どこかの国の王子

「やっぱりお前だったんだな、トレモロ」

 ラルゴがゆっくりと言い、一歩前に踏み出した。

「アレグロ」

 トリルは呟き、一歩後ずさった。

「お前、なぜ……」

「アレグロ?」

 ユーシャはトリルとラルゴを見比べて、あっと思った。トリルもラルゴと同じ、黒い髪に緑の瞳だ。トリルの方が少し幼く髪も短かったが、二人はとてもよく似ていた。

「どういうこと? あなたたち、もしかして……」

「彼が僕の弟なんです」

 答えたのはラルゴだった。

「それじゃ悪魔に囚われている王子様というのは、トリル――あなたなの?」

「騙すつもりはなかったんだ」

 トリルが慌てて弁解した。

「ただ、自分が王子だということは、口にしたくなかったと言うか、王子でありながら醜態を晒すのは情けなかったと言うか」

「僕も、さっきユーシャが貝殻を出すまで、トリルがトレモロだとは思いもしませんでした」

 ラルゴはトリルを睨んだ。

「結局のところ、お前が海賊の首領だったわけか。海底にこんな空間を作り、海賊に捕まったなどと嘘をついて、自分で自分の身代金を国に要求し……」

「違う、違うよ」

 トリルは胸の前で手を振った。

「確かに、ここに色々なものを作り出したのは僕だけど、捕まっていたのは嘘じゃないし、身代金の要求なんかしてないし……第一僕は海賊じゃない」

「本当か?」

「ああ。……僕が海賊の首領だっていう噂が流れているのは知っていた。だから船を買って仲間を集め、海賊退治に向かったんだ。正体を突き止めて、疑いを晴らすためにね。ところが、船に海賊が紛れ込んでいたらしくて、僕は海に落とされてしまったんだ。咄嗟に魔法の本に書いてあった呪文を唱えたおかげで、死なずに済んだんだけど……」

「魔法の本?」

 ユーシャが聞き返すと、トリルは頷いた。

「祖母にもらった三つのお守りのうちの一つだ。あとは光る剣と、虹色の巻き貝。三つのうち二つは、幸い海の底に引きずり込まれたあとも僕の手元にあった」

「魔法の本を使って、洞窟やら氷の道やらを作り出したのか」

 ラルゴが叱り付けるように言った。

「気を紛らすためだったんだよ。この海底で目を覚ました時、周りには何もなかった――真っ白だったんだ。どこまでも、果てしなく。真っ暗な方がまだましだと思ったよ。頭がおかしくなりそうだった。だから魔法の本で……」

「まずはここから出るための呪文を唱えるべきだろう」

「もちろん、真っ先にやってみたよ。でも出られなかったんだ。あれこれ試して、ものは出せるとわかったから……」

「おかげで無関係な人間までが巻き込まれたんだぞ」

「そうだわ。まだフォルテたちが迷っていると思うの。何とかしてくれない?」

 萎れているトリルがかわいそうになって、ユーシャは助け船を出した。

「ああ。それじゃ……」

 トリルは両手を見下ろし、あれ? と言ったあと、顔を上げ、さっき自分が落ちて来た辺りの床から、階段へと視線を移動させた。ユーシャとラルゴはトリルのそんな様子をじっと見守った。

「さっきの呪文で消えるかと思ったけど、どうやらこの家は無事だったみたいだな……」

 一通り確認し終わると、トリルは二人に向き直った。

「とりあえず、二階に行こう。魔法の本を置いて来てしまったようだから」

 トリルを先頭に、三人は白い階段を上がり、白い廊下を左に進んだ。突き当たりには白いドアが一つあった。

「ここだよ」

 入ってみると、その部屋もやはり白で統一されていた。窓から柔らかい光が射し込み、大きな白いベッドを照らし出している。

「随分快適に暮らしていたんだな」

 ラルゴが皮肉っぽく言った。

「そうだね。やり過ぎたと、自分でも思う。そのせいであいつに気付かれて、僕はこの部屋に閉じ込められ、本も読めないようにされてしまったんだ」

「あいつ? 誰のことだ?」

「誰だかはわからない。僕は悪魔と呼んでいたけど」

「それは海賊の首領だろう。怪しい力を持った魔術師だって話だから」

「多分、そうなんだろうな」

 トリルは曖昧な言い方をした。

「魔法の本の呪文を何度試しても、僕がこの場所から逃げられなかったのは、相手の持つ力の方が上回っていたからだと思う」

「そいつの顔は見てないのか? 監視されていたんだろう?」

「……顔なんて見えないよ。闇の中にいるんだから」

「闇?」

 ユーシャは思わず反応し、トリルを見やった。

「ああ。夜になると、この海底も闇に包まれる。急に冷え込んで、体中が縛り付けられたみたいに動けなくなって……そして、感じるんだ。暗がりから僕を凝視する、ぞっとするような強い視線を」

