第一章 アルスの黒血人

第11話 【天陰大神】の目覚め

(我は、何処で間違ったのだろうか。)


 神として『ゼクト』に生じてから初めて体験する意識がはっきりとしない状態で、【天陰大神】はずっと自問自答していた。彼はこれまで常に世界全体の事を考えてきた。そのために異世界からの侵略者共と戦い、世界を満たす『氣』のバランスをとるために災害を起こして来たのである。

 『ゼクト』では対を成し、バランスがとれていることが必要不可欠だ。人間の単位で言う一日における昼と夜の時間はどの星であっても一分一秒のずれも無く同じであるし、神は必ず対となる相手が存在する。何にしても相反する同量の存在があって初めて調和がとれるのだ。

 そして世界を構築する重要な要素であるものに『陰の氣』と『陽の氣』がある。これらは人間が魔術と呼ぶ現象の源であり、生み出すのは生物の魂と感情だ。前者は憤怒や憎悪などネガティブな感情が、後者は歓喜や至福などポジティブな感情が発生源である。魔術とはこれらを用いる術の総称であり、『陰の氣』を用いれば『陰術』、『陽の氣』を用いれば『陽術』と呼んでいた。具体的に言えば邪教徒たちが用いていた術は『陰術』で、他の人間たちが魔術と呼ぶ術は正確には『陽術』である。


(しかし人間の誕生が、世界に変化を齎した…。良い方向にも、悪い方向にも…。)


 術の名称は兎も角、それぞれの『氣』の総量が同じであるのが理想的な状態なのだが、生物の感情を原料としているので発生する『氣』の量は常に変動している。そうするとどうしても『陰』と『陽』のどちらか片方に偏りが出てしまう。他の星はそうでもないのだが、高度な知性を持った生命体である人間が生息している星では『陽の氣』が誤差の範囲を超えて増えやすくなってしまった。そうするとバランスをとる必要があり、効率的かつ確実に『陰の氣』を増やすために【天陰大神】は【天命陽神】と共に『陰の氣』を生み出しやすい新たな生命体として魔獣を創り出し、これまでよりも頻繁に災害を引き起こしてたのである。

 大昔の人間は神々の事情を知っていたのだが、永き時を経て人間は一部を除いて真実を歪めて伝えていった。今では邪教徒呼ばわりされていた者達と『海の民』、そして都会で流行っている宗教などとは無縁の者達だけが、神々の事情を本当に理解出来ている。


(【天冥神】と【天魂神】…あの一族に頼り過ぎたのが間違いであったか…?)


 神域にて戦死者を出迎えた二柱の神、【天冥神】と【天魂神】。この二柱は【天陰大神】の従属神であり、元は邪教徒と呼ばれた一族の始祖に当たる人間だった。二人は生前、当時の人間では抜きん出て強い戦士と魔術師であった。ある時、二人は神に嘆願した。『強い魔獣が発生しやすい地域に自分たちが生活する代わりに、他の人間たちの生活圏には弱い魔獣しか発生しないようにしてほしい』と。

 彼らの献身に神々はいたく感動し、彼らの望み通りの列島を創った。それが今の暗黒列島だ。二人の理想に共感した清廉で屈強な男女は共に暗黒列島へと移住し、他の地域よりも遥かに強い魔獣と戦いながら命を繋いでいった。厳しい環境に敢えて身を置いた気高き強者たちの子孫。それが邪教徒たちの真実であり、『海の民』が決して聖戦に協力しなかった理由でもある。また、先祖から強者の血を受け継いできたからこそ、聖戦軍を圧倒出来るほどの戦闘力を有していたのだ。

 しかし彼らの献身もまた、世界の真実と共に忘れ去られた。人間たちは最も辛い役割を肩代わりしてもらったにもかかわらず、軽くなったはずの魔獣の脅威すらも負担に感じ、神への不満を抱き、【天陰大神】の名を【陰神】と短くするだけに飽き足らず邪神・悪神の類だとレッテル張りをする始末。仕舞いには聖戦などと抜かして大恩ある彼らを虐殺した。


(それとも、他の人間をあの一族と同じだと見做した我が悪かったのか…?解らぬ…どうすれば良かったのか…?しかもあの不可解な武器まで生まれてしまった…。)


 【天陰大神】は自分を傷つけた武器、神戦器に思いを馳せる。あの武器がどうして肉体を持たない神の命に届いたのかというと、その異常な機能にある。その機能とは、持ち主の『陽の氣』を信じられない効率で増幅させることだ。神戦器は五人の持つ『陽の氣』を爆発的に増幅させ、その莫大な『陽の氣』を武器に注ぎ込むことで、武具ものを物質と『氣』の中間の何かへと変えていたのだ。神戦器の真の姿が陽炎のように揺らめいていたのはこれが原因である。

 【天陰大神】のような物質的な肉体を持たない神は、確固たる意思を持った『氣』の塊のようなもの。故に物質と『氣』の中間の何かになった神戦器ならば神を殺すことが可能となるのだ。


(そもそも、どうしてあんな異物が生じたのだ?何が原因だ?あれは人間、否、常命の者が造り出せるものでは…む?)


