第三章 どこかの世界の少女
どこかの通り
なぜ、このドアがここにあるのだろう。あの黒い雲が、マズルカの落とした鍵を拾ったのだろうか。もしかして、湖の底でマズルカの邪魔をしたのはあの闇だったのか? ――今度はどこへ行くのだろう。どこへ飛ばされるのだろう。トリルはちゃんとそばにいる? 暗くて何も見えない……。一瞬のうちにユーシャの頭をよぎった考えを吹き払うように、突然眩しい光が辺り一帯に溢れた。
それは、沈み掛けた太陽の光だった。
ユーシャとトリルは、どこかの屋根の上に落下した。
「うわっ」
衝撃でトリルが目を覚まし、体を起こした。
「トリル、大丈夫?」
「あ、ああ。何があったんだ? ……もう朝なのか?」
明るさに目をぱちぱちさせ、辺りの景色を見回したトリルは、息を呑んだ。
「ここは……ソーレの国?」
ユーシャも改めて周りを見た。幸い水平な屋根だったため、それ以上落ちずに済んだが、見下ろすとかなりの高さがあった。屋根の下の通りには店が並び、人が行き交っている。
「ここが、ソーレの国?」
「あの町並は間違いないよ。それに、ほら、あの木」
トリルは通りの先の公園を指差した。
「金色の枝がみんな太陽の方を向いているだろう? あれは太陽の木といって、ソーレの国の土でしか育たない特殊な木なんだ」
「ここがトリルの国……」
「どうしてここへ?」
トリルに聞かれて、ユーシャはあの黒い雲が現れたことを話した。
「絨毯は?」
二人は屋根の上を見渡した。結果、数メートル離れたところに放り出されていたバスケットを見つけたが、絨毯はどこにもなかった。
「絨毯がなくちゃ、もう引き返すことは出来ないな……」
トリルは考え込んだ。
「ドアを通ってしまったなら、既に何日か経過しているはずだ。ロンの船がどの辺りにいるかもわからない。この国に着くまで、アレグロが無事でいてくれることを祈ろう」
「問題はそれだけじゃないわ」
「何だい?」
「絨毯がなくちゃ、下に降りることも出来ないわ」
「……」
僅かに間が空いた。
「君にはマントがあるじゃないか。鳥に変身して降りればいいよ」
「あなたはどうするの?」
「……魔法の本は?」
「船に置いて来てしまったの」
「バスケットから出せない?」
試してみたが、何度開けてもバスケットは空のままだった。
「……無理みたい」
「食べられるものでないとだめなのかな」
「あと、中に入る大きさのものでないとね」
「とりあえず食べるものの心配はないわけだけど……ロープは出せないかな」
「出せたとしても、ロープを伝って降りていたら相当目立つんじゃない? 下は人通りが多いわ」
「暗くなるまで待てばいい」
「夜になったらあなたの体は光り出すのよ。そっちの方がよっぽど目立つわ」
「ああ……そうか……」
トリルは再び考え込んだ。
「カーポじいさんはしばらくすれば光の花の影響はなくなるって言ってたけど、しばらくって一体どれくらいなのかな」
「じわじわとだけど、光の明るさが弱まって来ている気はするよ。でも、本当にじわじわとだから、完全に光らなくなるのはまだまだ先だろうな」
「何だかマズルカのピアスみたいね」
さて、どうするか。二人はしばらく口をつぐみ、何かいい案がないかと頭を捻った。
「よし」
先にトリルが沈黙を破った。
「じゃあ、こうしよう。とりあえず君は鳥になって、一人で下に降りてくれ。下に降りたら、バスケットから食べ物か薬を出して、お金に換えて……」
ユーシャはトリルの話をほとんど聞いていなかった。
「そうだ、こうすればいいのよ」
叫ぶなり、マントを脱いでトリルに被せた。
「ユーシャ? 何を……」
「あなたがこれを着るのよ。あなたが鳥に変身して、昼間のうちに下に降りるの。私は夜になってから、闇に紛れてロープで降りるわ」
トリルは無理矢理押し込まれたフードから首を出した。
「ロープで降りるなんて、君にそんな危ないことさせられないよ」
「私なら大丈夫。運動神経には自信があるから」
「でも、もし手を滑らせたりしたら……」
「ぐずぐず言ってる場合じゃないでしょ。もうじき日が沈んじゃうわ。ほら」
夕日に照らされた町並は刻一刻と暗くなっていた。
