「一人じゃないわ。マズルカも一緒。一人で無茶をしたのはあなたでしょ。どうしてみんなが来るまで待てなかったの? あのあとすぐにロンの船が着いたのよ」
「え……ああ……うん」
トリルの返事は歯切れが悪かった。
「あなた、ロンの船が着いたこと、知ってたの? 知ってて一人で城に?」
「……ごめん。こんなことになるなんて思わなかったんだ」
「こうなってしまったからには仕方がないわ。すぐにみんなも来ると思うから、じっとしてて」
「みんな?」
「ロンと、それに、潮風号のみんな。ロンの船と一緒にソーレの国に着いたのよ」
「本当か? みんな無事なのか」
「ええ」
「良かった」
トリルの声が、やっと明るくなった。
「ユーシャは大丈夫なのか? 誰にも見つからなかったか?」
ユーシャは声を落とした。
「……モデラートに会ったわ」
貝殻の向こうで、トリルが息を呑むのがわかった。
「事情は話したわ。会っても心配はいらない」
ユーシャはモデラートの話をトリルに伝えた。
「どうして一人で城へ来たりしたの?」
トリルはなかなか答えなかった。ひどく困っているのがわかる。ユーシャは急に心配になった。
「大丈夫? トリル、元気なの? アマービレがあの闇を見たって言ってた。あなた、もしかして悪魔に捕まってしまったんじゃないの? また、どこかに閉じ込められているんじゃ……」
「ユーシャ」
「うん」
「僕は無事でいる。だから、ユーシャ、僕のことは探さないでくれ」
「え?」
探すなとは、一体どういうことだろう。
「私がいると迷惑なの?」
「違う。危険に巻き込みたくないんだ。わかるだろう?」
それはわかる。トリルが嘘を言っていないことはわかる。だが、何かを隠している。トリルには一人で抱えていることがあるのだ。それが何なのか、ユーシャにはずっとわからなかった。わからなかったが、ずっと付いて来た。ずっと、信じて来た。トリルには、自分が必要なのだと。
「嫌よ」
静かに、だが決然としてユーシャは言った。
「私はあなたを探すわ。何度見失っても探すわ。ちゃんと会って無事を確かめたいの。何と言われても探すわ」
答えは長いこと返って来なかった。
「トリル、聞こえてる?」
「聞こえてるよ」
「トリルがどこにいるか教えてくれる?」
「君には敵わないな」
トリルは微かに笑った。
「どこにいるかはまだ言えない。――わからないんだ」
「わからない?」
「とにかく、君はくれぐれも無茶をしないでくれ。これは……僕とあいつの問題だ」
「あいつ?」
「ユーシャ、僕を信じて欲しい。これから先何があっても、僕が何をしても、僕のことを信じていて欲しいんだ」
「うん」
ユーシャはしっかりと頷いた。
「信じてる」
「ありがとう……」
嬉しそうにトリルは言った。そして、その言葉を最後に、トリルの声は聞こえなくなった。
「マズルカ」
ユーシャが呼ぶと、マズルカはマントの中から顔を覗かせた。
「トリル、無事だったのね」
そう言ってから、マズルカは少し顔をしかめた。
「それにしても、ユーシャったらお人好しね。あのモデラートって子に色んなことぺらぺら喋っちゃって。もし敵だったらどうするの?」
「あの人は悪い人じゃないわ」
「そう? まあ、いいけど」
暗くなって来たので、ユーシャは明かりを点けた。
「そろそろトリルが光り出している頃ね。私、ちょっとそこらへん見て来るわ」
「あ、マズルカ……」
「心配しないで。見つかりそうになったらすぐ隠れるから。みんな蝶か何かだと思うだけよ、大丈夫、大丈夫」
「気を付けて」
ユーシャがやっとそれだけ言った時には、マズルカはもうドアの向こうに消えていた。
ほとんど入れ替わりに姿を見せたのはモデラートだった。
「トレモロ様は見つからなかったわ。どこかに隠れているのかもしれない」