 トリルは部屋を横切り、窓に近付いた。

「それが、どういうわけか、昨夜はあいつが来なかった。ユーシャとの通信を切ったあと、覚悟して身構えていたのに、結局現れないまま夜が明けて――さっき試したら、本の封印も解けていた」

 窓の下に机があり、金平糖の詰まった瓶と、青い砂時計と、一冊の本が置かれていた。

「これが魔法の本だ」

 トリルは本を手に取り、ページをめくると何やら呪文を唱えた。

「沈んでいた船は海の上に戻したよ。海底にいた人たちも、今頃みんな船に乗っているはずだ。ユーシャはどうする? アレグロは?」

「お前はどうするんだ?」

 ラルゴが逆に問い返した。

 トリルは俯いた。

「アレグロ、お前は僕を国へ連れ戻しに来たのかもしれないが……」

「僕は帰らない、と言うんだろう? 王宮の生活は窮屈だ、僕は自由でいたいんだ――と」

「……」

「わかってるさ。無事を確かめられただけで良しとするよ」

 ラルゴは少し考えてからユーシャに目を向けた。

「僕は国へ戻ります。ユーシャ、あなたも来ませんか?」

 突然の申し出に、ユーシャは驚いてラルゴを見た。

「あなたの国へ?」

「僕の婚約者の話し相手になっていただきたい」

 顔を上げると、トリルと目が合った。

「僕は仲間を探して旅を続ける。君は君のしたいようにしていいよ」

 ユーシャはトリルに向かって微笑んだ。

「私のしたいようにするなら、私はトリルと行くわ。だめとは言わないんでしょう?」

 答えの代わりに、彼は笑みを返した。

「仕方がない、僕は一人で国へ帰るか」

 ラルゴがため息をついた。

「その前に、海賊退治のお役目を辞退すると断って行かなければな。とにかく、船に戻してくれ」

 トリルは頷き、また本をめくって呪文を唱えた。

 窓の外に白い泡が集まり、階段になってずっと高くまで繋がって行くのが見えた。

「あの階段は船の上に続いている。急ごう。消える前に上らないと」

 三人は慌ただしく部屋を出た。

 ドアを閉める前に、ユーシャは机の上を振り返った。

「あの瓶と砂時計は置いて行っていいの?」

 トリルも振り返って答えた。

「瓶の中の金平糖は非常食だ。いくら食べてもなくならないし、少量で空腹が凌げる。砂時計は、時間の経過を知るために出したんだ。もう必要ない」

「あなたを閉じ込めていた悪魔は、どこに消えてしまったのかな」

「きっと、どこかで誰かに退治されたんですよ」

 一足先に階段を降りながら、ラルゴが口を挟んだ。

「あの海賊には賞金まで掛けられていたんですから」

 ユーシャとトリルもラルゴのあとを追った。

 階下に着いたラルゴがドアを開けた。

「やっと解放されたんだから、もう海賊を退治しようなんて無茶は考えないことだな」

 トリルはラルゴの言葉に苦笑した。

「ああ、もう懲りたよ」

 揃って白い家を出ると、ラルゴは白い階段に向かった。

「それじゃ、二人とも達者で」

「ありがとうラルゴ、あなたも」

 ユーシャとトリルはラルゴと握手を交わし、別れた。

 ラルゴが上って行くと、白い階段は下の方からゆっくりと消え始めた。

「ユーシャ」

「なあに?」

 トリルはユーシャをしみじみと見ていた。

「君は僕が想像していたより大人っぽいな。それに、声もずっときれいだ」

 トリルにも、貝殻を通したユーシャの声は、あの加工されたような甲高い声に聞こえていたのだろう。

「トリル」

「何だい?」

「あなたに会ったら、これを渡そうと思ってたの」

 ユーシャはトリルの首に、十字架のペンダントを掛けた。

「これは?」

「お守りよ。あなたの身を守ってくれるわ」

「それなら、君が持っていなくちゃ」

「私は大丈夫。悪魔や海賊に狙われてるわけでもないし。その代わりと言っては何だけど、この貝殻は私が持ってていい? これがあれば、いつでもトリルと話せるし」

「わかった」

 トリルは頷き、微笑んだ。

「この本もユーシャが持っていた方がいいかな。僕はやりたい放題やってしまったから、しばらくは自重するよ」

 ユーシャはトリルが差し出した魔法の本を受け取った。

 その時、彼方から青白い光が飛んで来た。

「あれは?」

 トリルが気付いて目を凝らした。

 それは背中に透き通った羽を生やした、手のひらに乗るほどの小さな女の子だった。彼女はユーシャのそばで止まり、鈴が鳴るような声で言った。

「あなた、さっき話し掛けて来た人ね。私を助けてくれたのね、ありがとう!」

 声を聞いて、ユーシャにも相手が誰だかわかった。

「マズルカね。出られて良かったわ」

 いつの間にか、レンガの家も、川も草原も、全てが消え失せ、周りはまた真っ白な空間になっていた。

「ゼロに戻ってやり直しだ」

 トリルが呟き、ユーシャを見た。

「さあ、ユーシャ。これからどうする?」

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