トリルは夕日に目をやり、尚も考え込んでいたが、意を決したように頷いた。
「わかったよ」
そして、マントの胸元を引き寄せ、深呼吸した。一拍置いてその姿が色鮮やかな鸚鵡に変わった。
「ウッ」
鸚鵡は翼を羽ばたかせたものの、飛び立つことが出来ずによろめいた。
「ダメダ、カラダガオモスギテモチアガラナイ」
ユーシャはトリルの体を支えてやった。
「何も鸚鵡じゃなくてもいいのよ。もっと大きな、翼の強い鳥になったら?」
「ウーン……。ジャア、ハクチョウニスルカ」
さすが王子様、発想が優雅だ。
白鳥に変身したトリルは軽く羽根を動かし、ユーシャを見てくちばしをぱくぱくさせた。話せないとわかると、一度人間に戻り、律儀に「何とかなりそうだ」と伝えてから、また白鳥の姿になった。
「下に降りたらどこか人目に付かないところに隠れていてね。光っている姿を見られたら大変だわ」
白鳥は頷き、ふわりと舞い上がった。滑るように降下し、そのまま通りの先の小さな公園に入って行く。あそこなら木がたくさんあるから、隠れるには絶好の場所だ。
ユーシャはしばらくトリルが見えなくなった辺りを眺めていたが、いつまでもそうしてはいられなかった。まだやることがある。暗くなるまでに用意して置かなければ。
ユーシャは煙突の陰に屈み込み、バスケットを探った。何か、ロープの代わりになるものは……。
「ユーシャ」
「え?」
振り返ると、後ろにトリルが立っていた。
「トリル? 戻って来ちゃだめじゃない」
「ロープを持って来たんだ」
びっくりしているユーシャに構わず、トリルは煙突にロープの端をしっかりと結んだ。それからマントを脱ぎ、自分の体にロープを巻き付ける。
「何してるの?」
「やっぱり、僕がロープで降りるよ。君はこれを」
トリルが押し付けて来たマントを脇に抱え、ユーシャは慌てて止めようとした。
「だめよ。夜になったら、あなたの体は光り出すのよ」
「だから、今降りる」
「今は人がたくさんいて……!」
「僕が見られることはないよ」
「え?」
「思い出したんだ。カーポじいさんが言っていた――光の花の蜜を振り掛けると、光の力を体に受ける。暗いところで光り輝き、明るいところでは、見られたくない相手には見えなくなる――って」
「あ……」
そういえばそうだった。すっかり忘れていた。
「下の通りを歩いてみたけど、誰も僕には気付かなかった。今のうちだ。暗くなる前に降りてしまわないと」
「でもトリル、大丈夫? こんな高いところから、ロープで降りるなんて……」
「君よりは大丈夫だよ」
それはそうかもしれないが……。
ユーシャはまだ信用出来ずにトリルを見つめた。
「本当に、あなたの姿は誰にも見えないの?」
「ああ」
「今ここで、私にも見えないように出来る?」
トリルはロープを結びながら、困ったような顔をした。
「やってみるけど……君に見られたくないと思うのは難しいな」
ユーシャが凝視していると、トリルの体がぼやけ、ふっと透明になり、すぐ元に戻った。
「どう? 消えた?」
「ほんの一瞬だけね」
「よし」
トリルはロープの強度を確かめ、ぴんと張ってから、屋根の縁に足を掛けた。巻いたロープを少しずつ伸ばしながら、ゆっくりと降りて行く。慣れた手付きで、全く危なげがない。これなら大丈夫そうだ。ユーシャはマントを羽織り、鸚鵡の姿に変身してトリルのあとを追った。
「ネエ、アナタノスガタガミエナクテモ、ロープハミエテイルノヨネ?」
「誰にも気付かれないうちに降りられるよ。僕が下に着いたら、ロープを回収して来てくれるかな。こっそり持って来たから、元のところに戻して置かないと」
言葉通り、トリルはてきぱきと行動した。太陽の最後の光が消える頃には、無事公園の木の陰に身を潜めることが出来た。
二人はバスケットを開け、軽い食事をした。
「アレグロは大丈夫だろうか」
トリルがぽつりと言った。
「大丈夫よ。彼は強い人だもの。きっと無事でいるわ」
「……僕はだめだな」
「え?」
ユーシャが顔を上げると、トリルは厳しい表情で地面を見つめていた。
「だめって、何が?」
「大切なものを守れない」
「トリル……」
ユーシャはトリルの近くまで行き、傍らに膝を突いてその顔を覗き込んだ。
