どこかの森
ユーシャはハートの模様が描かれたドアに、緑色のノブを付けた。そのままぐいと押して開くと、明るい光が射し込んだ。
そこはまさしく森だった。
ユーシャが立っていたのは、茂みと茂みの間の窪地だった。振り返ってみたが、ドアはなくなっていた。――と思う。実はよく見えなかったのだ。木が空を覆い隠すように密集しているためか、ひどく暗い。
暗いのは苦手だ。こんな森はさっさと抜け出そう。
「トリル、聞こえる?」
足早に歩き出しながら呼び掛けると、答えはすぐに返って来た。
「どうした? 何かあったのか」
「ううん。王子様の名前を聞いてなかったなと思って」
気を紛らすために、何でもいいから話がしたかったのだ。
「王子の名前……」
トリルは口ごもった。
「それは、ちょっと言えない」
意外な反応だ。
「どうして? 王子様の名前は畏れ多いから口にしちゃいけないとか?」
「そういうこともないけど……悪魔を刺激したくないんだ。王子の身が危険になるから」
そういうものなのか。
「だったら、王子様の特徴を教えて。もし見つけても、王子様だってわからなかったら意味ないし」
「特徴って?」
「髪の色とか、目の色とか」
「髪の色は黒、目の色は緑だよ。珍しい組み合わせだから、すぐわかると思う」
いくら何でも、手掛かりがそれだけでは難しいと思う。
「他に特徴はないの?」
「悪魔に攫われる前、最後に見た時は、黒っぽい服を着ていた気がする。あと、確か剣を持っていた。暗いところで発光する、氷のように透明な剣。いや、あれはもう手放していたかな……」
「あやふやなのね」
「どうも記憶がはっきりしないんだ。長いことここに閉じ込められているせいで、朦朧としているのかもしれない」
「大丈夫?」
「心配しないで。大事なことはちゃんと覚えてるから。他に何が知りたい?」
「悪魔の特徴がわかるといいんだけど」
トリルは考え込むように間を置いた。
「……悪魔だから、人の姿はしていない。いつも同じ姿でもない。接触するとひどい目に遭う」
「あなたみたいに?」
「うん。だから、絶対に近付いちゃだめだ」
特徴がわからないのでは、それも難しい。
「それにしても、暗くて歩きにくいなあ。今って夜なの?」
「暗い……? まさか!」
トリルが息を呑んだ。
「逃げるんだ! そこは危ない」
「危ない?」
急にそんなことを言われても……。
「逃げるって、どこに逃げればいいの?」
「鳥に変身して、空の上に……」
その瞬間、強い風が吹き付けて来た。
あっと言う間の出来事だった。カン、と音がして貝殻がペンダントの鎖から外れた。飛んで行く虹色の巻き貝を、慌てて掴もうと踏み出した足が空を切った。そこには地面がなかったのだ。
次の瞬間、ユーシャは斜面を滑り落ちていた。
幸い下は柔らかい草地だったので、怪我はしなかった。ただ、落ちたショックで少しの間目が回っていた。
やっと焦点が合うと、今度はあまりの明るさに目が眩んだ。
――え? 明るい?
ユーシャは急いで体を起こした。
木々の間から日が射し込み、辺りを照らしている。
「この森、こんなに明るかったんだ……」
そういえば、ドアを開けた時、隙間から明るい光が見えたっけ。暗いなんておかしいと気付くべきだったのに。
――そうだ。トリルは?
