気まぐれ青春短編帳

青野はえる

一 余韻

 校庭にポツンと佇む一脚のベンチ。そこに、見慣れた女性の影が座っていた。

 僕は遠慮するでもなく、おもむろにその影に近づいていき、側へ至った所で、俯いた彼女の顔を覗き込んだ。


 「何してるんすか、先輩」


 「へっ!? て、な、なんだ……君かぁ……」


 驚かせないでよ、もう、なんて言って、先輩は頬を膨らませて見せた。驚かせるつもりはなかったのだが、相当意識が飛んでいらっしゃったようで。これは致し方ない。


 彼女は僕に、二年間余りもの長期間、夏はむさ苦しく、冬は凍えるような格技場の中で、卓球のイロハを教えてくれた、恩師であり、先輩だ。

 溌剌とした甲高い声で叫ぶ練習中の彼女はとても煌びやかで美しかったのだが、対して彼女にはまた、こんなふうに背を丸めて、視界かボタン穴くらい狭くなるほど考え込むという、僕のイメージにそぐわない習慣があった。

 とりわけ、6月上旬の大会を終えて、ラケットの柄を握る姿を拝めなくなったここ最近は、それが顕著に見られるようになった。


 大学受験を半年後に控えて、何か思い悩むことでもあるのだろうか。

 初夏を告げる、ニイニイゼミの、ジーッジーッ、という鳴き声が、穏やかな暑さに汗ばむ僕の耳を突き刺す。

 夏休みは、受験の天王山なんて言われるくらい大変な時期だが、それを前にして、憂いているのかもしれない。何を憂うことがあるのか、僕には少し分かりかねるけど。


 「何を考え込んでたんですか?」


 とりあえず、思うままを問いかけてみた。

 すると、彼女は少々黄昏たような、寂寥感を含ませた声で


 「人はどうして、恋をするのかなってね」


 なんていうふうに返してくるものだから、僕はいささか反応に困った。渋々、適当に見繕った言葉を投げかけてみる。


 「先輩、誰に、恋してるんですか?」


 人は、含意のある発言をする時、少しばかり真理への問いかけのような、格式張った物言いをしたくなる習性があるらしいので、今のはそういう意図があるのだろう、と受け取ってみた。

 案の定彼女は肯定するように頬を緩めたのだが、返された言葉は、僕の考えの範疇を優に飛び越えていた。


 「この前読んだ、小説の主人公に」


 僕は呆れて、しばらく何も言えなかった。実在の人間ではなく、架空の人物に恋をしたというのだから、どうにもしようがない。それだけ、その主人公が恰好良く描写されていて、小説そのものの質も高かったのだろう、なんて推察もできるが、彼女の場合だと、少し事情が違う。

 これはつまり「いつものアレ」というやつだった。


 読者が何を思おうと、ラノベでもない限り、ただの活字でしかない空想上の男のことを思い、ほうけた笑みを浮かべる彼女に、僕は口添えした。


 「先輩、試しに、僕のおすすめの小説、読んでみませんか?」




 翌日の昼休み、校庭に足を運んだ僕は、例の如く、彼女を見かけた。全く同じ場所で、同じように思い詰めている。


 「こんにちは、先輩」


 僕の言葉に反応して、顔を上げた彼女。こころなしか、下瞼に陰りが目立っている。

 さては、と感づいた僕は、こんにちは、といいつつ、大きな欠伸をするこのどこかだらしのない先輩に、質問を切り出した。


 「先輩、昨日何してました?」


 「君が教えてくれた本、書店ですぐ買って、夜通し読んでた! いやあ、面白かったよ」


 予想から全く逸れない、筋書き通りの反応だった。まったく、夜通し勉強に明け暮れるのではなく、夜通し本を読んでる受験生が、一体全体このご時世、どこを探せば見つけられるだろうか。