 そこまで考えて【天陰大神】は自分が何時までも思考していられることに漸く気が付いた。自分は滅びたか、それを免れたとしても回復が不可能ないし数億年の時間が掛かる状態だったはず。まだ意識がぼんやりとしているが、それでもはっきりと物事を考えることなど出来ないはずなのだ。


(もしや、我が妻たちが何か手を加えたのか?世界の維持よりも我を優先したというのか?)


 もしそうならば大問題だ。彼らは神。世界の維持こそが存在理由である。【天陰大神】としてため込んだ『陰の氣』をやり繰りしてこれから『ゼクト』で起こる混乱を最小限に抑える事こそ優先せねばならないはず。それを怠り、兄弟の情に流されたのだろうか。一個の神格としては嬉しくもあるが、立場上、看過出来ない事態である。


「もしそうならば、皆を説教せねば…む?声が出るだと?」


 突然、自分の考えていたことが音となって耳に入って来た事に【天陰大神】は驚愕した。彼は神であり、物理的な肉体を持たない。故に何かを思考しても、人間のように思わず口に出ることなどあり得ないのだ。しかし現実に彼の耳には彼の声が入って来た。その理由は一つしかない。


「まさか、受肉したというのか?この【天陰大神】が!?」


 ここに来てやっと【天陰大神】は自分が何かの肉体に入れられた事に気が付き、思わず大声で叫んでしまったのだった。









 その日、黒血人ヴァズピオ族の族長であるヴェル・ヴァズは何時もの日課として自分たちの【王】であった【黒き獣】の亡骸に祈りを捧げるべく神殿の祭壇前にいた。何処からともなく現れた『凶種』と呼ばれる化け物に【王】と世界を滅茶苦茶にされて数千年、既にこの地で生まれたとされる種族は自分たちだけになってしまった。

 そんな一族も年々数が減り続けている。彼女の一族は元々出生率の低い種族である上に、地上は危険な『凶種』が跋扈しているのだ。食料を得るために外に出ると、十回に一回は帰ってこない者が出る。これでは先細るばかりで、真綿で首を締めるように自分たちも滅びるのかもしれない。それは嫌だ。耐えられない。


「神よ、我が【王】たる【黒き獣】よ。どうか我が一族を救って下され…。」


 彼女はいつものように祈る。この祈りが届かないことは解っている。目の前の棺に安置されているのはただの抜け殻だ。【黒き獣】の魂は既に塵に帰っており、肉体だけが再生したただの残骸。そんなことは百も承知だ。それでも、滅びの未来しか見えない彼女は祈ることでしか己を奮起させる術を持たなかったのである。そんな彼女の祈りが通じた訳ではないが、彼女にとっては奇跡でしかないことが起こった。


『まさか、受肉したというのか?この【天陰大神】が!?』

「え?」


 目の前の棺の中から、叫び声が聞こえたのだ。ヴェルは最初、終に自分は幻聴が聞こえるまでに弱ってしまったかと情けなく思った。だが、どうやら違うらしい。何故なら、目の前で棺がガタガタと揺れているからだ。


『む?これは…箱に入っているのか?ならば…『黒腕』。』


 己の許容量を超えた事態に硬直していたヴェルの目の前で、さらに信じられないことが起こった。棺の蓋が内側から持ち上げられたのである。それだけならばまだ現実だと受け入れられたかもしれない。だが、蓋を持ち上げたのがだったことがこれを現実だと認識することを妨げていた。


『ふむ、『陰術』は普段と同じように使えるようだな。『陽術』は…人間並みといったところか。『氣』の総量は本来の百分の一にも届かんが、使えるだけ幸運だと思うべきであろうな。それにこの肉体…これがもし羽虫のように貧弱な種であったなら…考えぬようにしよう。』


 暢気な口調で何かを言いながら棺の中から起き上がったのは、自分たちの【王】に似て非なる存在だった。【王】である【黒き獣】の容姿は、自分たちと変わらないと聞いている。だが、目の前のそれは彼女とは大きく異なっていた。

 確かに、起き上がった者は自分たちと同じ部分もある。青白い肌に紅い眼球と金の瞳という種族的な特徴は一致していたし、顔の造形も異形ではない。むしろ影のある美男子といった風情だ。しかし、明確な相違点がある。それは側頭部から生えている、先端が三つ又に分かれた捻じれた角だ。そんなものは彼女たちには無い。故にこれは【黒き獣】ではないはずだ。

 ヴェルの【王】であって【王】ではない何かは、彼女に気づかぬまま立ち上がると肩を回すなどして身体の調子を確かめていた。


『ほう、この肉体は中々のものだな。上位の【地神】に迫る力があるよう…む?』


 ボキボキと音を立てながら全身の凝りをほぐしたそれは、ようやくヴェルの事に気が付いたらしい。黒血人ヴァズピオが物珍しいのか、彼女のことを興味深げにしげしげと眺めている。角以外は自分と大差ないはずなのだが。

 無遠慮な視線に晒されているはずのヴェルはというと、事態を飲み込めずに呆けていた。目の前で起きていることを受け入れられず、放心状態に陥っていたのである。そのことを察したのか、【王】らしき何かは顎に手を当ててしばらく何かを考える仕草を見せた後、口を開いた。


「お初にお目にかかる、ご婦人。我は【天陰大神】。異界の…そうだな、この世界風に言い換えれば【王】である。」

「【王】…?【王】と仰いましたか!?」


 【王】という言葉で漸く正気に戻ったヴェルの問いに、【天陰大神】は鷹揚に頷いた。これまで聞き慣れない言葉を話していたはずなのにどうして急に自分たちの言葉を話し始めたのか、そして【王】の枕詞に付く『異界』とはどういう意味なのかなど疑問は尽きないヴェルだったが、今の彼女にとってそんな些細な問題など一考の価値も無い。今重要なのは、目の前に彼女の知らない力を振るう【王】が降臨したという事実である。ヴェルは涙が溢れだすのを堪える事も忘れ、両の手を組んで頭を垂れて嘆願した。


「【王】よ…我等を救って下さいませ…!」

「ふむ…そういう事情か。よかろう。我が力が及ぶ限り、汝らの助けとなろうぞ。」

「おぉ…!」


 ヴェルはついに地に臥し、号泣し始めた。彼女の祈りは、彼女が望んだ形とは些か以上に異なるが、成就したのだから。








 泣き崩れるヴェルを見下ろす【天陰大神】は、すでに己の状態を正確に把握していた。力の大部分を失ったとは言え、彼は元々かなり格の高い神である。今の状態でも神に成りたての弱い神ならば一蹴出来る力を持つ。その力で以って先ほど考え込んだ時に、この世界そのものにパスを通して世界の誕生から現在までの歴史を閲覧したのである。

 それによると、この世界の名は『アルス』というらしい。世界の規模としてはかなり小さい。何せ今彼がいるの大地と、その上空に浮かぶ一つの光る星だけしかないのだ。幾つもの銀河と恒星系、そして生物が繁栄する惑星をいくつも有している『ゼクト』に比べれば貧弱過ぎる世界だ。

 そんな小さな世界だが、『ゼクト』の神と同じ役割を担う二人の【王】が過去には存在したようだ。それぞれ【白き人】と【黒き獣】という名の【王】は、古代から中世程度の文明を築き上げてそれぞれ昼と夜を治めていた。しかし後に『凶種』と呼称される異世界からの侵略者によって全てが失われる。【白き人】と【黒き獣】は『凶種』に滅ぼされ、特に【白き人】の眷属は侵略されてすぐに絶滅してしまった。

 【黒き獣】の眷属は散り散りになった状態で抵抗を続けたが、ほぼ全てが絶滅している。そして唯一の生き残りが彼の目の前で泣いている黒血人ヴァズピオ族であった。しかしながら彼らも余裕は全くない。地上を席捲する『凶種』から逃れるために地下に潜り、複雑な洞窟を進んだ先にある大地底湖の上の小島に集落を築いているのだから。人数も少なく、十八人の男性と三十二人の女性しか残っていない。まさしく風前の灯であった。

 彼らだけではなく、世界自体もまた限界が近い。【白き人】と【黒き獣】という世界の管理者を失って久しい『アルス』は、この世界の基準ではあともせずに崩壊してしまうだろう。生物の感覚ならば一生よりも長い時間だが、神の感覚ならば気が付いたら経っている位の短い時間である。【天陰大神】が世界の管理を行えば先延ばしに出来るが、それでも千年以上にはならないだろう。その間に力を蓄えねばならないと考えると中々ハードである。幸いにして彼には対応策があるのでそこまで問題視していないのだが。

 そして【天陰大神】が宿ったのは、彼女たちが大切に守り続けた【黒き獣】の亡骸であった。【黒き獣】や黒血人ヴァズピオ族には高い再生能力があり、【黒き獣】の場合は頭部が破壊されたにもかかわらず、頭部を失った状態でなお生命活動を続けていたようだ。頭部の消失に伴って彼の魂は失われたようだが、そこに【天陰大神】が宿ったことで頭部も再生したと思われる。


(つまり、我は黒血人ヴァズピオ族にとっての神を乗っ取ったようなもの。これで彼らを見捨てれば、肉体を頂いた【黒き獣】に申し訳が立たぬ。)


 そして【天陰大神】がヴェルを助けると言ったのは、肉体を勝手に使わせてもらう形となった【黒い獣】への恩返し兼罪滅ぼしであった。人間たちが聞けば信じないだろうが、彼はかなり義理堅いのである。ただ、普段ならば神である彼は災害を起こすこと以外では地上での出来事に干渉しない。だが、今回は積極的に関わるつもりでいる。それにもちゃんとした理由があった。


(今の我は神ではあるが、肉体という器を持つ地上の存在。地上で生きる以上、干渉することに問題は全くない。)


 こうして程度にまで弱くなった神が【アルス】に降臨したのであった。

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