第二章 どこかからどこかへ
どこかの空
――これからどうする?
ユーシャは手にしていた魔法の本を開いた。
何となく目に入った呪文を唱えると、傍らに絨毯が現れた。宙に浮かんで静止している。
「空飛ぶ絨毯か」
トリルが愉快そうに笑った。
「すごいな、ユーシャ。僕なんかよりずっと才能があるじゃないか」
二人は絨毯に乗り込んだ。
絨毯は白い空間を矢のように上昇した。耳の周りでごうごうと音がし、水滴が飛び散った。絨毯はどんどん上る。高く、高く。高く、高く――。
やがてぱっと視界が晴れた。見下ろすと朝日を浴びた雲海があり、更に下には真っ青な海が広がっていた。
「私たち、雲の中を通って来たのね」
「ちょっと上り過ぎたな。もう少し下降しようか」
「進む方角は?」
「とりあえず、風任せで」
ゆっくりと高度を下げながら、絨毯は朝日に向かって前進し始めた。
しばらく行ってから、不意にトリルがマズルカを見た。彼女はのんびりとユーシャの膝に座っていたのだ。
「君、付いて来るつもりなのか?」
「いけない?」
当然と言いたげな顔で見返されて、トリルは反応に困った様子だった。
「いけなくはないけど、初対面の僕に付いて来る意味が、君にあるのかと思って」
「二人は初対面なの?」
ユーシャはマズルカを見やった。
「でもマズルカ、あなたはトリルを知っていたようだったけど……」
「知ってたわけじゃないわ。私を閉じ込めた海賊が言ったのよ。ここを作ったのはある国の王子で、出たいならそいつに頼めって。もっともそいつも今閉じ込めてあるからお前が助かることはないがなって、嫌らしく笑いながら言ってたわ。そう、あなたがその王子様なのね」
マズルカはトリルをじろじろと見た。
トリルもマズルカを見返した。
「君は妖精だよね」
「ええ、そうよ」
「もしかして、空気の精?」
「ええ、そうよ」
「そうか。言い伝えは本当だったんだな」
ユーシャは首を傾げた。
「言い伝えって?」
「人魚姫の言い伝えだよ」
「――ああ」
そういえば、そんな話があったっけ。死んで海の泡になった人魚姫が、空に上って……。
「そうよ。私、元は人魚姫なの。これを見て」
マズルカが自分の耳を指差した。左の耳たぶにピアスが付いている。黒い真珠のピアスだ。
「善い行いを一つする度に、この真珠の色がだんだん薄くなるの。そして完全に白くなった時、私は人間に生まれ変われるのよ。自分では見えないけど、まだまだ真っ黒よね」
トリルはピアスを眺め、「真っ黒ってほどじゃないよ」と言った。
「ありがとう。ところで……」
マズルカの注意がユーシャの手元に向いた。
「そのバスケットには何が入ってるの? 食べ物?」
ユーシャもそちらを見た。ラルゴと一緒に、海底の店で買ったバスケットだ。
「何か食べる? 確か残りが……」
開けてみると、バスケットの中には残っていた以上にたくさんのパンと果物が入っていた。
「あら、ちょうどオレンジが食べたいと思ってたのよ。欲しいものが欲しいだけ出て来るの? 便利ねー」
マズルカは喜んで、切り分けられたオレンジを手に取った。
「私は人間と違って、食べなくても生きられるんだけど、おいしいものを食べるのは大好きよ」
トリルもパンに手を伸ばしたが、あまり食欲はないようだった。
「マズルカ、君が会った海賊はどんな奴だった?」
「覆面で顔を隠してたから人相まではわからないわ。でも、男の人よ」
「僕を閉じ込めて監視している間にも、よそで色々悪さをしていたわけか」
トリルは立てた膝に顎を乗せて考え込んだ。
「あの場所では外の様子は全くわからなかったからな。特に、ユーシャの声が聞こえなくなってからは、夜は息を殺してじっとしていて、昼間眠って、目が覚めたら時々貝殻に呼び掛けるくらいしか出来ることがなかったんだ」
「海賊は本当に退治されたんだと思う?」
ユーシャはトリルの横顔に聞いてみた。
「わからない。何か理由があって力が使えなくなっただけかもしれないし、それに……」
「それに?」
「……僕を閉じ込めた奴に何かあったとしても、西の海の海賊が一網打尽にされたとは限らない」
確かにそうだ。海賊騒ぎはまだ終わってないということか。
「トリルも、海賊退治の旅を続けるの?」
ラルゴにはもう懲りたと言っていたトリルだったが、あれが本心だとは思えなかった。仲間を探して旅を続けるということは、つまり……。
「アレグロの前では本当のことを言えなかったんだ。あいつが知ったら、きっと止めるだろうから」
「……そうね」
「私も海賊には腹を立てているから、追い掛けるなら協力するわよ」
マズルカが両手の親指を立てて見せた。
トリルは「頼りにしてるよ」と答えて笑った。
話をするうち、ユーシャは奇妙なことに気が付いた。トリルは十二日間、ユーシャから返事があるのを待ったと言った。だが、ユーシャはトリルとはぐれたその日にフォルテたちと出会い、翌日には船に乗り、船で旅をしたのは九日だ。つまり、まだ十日しか経っていないはずなのだ。残りの二日はどこに消えてしまったのだろう?