 予想が当たって落胆する出来事なんていうのは、あまり数を見ないものだと、70年以上生き続け、今なおご健存の祖父が、得意げに話してくれたことを何となしに思い出したのだが、僕がそこに勝手ながら言葉を付け足すとするなら、恐らくこんなものだろう。


──数を見ない分、遭遇する時はまとまって遭遇するものだ、と。


 というのも、先輩の言葉にはまだ、続きがあって、それはやはり


 「私、この小説の主人公に、恋しちゃったかもしれない、ほんと、切実に……」


 という、聞き慣れたセリフなのである。


 経験上、言わせてもらおう。それは恋ではない。ただ、物語の余韻に浸っているだけだ。余韻に浸る時、男であれば、魅惑的な女性登場人物に心惹かれることもあるし、女ならば、勇ましい男性登場人物に魅了されることもあろう。

 でも、結局のところそれは、大小差はあれど、この物語から離れたくないという、どこか中毒性のある余韻を構成する、その一部分に過ぎないのだ。

 特段、先輩は一時の感動に心を激しく揺り動かされるというタチで、これまでも、この映画の主人公に恋をした、だの、この時代劇の主人公かっこ良すぎて本気で惚れちゃった、だの、何かにつけては、惚気のろけた発言を繰り返す。まさしく、「いつものアレ」というやつだった。


 吊り橋効果みたいなもので、見ているこっちとしては少しむず痒いのだが、本人が幸せそうにしている中で、幻想を打ち砕くのは何だか忍びない。日常生活に支障をきたさない範囲でなら、別にいいかな、なんて考えたりもする自分がいて、我ながら甘いな、と僕は思った。


 喜んでくれて何よりです、と抑揚の薄い声で呟く僕の顔をいつの間にか先輩は覗き込んできた。あどけなくも爽やかで美しい顔から、甘い香りが漂ってきて、何だか気が気でない。


 「でもさ、やっぱり感謝しないとだよね」


 「だ、誰に?」


 常よりか多少ぎこちない僕の声を包み込むように、彼女は言った。


 「こんな面白い本を教えてくれた、君に……ありがとね、私なんかのために」


 僕は、何も言うことができなかった。こんなに率直に、彼女が礼を言ってくれた例を、僕はこれまで知らなかった。


 そうして、数刻置いた後、彼女の唇は、ゆっくりと丁寧に動いたのだ。


 「……一番好きなのは、どんな主人公よりも、そんな優しい君だよ」


 刹那、時間の流れも、空間の奥行きすらも、感じない、無に等しき間が、僕と先輩を包み込んだ。何だろう、この感覚は。まるで、現実から逸脱しているようだ。それこそ、小説みたいに、叙情的に。


 二人を現実へと引き戻したのは、オクターブの低い、のっそりとした予鈴だった。私、もう行くね、君も早く戻りなよ、じゃあね、と焦り声で言い放った後、先輩は校舎の陰へと消えていった。

 ジーッ、ジーッと、耳を抉るような不快な鳴き声が、どうしてか今日は、余計に鬱陶しく感じる。頭が、妙に火照って熱い。天気予報によれば、平均気温は昨日とさほど変わっていないはずだったのに、なんとも奇妙だ。

 でも僕は、どんな状況であろうとも、冷静を突き通したい。この熱は決して、胸を蠢くモヤモヤとした感覚と、混同してはならない。蝉の声が酷くうるさいのだって、先の無の世界の余韻に、意地悪く浸ろうとする甘え心のせいなのだから、そんな心はいっそ早く排除したい。そして、暑いのはあくまでも、この快晴の空に堂々と浮かんだ太陽のせいだと、僕はそう、断言したい。


──今思えば、昨日の彼女もまた、そうして感情と気候とを区別しようとしていたのかもしれない。行き場を失った感情の先に、たまたま小説があっただけで。


 先輩に紹介した本、久しぶりに、自分でも読んでみようかなあ、と、そんな気になった僕であった。

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