胸元を探ったが、そこに巻き貝の感触はなかった。さっき風に乗って飛んで行ってしまったのだ。
大変だ、早く探さなきゃ――。ユーシャは斜面を這い上った。
「トリル?」
さっきいた場所は、さっきとは打って変わって穏やかな静寂に満ちていた。暗さも重さも禍々しさも、全て消えている。あの闇は何だったのだろう。襲い掛かって来て置きながら、なぜすぐに消えてしまったのだろう。
「トリル、どこにいるの?」
名前を呼びながらさんざん探したが、虹色の巻き貝はどうしても見つからなかった。闇が起こした風に吹き飛ばされて、遠くまで運ばれて行ってしまったのかもしれない。
だったら、この辺りばかり探していてもしょうがない。ユーシャはトリルが最後に残した助言に従い、鳥に変身して空を飛ぶことにした。
試しているうちに、マントで変身出来るのは自分より小さなものだけだということがわかった。逆に小さ過ぎるものに変身すると、体が重くて動かない。体の形を変えても、重さは変わらないということだろう。鳥になる時は小鳥ではなく、大きくて強い翼を持つ鳥を選ばなければならなかった。マントは身に着けている他のものと同様、変身したものの一部になるらしく、元に戻るまでは見えなくなっていた。
鳥の姿でも、目や耳は元の姿の時と同じように使えるようだったが、あまり意味はなかった。上空から小さな巻き貝を見つけるのは困難だったし、しばらく飛ぶと羽根が痛くなったので、また森の中に降りた。
トリルを――巻き貝を――あんな小さなものを探すなんて、そもそも無茶だ。
どうしよう。「これからどうすればいいの?」と聞きたくても、聞ける相手はいない。トリルはいない。まずはトリルを見つけなければ、王子様を探すことも出来ない。何か他に方法はないだろうか。トリルを探す方法は。
何気なくマントのポケットを探ると、小さな固いものが手に触れた。
「あ、これ……」
使い道のわからない、例の鍵だ。
「この鍵にも、何か不思議な力があるのかな……」
手のひらに載せて少し考えてから、 ユーシャはそれを空にかざし、鍵穴に突っ込んで回す真似をした。
すると、カチャリと音がしてドアが開いた。今の今までそこにはなかったドアだ。突然、出現したのだ。ユーシャは呆気に取られて立ち上がった。
ほんの少し開いたドアの隙間から、灰色の空が覗いている。今いるこの森は、こんなに明るく晴れているというのに。ドアの向こうはどこに繋がっているのだろう?
ユーシャはそっとノブを回した。
そこは、海岸を見下ろす丘の上だった。雲に覆われた空の下に、青い海が広がっている。通り抜けると、ドアはふっと消えた。
ユーシャはゆっくりと、砂浜へ下りて行った。潮風が髪を揺する。静かだ。何だか、巻き貝を拾ったあの海岸によく似ている。
――ということは、もしかして……。
「トリル――!」
ユーシャは声を限りに呼んでみた。砂を掻き分け、水の底に目を凝らし、波打ち際を行ったり来たりした。しかし、虹色の巻き貝はどこにもなかった。小さな貝一つ落ちていない。
「トリル、返事をして!」
繰り返し呼んでも、答えは返らない。
ユーシャはポケットに入れた鍵を、もう一度取り出して眺めた。
一瞬期待してしまったが……考えてみれば、これが会いたい人のところへ行ける鍵なら、王子様だって簡単に見つけられるだろう。そんなに都合良く行くはずがない。だが、全く役に立たないわけでもなさそうだ。鍵がユーシャを、あの森の外へ連れ出してくれたのは確かなのだから。
貝殻の代わりに鍵をペンダントに付けて置こうとして、鎖の先で揺れている十字架が目に止まった。――そうか。闇が私に手を出せなかったのはこれのせいだったのかも。
鍵も十字架も絶対に手放さないようにしようと決心して、しっかりと服の下に仕舞い込んだ。
それからしばらく待ってみたが、結局、トリルの声が聞こえることはなかった。代わりに町の喧騒が聞こえて来たので、ユーシャは諦めてそちらに向かった。
町は賑やかだった。石畳の道に、背の低い家や店が並び、たくさんの人が忙しなく行き交っている。大人もいるし、子供もいる。
立ち尽くしていると、突然、後ろから声を掛けられた。
「大きな剣だね」
ユーシャはびっくりして振り返った。
背後に、少年のような身なりの女の子が立っていた。癖のある長い赤茶色の髪をポニーテールに結び、人懐こそうな黒い瞳で、にこにことユーシャを見つめている。
「今日、この町で剣術大会が行われるんだ。上位の者には賞金が出るし、特別なお役目ももらえる。どう? 出場してみない?」
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