考えられるのは、あの鍵で開けたドアを通った時だ。
「これよ」
ユーシャはトリルに金の鍵を見せた。一度十字架のペンダントに通したのだが、巻き貝を通す時邪魔になったので外し、またポケットに入れてあった。
「この鍵を空中に差し込んだら、ドアが現れて、そのドアを通ったら、森の中から海岸に出たの」
この鍵で開けたドアを通ると、空間を飛び越えて別の場所へ行けるが、同時に時間も飛び越えてしまうのではないだろうか。
二人は鍵を眺めて考え込んだ。
「……当分、この鍵を使うのはやめた方が良さそうね」
「待って、僕が間違っているのかもしれない。あの場所では時間の経過がわかりにくかったから」
「誰かに聞いてみる?」
「誰か……いるかな」
ちょうどその時、眼下に島が見えて来た。入江の方から煙が立ち上っている。誰かいるようだ。
ユーシャたちは、遠巻きにそっと近付いてみた。煙の先には焚き火があり、そのそばに二人の人間がいた。片方は大柄で縞模様のシャツを来た三十がらみの男だ。もう片方は小柄で、丸刈り頭に褐色の肌……。
「あれ、スラーだわ」
「知り合い?」
「潮風号に乗っていた人よ」
「僕の船じゃないか」
「そうよ」
「……下りてみよう」
二人の男は激しく言い争っていた。今にも掴み合いの喧嘩になりそうな雰囲気だ。二人の言葉は早口で、何を言っているのか聞き取れない。
「止めた方がいいのかな」
ユーシャが言うと、トリルは曖昧に頷いた。
「そうだね。喧嘩はつまらない」
「でも、私たちの言葉に耳を貸すかしら?」
「嫌でも喧嘩をやめたくなるように仕向ければ……」
「どうやって?」
「……驚かすとか」
ユーシャはドラゴンの剣を抜き、空に向かって振りかざした。空中に巨大な火柱が上がり、当然のことながら、二人の男は慌てて飛びすさった。
「何だ、何だ、何なんだ」
スラーは肝を潰したらしく、おろおろと辺りを見回した。
「喧嘩は良くないよ。やめた方がいい」
絨毯の上からトリルが言った。
「何なんだよ、あんたら……あ!」
スラーはユーシャに目を止めると途端に笑顔になった。
「ユーシャー! ユーシャじゃないかー!」
「元気そうね、スラー」
ユーシャも笑顔で答えた。
「それで、さっきの喧嘩の原因は一体何だったの?」
「あー……」
スラーは決まり悪そうに頭を掻いた。
「夢を見たんだ」
「夢?」
「ここは夢の島といって、この島で夢に見たことは、必ず現実に起こるんだって。昨日ここで会った人が教えてくれた。で、昨夜俺は舟の壊れる夢を、タイは――あ、こいつの名前、タイっていうんだ――こいつは俺がハンマーを持ってる夢を見たらしいんだ。実際、朝起きたら繋いで置いたはずの舟が壊れてたんだよ。俺が壊したと疑ってんのかよって、それで言い争いになったんだ」
「簡単なことじゃないか」
話を聞いたトリルがにこやかに言った。
「君たちは二人で舟を修理するんだ。舟が壊れたのはしっかり結び付けて置かなかったから流されて岩にぶつかったからだし、ハンマーを持っていたのは直すのに必要だからだろう」
スラーとタイは顔を見合わせた。
「未来のことを夢に見るなんて面白いわね。ここで一晩過ごしてみない?」
マズルカが飛び出すと、スラーたちはまたぎょっとして後ずさった。
「そうね……」
ユーシャはトリルの反応を窺った。
「トリル、どうする?」
「先を知るのは好きじゃないけど……」
トリルはちらりと二人の男に目を向けた。
「このまま去るのも惜しいな。今晩はここに泊まるか」
「決まりね!」
マズルカが嬉しそうに手を叩いた。
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