「いつだってそうなんだ。誰も傷付けたくないから、国を出て来たのに……ソーレの国の民も、潮風号の仲間も、アレグロも……みんなを傷付け、苦しめて……結局、ほったらかしたままにしてしまった」
「何を言ってるの、そんなこと……」
「ユーシャのことも、守るどころか助けられてばかりだ」
「それは仕方がないわ。私は勇者だもの」
トリルにはユーシャの言葉の意味が通じなかったようだ。彼はただ、「そうだね。ユーシャはユーシャだ」と言って笑った。
「弱音ばっかり吐いてごめん」
「いいのよ。それであなたの心が軽くなるなら、いくらでも言って」
「……ユーシャがいてくれて本当に良かった」
トリルはユーシャにそっと寄り掛かった。
「もっと頼ってくれていいのよ。トリルは一人じゃないんだから」
「ありがとう」
少しの間、二人はそのままじっとしていた。トリルは目を閉じ、また開いた。
「もし、君が……」
「え?」
「……いや」
それから、トリルは我に返ったように体を起こした。
「そうだ、ユーシャ。昨夜寝てないんだろう? 僕が見張りをしているから休んでくれ」
「ええ。でも……」
「夜明け前に起こすよ。それまで、マントを借りてもいいかな? なるべく小さい生き物に変身して光を抑えて置きたいんだ」
ユーシャはトリルにマントを渡した。草の上に横になると、トリルが自分の上着をユーシャに掛けてくれた。
「寒くない?」
「ええ」
「ゆっくりお休み」
トリルの声を聞きながら、ユーシャは眠りについた。
――真夜中過ぎに目が覚めた時、近くにトリルの気配はなかった。辺りは真っ暗で、一筋の光も見えない。
「トリル、どこ?」
ユーシャが小声で呼び掛けると、トリルの姿がぱっと現れ、同時にぱっと明るくなった。
「ここにいるよ。ネズミになって茂みの中に隠れてたんだ」
「誰にも見つからなかった?」
「ああ、大丈夫。この公園に猫はいないみたいだね」
「私は充分眠ったから、今度はあなたが眠って」
「わかった」
トリルはネズミに変身し、丸くなった。
そうして交代で眠ったあと、明け方には二人共起き出して、今後のことを相談した。
「とりあえず、ソーレの国の都に向かおう」と、トリルは言った。
「早目に出発して、日があるうちに次の町へ入れるようにしよう。体が光り出す前に宿に落ち着きたいから」
「トリルの体の光、何とかして隠せないものかな」
「マントをすっぽり被っても、やっぱり光は漏れたよ。布地を通してしまうんだ。夜は建物の中にいた方がいいと思う」
「そうね」
「あ、これ、返さないとね」
トリルがマントを脱ごうとするのを、ユーシャは止めた。
「この国にいる間は、ずっとあなたがマントを着ていた方がいいわ。いつ光の花の効果が切れるかわからないし、知ってる人に会って、王子だと気付かれたらまずいでしょ?」
「そうさせてもらえるとありがたいけど……」
トリルは自分の体を見下ろした。
「何に化けようか? 鸚鵡の姿じゃ動けないし、旅人らしき女の子が連れていて不自然じゃない動物って他にいないかな?」
「……馬とか」
「僕の体格じゃ、君が乗れる大きさの馬にはなれないよ」
「じゃあ、犬?」
「番犬か。いいね、それで行こう」
トリルはぱっと犬に変身した。ユーシャと同じくらいの大きさの、ばかでかい犬だ。ユーシャはぎょっとして首を振った。
「いくら何でも大き過ぎるよ。それで通りを歩いたら注目の的よ」
トリルは人間に戻り、「いざという時敏速に動くためにはある程度の大きさが必要だ」と主張した。
「若い女の子の一人旅なんだから、これくらいの用心棒がいてもおかしくはないよ」
言い合った末、トリルの言い分が通った。
ユーシャは犬のトリルを連れて町へ行き、バスケットの中から出したものを売ってお金に換え、旅に必要なものを買い揃えた。それから一度公園に戻り、食事を済ませて旅支度を整えた。
「ユーシャ、そろそろ行ける?」
「ええ」
「よし」
トリルは木の枝越しに空を見上げた。すっかり日が高くなっていた。
「じゃあ、出発しよう」
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