どこかの谷Ⅳ
マズルカが湖の底の小さな穴に入ってから、三日が過ぎた。もしかしたら別の出口があったのかもしれないと思い、ユーシャたちは毎日島や湖の周辺を探した。そして、四日目の朝、ラルゴが湖の岸に倒れているマズルカを見つけた。
「マズルカ! マズルカ!」
ユーシャが呼び掛けると、マズルカはすぐに目を開けた。
「マズルカ! 大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ。それよりユーシャ、見つけたわ。光の花を見つけたのよ」
マズルカは小さな花を差し出した。花びらも葉も茎も淡い青で、まるで宝石のようにきらめいている。
「はい、ユーシャ。光の花よ」
「マズルカ……ありがとう」
マズルカは微笑んだが、その顔はすぐに曇った。
「でも、金の鍵を落としてしまったの。ごめんなさい。ドアを通るのがやっとで……」
「何があったの?」
ユーシャの問いにマズルカは、穴の奥で光る花を見つけたものの、手にした途端来た道が塞がってしまい、鍵を使って出るしかなかったのだと説明した。
「ごめんなさい、ユーシャ。大切な鍵を……」
「鍵なんかいいのよ。あなたが無事で良かったわ。ずっと戻らないから心配したのよ」
「ずっとってどういうこと? 穴に入ってすぐに花を見つけたから、まだ半日も経っていないはずよ」
「いえ、もう四日経っているんです。マズルカはずっと気を失っていたんでしょうか?」
「鍵を使うと時間を飛び越えてしまうのよ」
ユーシャはラルゴに金の鍵の性質を教えた。
「マズルカ、耳飾りの真珠が……」
マズルカに怪我がないか調べていたロンが言った。
「色が薄くなっている。穴に入る前は濃い黒だったのに」
それを聞いて、マズルカは大喜びした。
「これが真っ白になると人間に生まれ変われるのよ」
とにかく光の花を手に入れたので、一刻も早くトリルのもとへ戻ろうということになった。
ユーシャは光の花を小瓶に入れ、他の三人と一緒に絨毯に乗った。絨毯はふわりと浮き上がり、川の上流に向かって飛んだ。
「今日で十五日。ぎりぎりだな」
「間に合うといいんですが……」
「夜までに戻れば大丈夫なんでしょ。この絨毯ならひとっ飛びよ。ね、ユーシャ」
ユーシャは頷き、光の花の入った小瓶を握り締めた。
――大丈夫だ。きっと間に合う。きっと……。
ところが、プリンテンポの谷まであと一歩という時、目の前にあの黒い雲が現れた。
「あっ!」
雲は前より迅速だった。滑るようにさっと絨毯を取り囲み、ユーシャの持つ小瓶を奪い取った。
「返して!」
ユーシャは必死に叫んだが、その声は雲が消え去った空に虚しくこだました。
「どうしよう。あれがないとトリルは……。せっかくマズルカが頑張って取って来てくれたのに」
絨毯に手を突いて呆然としているユーシャを、ラルゴは為す術もなく見つめた。マズルカは今にも泣き出しそうだ。ただ、ロンだけは何か考え込んでおり、やがて一人頷くと、言った。
「大丈夫だ、ユーシャ。きっと何とかなる」
ユーシャはびっくりしてロンを見た。
「他に、何か方法があるの?」
ロンはちらっと空を見やった。既に日暮れが迫っている。
「とりあえず、プリンテンポの谷まで戻ろう。またあの雲が現れるかもしれない」
ユーシャはロンの言葉を信じることにした。どのみち、雲を追い掛けるにしても、ヴィントロの谷に戻ってもう一度光の花を探すにしても、時間がなさ過ぎた。
絨毯がプリンテンポの谷の上空まで来ると、ロンは言った。
「バスケットがあるだろう」
「バスケット?」
「お前とマズルカが、角砂糖やらパンやらを出した」
「これのこと?」
ユーシャはバスケットを取り出した。
「そのバスケットから、光の花も出せるんじゃねえかな」
「まさか……」
ユーシャはバスケットを開けてみた。そこに、さっき取られたはずの光の花があった。
「本当に? 本当に、光の花なの?」
ユーシャは花を手に取り、あらゆる角度から眺めてみた。
「何よー。それならあんな大変な思いをしなくても、最初から出せば良かったんじゃない」
マズルカが文句を言った。
「いや、多分、一度手にしたことのあるものでなきゃだめなんだと思う」
「とにかく、早くトリルのところへ行きましょう。これで間に合わなかったら元も子もない」
ラルゴの言う通りだった。絨毯を降下させ、四人は急いで洞穴へ駆け込んだ。
トリルは出掛けた時と変わらない様子で、目を閉じて横たわっていた。まだ薬が効いているようだ。ユーシャはほっとしてトリルの傍らに膝を突いた。