モデラートはそう報告した。
ユーシャは、トリルと話せたことをモデラートに伝えた。
「そう……。トレモロ王子はあなたにその貝を渡したのね」
「アレグロの貝は、あなたが持っているんでしょう? なぜずっと連絡しなかったの?」
「それは……」
モデラートは困ったようにユーシャから視線を逸らし、そして、はっとした。
「どうしたの?」
モデラートはじっとドアの外を見ていたが、ユーシャが尋ねるとこちらを向いた。
「ユーシャ……あなた……見えないの?」
「何が?」
モデラートは驚いたようにユーシャを見、またドアに目を向けた。ユーシャもそちらを見たが、特に変わったものはなかった。
「どうかしたの?」
「……何でもないわ……」
低い声でそう言うと、モデラートは笑顔になった。
「今、食事を持って来てあげる。おなか空いたでしょ」
部屋を出て行くモデラートを、ユーシャは無言で見送った。
しばらくすると、マズルカが羽を羽ばたかせて戻って来た。
「城内は閑散としているわ。誰もいないんじゃないかと思うくらい、静かよ」
マズルカはユーシャの肩に乗った。
「ねえ、罠なんじゃないかしら」
「そんな……」
ユーシャが返事をし掛けた時、マズルカがばっとユーシャのマントに飛び込んだ。
ドアの外を見ると、モデラートが食事を持って入って来るところだった。
「ユーシャ、お食事を……」
「ありがとう。こっちに持って来てくれる?」
モデラートはどうやらマズルカには気が付かなかったようで、小さなお盆を手に近付いて来た。
モデラートがテーブルに載せた食事を見て、ユーシャはあっと声を上げた。
「このソーセージとパンは……」
いつもバスケットから出て来るものだ。
ユーシャはモデラートを見上げた。
「あなた、トリルと会ったのね。そうなのね……」
モデラートはびくっとして身を引いた。
「モデラート?」
ユーシャはモデラートに一歩、近付いた。
「モデラート、答えて。あなたは……」
「トリルに会ったのかって聞いてるのよ!」
痺れを切らしたマズルカがユーシャのマントから飛び出すと、モデラートは更に仰天して逃げ出した。
「待って!」
ユーシャはモデラートのあとを追った。
「もう、マズルカったら、モデラートがびっくりして逃げちゃったじゃない」
「ごめーん。でもやっぱり、あの子何か隠してるわよ」
廊下にはいつの間にか煌々と明かりが灯っていた。廊下の端まで行くと、モデラートは立ち止まってユーシャを振り返った。
「モデ……」
その時、別の声がユーシャの後ろから彼女を呼んだ。
「モデラート!」
ラルゴだった。横に進み出て来た彼を、ユーシャはびっくりして見上げた。
「アレグロ……様……」
ラルゴの顔を見ると、モデラートは申し訳なさそうに下を向いた。
ラルゴのあとから、ロンとスラーも姿を現した。
「すぐに入れたの?」
マズルカがユーシャから離れてロンの方へ飛んで行った。
「それにしても、ラルゴまで来るなんて……」
「トリルは?」
マズルカの言葉を無視して、ロンはユーシャに尋ねた。
「彼女が……モデラートがトリルと会ったらしいのよ」
ユーシャが答えると、全員が一斉にモデラートを見た。
モデラートは口を閉じたまま俯いていたが、やがて観念したように顔を上げた。
「ええ。私はトレモロ王子に会ったわ。……正確には、今も会ってる」
「どういうこと? 意味がわからないんだけど」
マズルカがモデラートを睨み付けた。
「さっきユーシャと話してる時、ドアの外に現れたのよ。でもユーシャ、あなたには彼の姿が見えなかったんでしょう? 今だって、誰も見えてないみたいだけど……トレモロ王子はここにいるのよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます