どこかの道
気が付くとユーシャは、小舟に乗って川を下っていた。
左右に切り立った崖があり、川幅は狭かったが、流れは緩やかだ。上空には白い靄が立ち籠め、水の面のように揺らめいている。
――ここはどこだろう? 確か、船は渦に巻き込まれて沈んだはず……。
やがて小舟は岸にぶつかって止まった。川は途切れてなくなり、代わりに木立に挟まれた道があった。ここからは歩いて行くしかないらしい。
ユーシャは陸に上がろうとして、変身が解けていることに気が付いた。まあいいか。ここでは鸚鵡より、人間の姿の方が行動しやすいだろう。
道の両側に並ぶ木々は白っぽく、まるで雪に覆われて凍り付いているように見えた。細い葉が生い茂り、ところどころに花が咲き、実を付けている枝もある。そして、その全てが青白く透き通っているのだった。
幹に触ってみると冷たかった。――これは氷だ。氷で出来た木なのだ。地面も氷で覆われている。ユーシャは滑らないように用心しながら、氷の道へ踏み込んだ。
――他のみんなはどうしたのだろう。ここはどこなのだろう。この道はどこに続いているのだろう。
しかし、行けども行けども景色は変化しなかった。冷たい氷の木立が延々と連なっている。黙々と歩き続けて、ようやく変化が現れたと思ったら、さっきより厄介なことになった。道が二つに分かれていたのだ。これは予想外だ。どうしよう?
ユーシャは分かれ道に近付き、どちらに進むべきか思案した。
全く同じに見えたが、よく見ると二つの道は微妙に違っていた。左の道の木の実は氷で出来ていたが、右の道の木にはきらきら輝くダイヤモンドが生っていた。地面にもダイヤモンドが敷き詰められている。何か意味があるのだろうか?
氷の道の凍った地面よりは、ダイヤモンドの道の方がまだ歩きやすいかもしれない。右の道へ行くか……そう決め掛けていた時だった。不意に、マントの下に何かの気配を感じた。これは……ペンダント?
鎖を手繰って引っ張り出してみると、虹色の巻き貝が光っていた。そして……。
「ユーシャ!」
トリルの声がはっきりと聞こえた。
「ユーシャ、そこにいるのか?」
ユーシャは巻き貝に向かって呼び掛けた。
「トリル?」
「その声はユーシャだね。良かった、何度呼び掛けても返事がないから心配していたんだ」
ああ――トリルの声だ。広間で初めて聞いた時と変わらず、加工された、人間味のない声。でもその奥に、なぜか温もりを感じさせる声。トリルと別れたのはほんの数日前だというのに、まるで遠い昔のことのように懐かしかった。
「トリル、無事だったのね」
ユーシャは虹色の巻き貝を両手に載せて覗き込んだ。
「こっちだって心配したのよ。あなたは悪魔にやられちゃったのかと思ったわ」
「そうか……ごめん」
「あなたがいないと、これからどうしたらいいのかもわからないし。王子様を助けるにしたって……」
「そのことは忘れてくれ」
「え?」
「もういいんだ。僕が悪かった」
トリルの声音は暗く沈んでいた。
「僕が間違ってたんだ。見ず知らずの、それもか弱い女の子に助けてもらおうなんて」
「……その辺り、ちょっと誤解があるみたいだけど」
「これ以上、君を危険な目に遭わせるわけには行かない」
「自分から頼んで置いて、今更それはないでしょう」
「ごめん。まさか悪魔があんなに早く君を見つけるとは思わなかったんだ。まだこちら側にいるから大丈夫だと油断していた」
――こちら側?
「こうして話しているだけでも気が気でないんだ。悪魔が僕の様子を見るために、いつ現れるかわからない。君に連絡していることを知られたら……」
――連絡?
「本当に、僕は考えなしだったよ」
「ちょっと待って」
ユーシャは慌てて口を挟んだ。
「あなた、貝殻の中にいるんじゃないの?」
「いや、この貝殻は通信手段に使っているだけだ。僕の手元に君の持っている貝と対になる貝があって、悪魔の目を盗んで君に話し掛けてるんだよ」
「それじゃ、あなたは今どこにいるの?」
「はっきりとは言えないけど、多分海の底だ。船から落ちて、海の中に引きずり込まれて、下へ下へと沈んで行って……そのあとのことはよく覚えていないんだ」
「海の底……」
ユーシャは空を見上げた。ゆらゆらと陽炎のようにたゆたっているあの光が、空ではなく、海なのだとしたら……。
「私も今、同じ場所にいるのかもしれない」
「何だって?」
トリルが息を呑んだ。
「貝殻をなくして、あなたと話せなくなったあと、私は町に行って、王子様が西の海にいるって情報を手に入れたの。それで、船に乗って……」
「だめだ、西の海には来ちゃいけない。すぐ引き返すんだ。ここには悪魔がいる」
「後戻りしたくてももう無理なのよ。西の海まで来たら、船が渦に巻き込まれて、気が付いたら小舟に乗って川を流されていて……今は氷の道で立ち往生しているの」
少しの沈黙のあと、トリルは苦しげに呟いた。
「……そこまで来てしまったのか」
やがて彼は気持ちを切り替えたようだった。
「氷の道で、困ってるって?」
「そうなの。道が二つに分かれていて……どっちに進めばいい?」
「ああ、それなら何とかなる」
「本当?」
「僕の言う通りにするんだ。まず、氷の木から一本、枝を折って」
言う通りにすると、折った枝が光を放ち、凍った道に向かって帯のように長く伸びた。
「枝から伸びた光が左の道を指しているわ」
「そうか」
巻き貝の向こうから、トリルのほっとした声が聞こえた。
「光が指し示す方へまっすぐ進むんだ。その道を少し行くと洞窟があるはずだから、見つけて中に入ってくれ。一旦通信を切らないと……そろそろ悪魔が現れる頃なんだ。何かあったらまた僕の名前を呼んで。出来る限り答えられるようにするから」
「この道を進めば、あなたのところへ行けるの?」
「多分」
「悪魔に見張られているってことは、あなたも悪魔に捕まっているのよね。王子様は一緒じゃないの?」
「……うん。ここにいるのは僕一人だ」
「じゃあ、まずはあなたを助けに行くわ。それから一緒に王子様を探しましょう」
トリルはもう、だめだとは言わなかった。
「くれぐれも気を付けて。無茶はしないで、危ないと思ったらすぐ逃げるんだよ」
「か弱い女の子には、悪魔だって手を出さないから平気よ」
トリルは微かに笑った。
「だといいんだけど」
それきり声は聞こえなくなった。
とにかく、トリルの無事を確かめられて良かった。トリルは生きている。生きて、元気でこの海の底にいる。それだけで、ユーシャも力が湧いて来る気がした。
――よし、先へ進もう。
トリルに言われた通り、氷の道をまっすぐ行くと、木陰に隠れて、確かに洞窟の入り口があった。中は薄暗い。氷の枝は溶けて半分ほどの大きさになり、光も弱まっていた。別の明かりが必要だろう。
洞窟の入り口にはご丁寧に蝋燭が三本置いてあった。黒くて太い蝋燭と、銀の燭台付きの白い蝋燭。残りの一本は赤く、何か文字が刻んである。
トリルに呼び掛けてそれぞれの性能を聞こうかと思ったが、まだあまり時間が経っていないし、さほど困った状況でもなかったので、自分で選ぶことにした。
まず、長持ちしそうなのは太い蝋燭だが、持ち運ぶのが大変そうだ。それに、全身真っ黒なのが妙に気になる。赤い蝋燭も、いかにも呪われていそうだ。ここは無難に白い蝋燭にしよう。燭台付きだから持ちやすいし、多分危険もないだろう。
ドラゴンの剣を振って火を灯し、燭台付きの蝋燭を拾い上げると、ユーシャはそれを高く掲げ、洞窟へと入って行った。
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