「あら、カーポじいさんは?」
マズルカがきょろきょろと洞穴の中を見回した。壁の蝋燭に火が灯っていたが、カーポじいさんの姿はなかった。
「書き置きがあるぞ」
トリルの枕元の辺りに一枚の紙が置かれており、飛ばないように石が載せてあった。ロンは石をどかし、紙をユーシャに渡した。
ユーシャがロンから受け取った書き付けには、こうあった。
光の花の蜜を水に溶かして与えよ
飲ませれば失い、振り掛ければ受ける
「どういう意味だろう……」
ユーシャは誰にともなく呟いた。
よほど急な用事でもあったのか、こんな短いメッセージだけを残して行ってしまうとは。一体どうすればいいのだろう。
「振り掛けるって、傷口に振り掛けるってことかしら?」
マズルカが首を捻った。
「だと思うけど……」
「失うとか、受けるというのは何のことでしょうか」
「カーポじいさんが戻るのを待つか?」
皆様々な意見を飛ばして話し合ったが、最後にはユーシャの判断に任せるという結論になった。
ユーシャはトリルを見た。トリルの呼吸は浅く、身動き一つせずに眠っている。
「もう時間がないわ。カーポじいさんはいつ戻って来るかわからないし……。早くしないとトリルは死んじゃうもの」
ユーシャは決心して花の蜜を絞り、水の中に入れてよく混ぜたあと、トリルの傷付いた腕に振り掛けた。
数秒間、全員が息を詰めて変化を待った。やがてトリルの目が微かに揺らぎ、そして、ゆっくりと開かれた。
「トリル……」
「……ユーシャ……?」
ユーシャの呼び掛けに、かすれた声でトリルは答えた。
「みんな、どうしたんだ。そんな顔して」
「トリル! 良かったー」
マズルカがトリルの首に飛び付いた。
「何だ、マズルカ。どうしたんだ?」
トリルはマズルカの羽を撫で、それからラルゴに目を向けた。
「お前……どうしてここにいるんだ?」
「……お前が心配ばかり掛けるから、安心して国に戻ることが出来ないんだよ」
そう言いながらも、ラルゴは微笑んでいた。ロンも安堵の表情を浮かべている。
「何だか随分長いこと眠っていたみたいだな。おなかが空いた」
「そうね。ずっと食べていないもの。でもトリル、体の調子はどうなの? もうどこも何ともない?」
ユーシャが尋ねると、トリルはああ、と言った。
「快調なくらいだよ。何を心配してるんだ?」
ユーシャはトリルに、カーポじいさんの書き置きのことを話した。
「僕の体は何ともないよ。傷もすっかり治ってる」
トリルは軽く腕を振って見せた。
「それより、何か食べさせてくれ」
ロンがトリルに、バスケットを差し出した。もう用意する気力はないらしい。
「色々と苦労させたみたいだな」
バスケットからパンを取り出しながらトリルが言った。
「話してくれないか、僕が眠っている間のこと」
ユーシャはトリルの横に座り、光の花を手に入れるまでのあらましを語った。
「マズルカとロン、それにラルゴのおかげだったの。私は何も出来なかったわ」
ユーシャの言葉に、ラルゴは力強く首を横に振った。
「いいえ。あなたがいなければ弟は助かりませんでしたよ」
トリルは黙って聞いていたが、この時初めて微かに笑顔を見せた。
「ありがとう、みんな……僕のために」
トリルは胸に掛かった十字架に手を添えた。
「この十字架も、僕を守ってくれた」
「そうだわ。どうしてあなたは十字架を手放したりしたの?」
「夢を見たんだ。いや……あれは、闇が見せた幻だったのかな。君があの闇に連れて行かれそうになっていた。だからつい、夢中でこの十字架を闇に向かって投げたんだ」
ユーシャは改めてトリルに向き直った。
「あの闇は、一体何なの? あなた前に、追われる夢を見たって言ってた。あれってあの闇のことだったのね」
「……多分ね」
「あの闇は、なぜあなたを狙うの?」
「それは……」
トリルは口ごもった。
「今は、言えない……」
「いつなら言えるの?」
ユーシャは厳しく突っ込んだ。
「いつか、時が来たら……船を修理して、仲間を探し出して、そして……」
トリルは俯き、ついには黙り込んでしまった。
ラルゴがトリルの肩にそっと手を置いた。
「とりあえず、二、三日はゆっくり休もう。僕らも疲れているし……」
「そうね、もう寝ましょう。話はまた明日」
マズルカもそう言って、大きなあくびをした。
ラルゴとロンをトリルのもとに残し、ユーシャはマズルカと一緒に隣の洞穴へ引き上げた。疲れていたのは確かで、二人共毛布にくるまると間もなく眠ってしまった。
夜半過ぎにユーシャは目を覚ました。
横で寝ているマズルカを起こさないように、忍び足で洞穴の外に出ると、そこにロンがいた。
「どうしたんだ?」
「そっちこそ」
ロンは肩をすくめた。
「トリルの姿が見えないんで、気になってな」
「またなの?」
懲りない人だ。
ユーシャは虹色の巻き貝を取り出した。
「その貝殻……」
ロンがユーシャの手元を見て首を傾げた。
「ああ、これ、トリルにもらったの。トリルと話が出来るのよ。これがあること、すっかり忘れてたわ」
ユーシャは貝殻に呼び掛けた。
「トリル! トリル、聞こえる?」
「……ユーシャ?」
何だか心許ないトリルの返事が聞こえて来た。
「あなた、どこにいるの? こんな夜中に何してるの?」
「ああ、うん。ごめん……」
「また十字架を投げ捨てたりしてないでしょうね?」
「それは大丈夫。だけど……」
「どうしたの?」
「……いや……何だか変なことになってるんだ」
「変なこと?」
ユーシャは鸚鵡になってトリルを探そうと思ったが、その必要はなかった。少し先の木々の間から、明るい光が漏れていたのだ。近付いてみると、その光は更に強くなった。
「トリル?」
光の源はトリルだった。トリルの体が青白く発光している。暗闇で光る剣のように。そして、あの光の花のように。
「トリル、一体どうしたの? その光は……」
トリルも困惑している様子だった。
「わからない。ここに来て、しばらくぼうっとしていたら、急に光り出したんだ」
ユーシャははっとした。光の花のせいだ。暗闇で光る花の蜜……。それを振り掛けたために、トリルの体も光るようになってしまったのだ。
「体の具合がおかしいということはないのね」
恐る恐るユーシャは聞いた。
「ああ。全然ない。目をつぶっていれば光ってることもわからないくらいだ」
とりあえずほっとした。害はないようだ。
朝になるとトリルの体の光は治まったが、日暮れと共にまた光り出した。
「焚き火がいらなくて便利ね」とマズルカが言った。
更に次の朝、カーポじいさんがユーシャたちの前に現れた。
「首尾良く光の花を見つけたようじゃな」
カーポじいさんはトリルを見て頷いた。
「そばを離れてしまって悪かったが、十字架の守りは磐石で、悪いものははじき返せるはずじゃから、わしがいなくても大丈夫じゃろうと思うてな。とにかく助かって良かった」
「そのことなんだけど、おじいさん、トリルの体が……」
ユーシャは事情を説明した。
「ふむ。花の蜜を体に振り掛けたんじゃな。そうすると、光の力を体に受けるのじゃ。暗いところで光り輝き、明るいところでは見つかりたくない相手には見えなくなる。もし飲ませていたら一時的に視力を失うことになっておったが」
「それじゃ、振り掛けた方が良かったんですね」
「そうとも言えんじゃろう。今の状態では敵にすぐ見つかってしまう。どちらにせよ、しばらく経てば効き目は切れるしのう」
「どうしてそれをちゃんと書き残して行かなかったのよ?」
マズルカがカーポじいさんを睨んだ。
「時間がなかったんじゃ」
咳払いしてから、カーポじいさんはそこに並んだ面々を見渡した。
「お前さんたち、これからどうするんじゃね?」
「西の海に戻ります」
トリルが答えた。
「ほう、西の海。じゃがその前に、お前さんの国を何とかした方がいいんじゃないのかね?」
「僕の国……?」
カーポじいさんは含み笑いをし、じゃこれで、と言って立ち去ってしまった。
「おかしな人ですね。どういう人なんです?」
ラルゴが眉をひそめてユーシャに聞いた。
「虹の山で会ったの……悪い人じゃないのよ」
「僕の国がどうとか言っていましたが……」
「あなたたちの国ってどこなの?」
「ソーレの国です」
「ソーレの国?」
ロンがラルゴの言葉に反応して顔を上げた。
「ソーレの国は、今、内戦状態にあるんじゃないのか?」
「内戦? まさか」
トリルは有り得ないと言うように首を振った。
「二人の王子が王位を巡って争っていると聞いたが……」
「何だって? ロン、それは本当なのか」
今度はラルゴが身を乗り出した。
「ああ、確かだよ、両方の軍から俺に誘いがあったからな。よその国のいざこざに巻き込まれるのはごめんだと断ったが、どちらも相手の方に付くのだろうと疑ってね。おかげであの国にいられなくなった」
ロンはトリルとラルゴを交互に見た。二人共黙り込んでしまっている。
しばらくして、トリルが言った。
「……ソーレの国へ行こう」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます