第7話 新宿近郊に住むエルフの女性の過去話

 アーシャが久し振りに仲間に会った日の夜。

 眠っている彼女は、昔の夢を見ていた。


 しかし夢の中の彼女は、夢だと分かっていない。

 その夢は彼女達が魔王を倒した後から始まった。


 それは彼女の住む異世界の何処かにある街の中。

 魔王が倒された事を祝う祭りの最中。

 ある料理店で三人と仲間達の宴が開かれていた。


 ……つい、先程までは……。


 アーシャは二階の宿泊部屋のベッドの上にいた。

 周りにいる男達に四肢を抑えられている。

 そうしなければ全身を掻き毟り始めるからだ。


「いやよっ、放してっ、放してよおぉっ!!」


 腰を浮かせて揺らしながら暴れるアーシャ。


「お願いっ、痒いのっ、掻かせてっ、お願いっ!」


 服の裏地が肌を擦る度に全身に快感が走る。

 しかし、中途半端な気持ち良さで満たされない。


 乳房が張っている。

 先端が尖っているのがアーシャにも分かった。

 まるで誰かに握られ吸われているかの様に……。


 彼女は肩を交互に回して胸を揺さぶった。

 乳首が下着の裏で擦られて僅かな快感を得る。


(気持ちいい……気持ちいいよぉ……)

(でも、足りない……静まらない……)

(いやっ、こんなの知らないっ、怖い……)

(誰か……誰か、助けて……)


 部屋の扉が乱暴に開かれて勇二が入ってくる。

 続いてサラが怯えながら入って来た。


「ルストはっ!?」


 アーシャの足を抑えている男が勇二に尋ねた。


「すみませんっ、取り逃しました!」

「祭りの人混みの中に紛れたのを見失って……」


 勇二に続いてサラも答えた。


「分かった。ユウジ、こっちと代わってくれ!」


 男と入れ替えに勇二は、アーシャの足を抑える。

 男は縄を手にすると言った。


「どうせ、ルストを殺しても呪いは止まらん!」


 その縄の片側でアーシャの左手首を縛る。


「捕まえた所で奴にも呪いを解くのは無理だろう」


 縄の、もう一方でベッドの頭側の脚も縛った。

 アーシャの右手も同様にして彼女を拘束する。


「いやっ、ほどいてっ、ほどいてよっ!」


 アーシャは尚も暴れながら叫んだ。


 男は次に右と左の足を別々に拘束する。

 アーシャはベッドの上で大の字のまま縛られた。

 男は作業を終えるとアーシャへの説明に入る。


「いいかっ、アーシャ、良く聞け!?」


 男は続け様にアーシャに語り掛ける。


「おまえはルストに呪われてしまった!」

「これから、その呪いを解かなきゃならない!」

「そうしなければ、お前は狂って死ぬ!」

「呪いを解く方法は、ただ一つ!」

「男に抱かれる事だけだ!」


 男は、そこまで説明するとアーシャに尋ねる。


「抱かれたい男がいるなら教えてくれ!」

「部屋にいる奴で駄目なら一階の者でもいい!」

「すぐ呼べる範囲から選ぶんだ!」


(……抱かれる?)

(抱かれるって、何?)

(選べって、なんのこと?)


 普段の彼女なら直ぐに顔を赤くして怒るだろう。

 しかし快楽に支配され意識が朦朧としていた。

 抱かれるという言葉の意味すら理解できない。

 その言葉は本能的には甘美な響きを持っていた。

 だが同時に僅かな理性による恐怖が襲ってくる。


「わからない……私、わからないよぉ……」


 アーシャは涙ぐむ。


「お願いっ、誰でもいいっ、誰かっ、助けてっ!」


 荒い息。

 潤んだ瞳。

 快感に火照って赤く染まった肌。

 柔らかそうな二の腕。

 スラリとした両脚。

 しっかりと自己主張をしている胸。

 それらを持つ少女が誰でもいいからと哀願する。


 部屋に充満する蒸れた早熟な牝の匂い。


(誰でもいいなら……俺が……)


 一瞬そう思った男が、首を左右に大きく振った。

 理性を取り戻した男はアーシャに質問を続ける。


「分かった。アーシャ、無理をするな」

「そうだ。今、好きな奴はいるか?」

「お前が一番好きな奴の名前を俺に教えてくれ」


 分かり易く、単純な質問だった。

 今の彼女でも何を訊かれたのか理解できた。


 アーシャは濡れた瞳の目線だけを勇二に向けた。


「私は……ユウジが……一番好き……」


 素直に言えたのは意識が朦朧としていた為か。

 その呟きを聞いた男は、安堵した。

 部屋にいた他の男達も、ホッと胸を撫で下ろす。


 ただ一人、勇二を除いて……。


 男は安堵して緩んだ顔を引き締め直した。

 そして、勇二に顔を向けて尋ねる。


「ユウジ、頼めるか?」


 勇二は驚きの表情をすると少しだけ後ずさった。


「た、頼めるかって?」

「アーシャを抱いてやってくれ……」

「む、無理です……俺、そんな経験無いし……」


 勇二は男に向かって首を横に振った。


「やり方くらいは、知っているんだろ?」

「そ、それは……まあ……」

「このままだと、アーシャは死んじまう」

「……そんな……」

「なるべく後悔しない形で呪いを解いてやりたい」

「……俺なら……アーシャは後悔しない、と?」

「頼む、こいつを救ってやってくれ!」

「でも……俺は……本当は……」


 頭を下げる男の姿から視線を逸らす勇二。

 その視線は頬を染めて潤む少女の瞳に向かう。


「……ユウジ……ユウジ……助け……て……」


 アーシャは息を荒くしながら彼に懇願した。


 勇二はアーシャの瞳からサラへと視線を移す。

 サラは真剣な表情をしていた。

 彼女は震える手で勇二の手を取って握り締める。


「今は、アーシャを助ける事だけを考えて?」


 サラは覚悟を決めて泣いていた。


「サラ……」


 勇二は、そんな彼女の思いと意思を汲み取る。


「分かった。君が、そう望むのなら……」


 勇二が、そう伝えた瞬間にサラは手を離した。

 彼女は彼に微笑みかける。

 そして涙を拭いつつ背を向け部屋の外へ駆けた。


 男が溜め息を吐きながら勇二の肩に手を置く。

 男は勇二に畳み掛ける様に説明を補足する。


「知っているとは思うが中じゃないと効果が無い」

「決して躊躇わないでくれ」

「どうしても駄目だった時は、呼んでくれ」

「今日は一晩中、一階にいるから……」


 それらを伝えると男は、勇二の肩を叩いた。

 そして部屋を出ると、階段を降りていった。

 他の男達も彼の後に続いて一階へと移動する。


 残された勇二の耳に息遣いが聞こえてくる。

 その音がする方向へ背を向けて彼は服を脱いだ。


 鍛えられた背筋を見たアーシャの理性が遠のく。

 涙を流し、涎を垂らしながら微笑む少女。

 普段の面影は、微塵も残されていなかった。

 盛りのついた牝犬の様に尻を揺らす。


 だが彼は変わり果てた彼女でさえ愛おしかった。


 服を脱いだ勇二は、アーシャの足元へと歩く。

 仰向けにされているアーシャの正面。

 彼はベッド手前の床に立って彼女を見下ろした。

 スカートの中が下着まで見える。

 まるで水に濡らしたタオルの様に湿っていた。

 肌色と薄桃色と彼女の髪と同じ色が透けている。


 アーシャからも勇二が見える。

 彼女は、しっかりと割れた彼の腹筋を目にした。

 その視線が下へと降りる。

 アーシャの表情が歓喜に満ち溢れた。


「……ああ……それ……それを……」


 無理矢理に呼び起こされた本能が言葉を紡ぐ。


「それを……はやく……ちょう……だい……」


 純真無垢な少女に湧きあがる情欲が道を示す。


「わたしの……なかに……いれて……ください」


 純潔の乙女の口から漏れてくる淫猥な台詞……。


 勇二は生唾をゴクリと飲み込む。

 ベッドへ上がると、彼女の太腿を割って入った。

 そして、ゆっくりと、アーシャに覆い被さる。


 一階にいるサラにアーシャの嬌声が聞こえた。


 ……。


 ……朝になった。


 アーシャは目覚める。

 しかし、それはまだ夢の続きだった。

 未だ夢の中にいる彼女の想い出の中の自分自身。

 その姿は全裸だった。


 ベッドで毛布を被りながら横になっている。


 隣には毛布に両足を入れ座っている勇二がいた。

 一睡も出来なかったのか彼の目には隈があった。


 アーシャは寝惚けて、ぼうっとしている。

 上半身だけ起こすと勇二を細目で見つめた。


「……おはよう」


 疲れ切った笑顔で勇二はアーシャに挨拶をした。


「おは……よう……?」


 寝惚けていたアーシャは辿々しい挨拶を返した。


(……ユウジ?)

(どうして、私のベッドにユウジがいるの?)

(……違う……このベッド知らない……)


「ここ……どこ……?」


 アーシャの質問に、勇二は店の名前を答える。


(そうだ……魔王討伐が成功して……)

(みんなで宴会をして……騒いで……)

(仮面を付けた道化師が私に近付いて来て……)

(綺麗な手で頬を撫でられ気持ち良くなって……)

(道化師が仮面を外して……私を見て……笑って)


 そこまで想い出したアーシャの脳裏に浮かぶ女。

 細くて綺麗な腕をした長い黒髪の美人。

 けれど口の端を吊り上げ人を馬鹿にして嘲笑う。

 仮面を外して凶悪な微笑みを晒す魔女……。


(ルストっ!?)

(そうだ、私はルストに呪いを掛けられてっ!?)


 アーシャは全てを想い出した。

 彼女の表情と身体が強張っていく。


「……アーシャ?」


 その勇二の一言が切っ掛けだった。


 アーシャの両目から一気に涙が流れ始める。


「うう……」


 彼女は顔を顰めると……。


「うわああああああああああぁっ〜ん!!」


 大きな声で小さな子供の様に泣き出した。


「うあっ、ひっく、うああっ、うああぁっん!!」


 勇二はアーシャが落ち着いて泣き止むのを待つ。

 彼は彼女の頭を抱えて髪を撫でた。

 嗚咽を交えながら彼女は彼に謝罪する。

 そんな必要など無い筈なのに……。


「ごめんなさい……こんな……こんな形で……」


 勇二はアーシャの手を握り締める。


「ユウジと……こうなる筈じゃ無かったのに……」


 少女の淡い理想の夢は、魔女によって砕かれた。


「貴方に好かれているかどうかも分からないのに」


 彼女は泣き腫らした顔で縋る様に彼を見た。


「ごめんなさい……好きでも無い奴と、こんな」

「……好きだっ!」


 予想だにしない返事が想い人から告げられる。


「……えっ!?」


 信じられない言葉を受け止めきれずに尋ね返す。


「嘘……だって生意気な奴だって……」

「いつだって、そこが可愛いと思っていた」

「普段は色気の欠片も無いって……」

「特別な時に君を見る度にドキリとさせられた」

「……本当に?」


 真剣な表情でアーシャを見つめる勇二。

 彼は大きく頷いて言う。


「か、必ず責任は取るからっ!」


 次の台詞を言う前に一瞬、勇二は視線を逸らす。

 アーシャは、その事を特に気に留めなかった。


「俺と付き合ってくれ!」


(これは……夢なのかしら?)


 夢の中の少女アーシャは、そう思った。


「……はい」


 夢の中で、夢見心地のまま、そう返事をした。


 勇二はアーシャの背中へ両手を回して抱いた。

 アーシャは再び子供の様に泣き出す。

 しかし、その声は喜びに満ち溢れていた。


 その時、部屋の扉の外から小さな足音が響く。

 階段を降りていく音に、二人は気付かなかった。


 ……。


 アーシャの夢は早送りされた様に時が過ぎる。


 夢を見ている本人は時の流れに違和感が無い。


 アーシャと勇二とサラ。

 三人が勇二の世界へと来た時間に夢が移る。

 勇二は帰郷する為に……。

 彼と付き合い始めたアーシャは、その付き添い。

 サラは彼の故郷が見たくて……。

 それぞれの目的で異世界から出てきた。


 魔王を倒した時に得た財宝……。

 その一部を勇二の世界に持ち込んで鑑定した。

 結果は、かなりの額になった。

 しかし、勇二は異世界での魔王討伐業を諦める。

 そして先ず大学受験を目指す事にした。

 アーシャもサラも興味を持って後に続く。

 三人は猛勉強を始めた。

 別々のアパートに暮らしての勉強漬けの毎日。

 高等学校卒業程度認定試験を受験して合格。

 そして三人は予備校に通い同じ大学を目指す。

 アーシャにとっては地獄の様な毎日だった。

 来る日も来る日も異世界の勉強。

 付き合い始めたばかりでもデートすら出来ない。

 ルストの呪い以上に心が折れそうだった。


 しかし、頑張った結果……。

 三人は同じ東京の大学へと合格する事になる。


 三人にとって、初めてのキャンパスライフ。

 アーシャには何もかもが目新しく……。

 また、素晴らしく楽しい日々だった。


 だが……。

 この頃からアーシャに小さな不安が訪れる。


 彼女は勇二と一緒に暮らす事を望んだ。

 しかし、断られた。

 部屋の整理がついてからと、はぐらかされた。


 大学に入ってからはデートをする様になった。

 その時に勇二は、必ずアーシャの手を握る。

 しかし、そこ止まりだった。


 勇二は優しく彼女にとってデートは楽しかった。

 しかし彼はキスも、その先もする事は無かった。

 


(お互い、あんな初体験だったから……)

(ユウジは私に気を遣ってくれているんだ……)


 そう思ってアーシャは小さな不安を閉じ込めた。


 しかし、二年生になったばかりの春……。

 その不安は現実となって彼女の元へ舞い降りる。


 ある日……。

 アーシャは大学の中庭にいる勇二を見つけた。

 何故か周囲を警戒しながら歩いている勇二。

 驚かそうと、こっそり後をつけるアーシャ。

 しかし見失ってしまう。

 探すと校舎の外壁の曲がり角から声が聞こえた。

 勇二と親友のサラの会話が耳に入ってくる。

 アーシャは、そーっと近付いて様子を伺った。

 パッと出て二人を威かすタイミングを計る。


「いつになったら、アーシャと別れてくれるの?」


 サラは、その時……確かに、そう言った。


(えっ!?)


 とんでもない一言にアーシャの身体が硬直する。


「もう暫く待っていてくれないか?」


 次に発せられたユウジの言葉に耳を疑った。


「そう言い始めてから、もう二年近く経つわよ」

「……」

「まさか二股を楽しんでいないわよね?」

「そんな事は無い!」

「どうだか……」

「言っただろ。俺は、あれからアーシャには……」

「……何も手を出していないって?」

「そうだ」

「信じられないわ。初めての相手なんだし……」

「信じてくれよ。今は君だけなんだ」


(えっ……?)

(私じゃなくて……今はサラが相手ってこと?)

(相手って何……なんの……どういう事?)


「討伐前夜、先に告白されたのは私だったのに」


 新たな真実がサラの口から彼女の耳に入った。

 その事実に驚きながら哀しむ暇も無く……。

 勇二の言い訳とサラの問い詰めが続いた。


「ルストの呪いで仕方が無かったんだ」

「忌々しい魔女……殺してやりたい……」

「アーシャを助けるのは君だって納得済みだった」

「当たり前よ。親友だもの……」

「そうだろ?」

「その何も知らない親友の前で作り笑いをする」

「……」

「その私の気持ちが貴方に分かるかしら?」

「それは……」

「ねえ……どうして、アーシャと付き合う事に?」

「……責任を取らなければならないと思って……」

「でも、彼女は妊娠には至らなかった」

「……そうだ」

「それで、私の事が惜しくなったの?」

「それは……その……」


 言い淀む勇二。

 サラは大きな溜め息を吐く。

 アーシャの目尻に涙が滲んできた。


「彼女に子供が出来てたら話は違ったのかしら?」

「よせよ……そういう仮定の話は……」

「私、一度はユウジの事を諦めたわ」

「……」

「あの時、貴方の彼女への告白を聞いたから……」

「……そう……だったのか……」

「哀しかったけど、祝福しようと思っていた」

「そんな……」

「でも貴方がっ、私の事が本当は好きだって!」

「サラ……」

「アーシャとは別れるから、自分の世界にっ!」

「……」

「……来て欲しいなんて、言うからっ……!」

「……済まない」


 サラは目に涙を浮かべて勇二を睨んで言う。


「私の恋心に再び火を点けたのは貴方なのよ?」

「分かっている……」

「責任は取って貰うわ」

「どうすればいい?」

「彼女と別れて……今すぐに!」

「今すぐは無理だ」

「……」

「彼女は両親に勘当されているんだぞ?」

「……それで?」

「君も知っているだろう?」

「だから、なに?」

「帰れる故郷も居場所も無いんだ」

「私も無いも同然よ」

「今すぐ別れて一人で都会で生活するなんて……」

「私なら出来るとでも?」

「そんな事は言っていないだろう?」

「……今すぐ別れなければ、これっきりだわ」

「……そこまで?」


 二人の間に沈黙が訪れた。

 アーシャは大きなショックを受け動けずにいる。

 しかし頭の中では、この場を去るべきか……。

 二人の前に出て行くべきか、で悩んでいた。


「分かった……」


 沈黙を破ったのは、勇二だった。

 何が……分かった……なのだろう?

 そう、アーシャが疑問に感じていると……。


 彼女の胸ポケットから携帯の着信音が響いた。


 勇二とサラは、聞き覚えのあるメロディに驚く。

 それは校舎の角の向こう側から聞こえてきた。


「まさか……」

「アーシャ、そこにいるの?」


 二人に気付かれてしまっては出て行くしかない。

 アーシャは覚悟を決めて校舎の外壁から離れた。

 ぎこちない動作で、ゆっくりと歩く。

 そして、二人の前に姿を現した。


「……盗み聞き?」


 サラはアーシャを睨んで尋ねた。

 アーシャは俯いたままで首を横に振った。


「ううん……偶然だよ?」


 そしてアーシャは、顔を上げると二人を見た。


「アーシャ……これは……その……」


 勇二の言葉が、またもや切っ掛けになった。

 アーシャは必死で言葉を紡ぐ。

 泣きながら……笑顔で……。


「酷いよ……二人とも……そうなら、そうと……」


 サラはアーシャから視線を逸らした。

 アーシャの声と身体は、震えていた。


「早目に……教えて……くれれば……良かっ……」


 そこまでが限界だった。

 アーシャは後ろを振り向く。

 二人に背を向けて逃げる様に駆け出した。


「アーシャ!?」

「追わないでっ!」


 そんな会話が後ろからアーシャに聞こえる。


 しばらく無我夢中で走り続けたアーシャ。

 息を切らして、限界を迎え、立ち止まる。

 ふと後ろを振り返った。


 そこには誰もいなかった。


「ふふ……本当に追いかけて来ないんだ……」


 アーシャは自嘲気味に笑った。


「ふふ……あはは……あははははっ!」


 いつの間にか、通り雨が降っていた。

 泣きながら、笑いながら、アーシャは天を仰ぐ。

 全身を涙と雨で、ずぶ濡れにしながら……。


 それから彼女の引き篭もり生活が始まった。


 大学にも行かずアパートの部屋でゲームをした。

 欠席が続き単位を落としていった。

 心配した勇二やサラが、携帯に連絡をする。

 しかし、アーシャは頑なに出なかった。


 ある日など勇二が彼女のアパートまで赴いた。

 呼び鈴が鳴ると、彼女は足音を立てずに歩く。

 そーっと、玄関に近付いて覗き窓を見る。

 来客を確認し、勇二かサラだった場合……。

 静かに戻って居留守を決め込むのだった。


 怒っているのでは無い。

 怖くて出られないのだ。

 アーシャは極度の人間不信に陥っていた。


 彼女の留年が決まる頃には二人も来なくなった。

 携帯が震える事も無くなっていた。

 あれ以来アーシャは着信音がトラウマになった。

 常にバイブモードにする様になってしまった。


 彼女は二人に見つからない様に大学へ赴く。

 事務室へ向かうと退学の手続きを取った。


 それからも引き篭もり生活は続いた。


 やがてアーシャは、生活に困窮する事になる。

 財宝を売った金を均等に分配して得た貯蓄。

 それも底を尽きかけていた。


(私……このまま……餓死するのかな?)


 敷いたままの布団の上で仰向けになっていた。

 電気が止められているのでゲームも出来ない。


 なにもかも、どうでも良くなっていた。


 玄関の呼び鈴が鳴る。

 アーシャは無視した。

 もう一度だけ鳴る。

 アーシャは、ゆっくりと起き上がる。


 何となく彼女は……。

 誰でもいいから最後に誰かに会いたかった。

 あの二人以外の誰かに……。


 静かに慎重に歩こうという気すら無かった。

 でも念の為にドアの覗き窓から外を確認する。

 外にいたのは宅配便の、お兄さんだった。


「荷物を、お届けに参りました〜!」


 アーシャは、お兄さんから荷物を受け取った。

 配送伝票の受領欄に判子を押す。


「ありがとうございました〜!」

「……ご……くろう……さまです……た」


 彼女は宅配便の人を見送り玄関のドアを閉めた。


(誰からだろう?)


 アーシャは差出人を確認する。


 実家の母親からだった。


 異世界の……。


 大きく目を見開いて驚愕するアーシャ。


(いつの間に取り扱い地域にっ!?)

(……黒猫……恐ろしい子……)


 箱を開けて中身を確認する。

 中から瓶詰めのクッキーと手紙が出てきた。

 除湿剤代わりに焙煎済の珈琲豆も入っている。


 箱の伝票の宛先は、日本語で書かれている。

 差出人住所は懐かしい故郷の文字だった。

 筆跡は間違いなく母親のもの……。


(一体、誰が、ここの住所を教えたんだろう?)


 手紙は、その事について触れていない。

 想像でしかないが、勇二かサラが教えたか……。

 母親が異世界のギルドで調べたのかも知れない。


 手紙には父親が、まだ怒っている事。

 その背中が寂しそうな事。

 しかし父親の手前、自分も迎えには行けない事。

 でも帰りたい時は、いつでも帰って来なさい。

 そう、書かれてあった。


 アーシャの目に涙が滲む。


(……帰ろう……かな?)


 彼女に里心がついてしまった。


 アーシャは取り敢えず、顔を洗った。

 水道は、まだ止められていない。

 次に、やかんで、お湯を沸かした。

 ガスも、まだ止められていない。


 送られて来た豆を手動のコーヒーミルに入れる。

 手で回して珈琲豆を挽いた。

 ペーパードリップでコーヒーを淹れる。

 苦いブラックを飲みながらクッキーを齧った。


 甘い、お菓子が彼女の心を癒してくれた。

 コーヒーの香りと酸味が意識を目覚めさせる。


 外の空気を吸いたくなって窓を開けた。

 眩しい陽の光が頬に当たる。

 目を細めると、大きな影が瞳に飛び込んで来た。


 新宿の巨大な高層ビル群。


 初めて、この地に来た時に一番驚いた建物だ。

 その大きさに深い感銘を受けたのを思い出す。


(私せっかく、この街に来たのに失ってばかり)

(このまま……)

(何も残せないままで逃げ帰っていいのかな?)

(……)

(ううん……きっと、駄目……)

(あそこまで大きくなくても、いい……)

(私の中の何かを、この都市に刻みたい……)

(私が生きて来た証を……)


 彼女は輝く太陽と高層ビルに向かって誓った。

 明日から日雇いのバイトを探す事を……。


 ……。


 アーシャは眩しい光が瞼に当たるのを感じた。

 布団で横になっていた彼女を冬の朝日が照らす。

 何処からか振動音が聞こえた。

 彼女は、ゆっくりと起き上がる。


「とんでもなく長い夢を見ちゃった……」


 彼女は振動音の発生源を探した。

 震えるスマフォを見つけて手に取る。


「……ユウジからだ」


 あんな夢を見た後だと言うのに彼女は喜んだ。

 一度だけスマフォを胸に抱いた。

 にへらと笑いながら、応答をスワイプする。

 そしてスピーカーホンをモードオンにした。


「……もしもし?」


 アーシャは、とても明るくて可愛い声で尋ねた。


『私よ……』


 サラの声だった。

 アーシャは反射的に終了をタップしそうになる。


『切らないで貰えるかしら?』


 サラに見透かされて手が止まるアーシャ。


「……何の用?」

『この携帯での貴女との通話履歴を見つけてね』

「……(引くわー)」

『何をコソコソ二人で話し合ったのか気になって』

「……プライバシーの侵害じゃないの?」

『主人の財産は、私の財産よ』

「……(言い切った!?)」

『携帯も共有財産だから確認する権利があるわ』

「……私のプライバシーは?」

『いやだわ……親友同士で内緒事なんて……』

「……(あんたが言うなっ!)」


 アーシャは音を出さずに深く溜め息を吐いた。


「何かあったら、連絡をして呼び出してくれって」

『まさか……』

「安心して、呼び出したりしないわ」

『……』

「ただルストに関しての情報は伝える。貴女にも」

『そうね。それは、こちらからも提供するわ』

「埼京勇一さんの連絡先も教えて貰ったし……」

『お義父様の?』

「多分、何かあれば頼るのは専門家になると思う」

『そうね』

「今回みたいな事が無い限りユウジとは会わない」

『今回も遠慮して欲しかったわ』

「勇一さんが道に不慣れだったのよ?」

『貴女が案内する必要は無かったわ』

「ユウジは用事があるから迎えに出られないって」

『私もね……でもタクシーという方法もあったわ』

「ねえ、そんな頑なに近付けさせない理由は何?」

『……どうしようなく不安になるのよ。本能で』

「私は、もう貴女達の邪魔をする気は無いわ?」

『ならどうして、あの後二人きりで会ってたの?』

「それは……」

『しかも複数回。私に内緒で……』


 アーシャは、ある事をサラに伝えようか悩んだ。

 結果、意を決して話す事にした。


「最初に会った時に駅のホームで土下座されたの」

『……なんですって?』

「口止めされていたわけじゃ無いけど……」

『……』

「サラには黙っておいた方がいいかな、と思って」

『……そうね。出来れば余り聞きたく無かったわ』

「……」

『……私は、しないわよ?』

「ユウジにだって、して欲しいと思った事ないわ」

『あ、そう……偶然に会って引き留められたの?』

「そうよ。急いでいるって離れようとしたけどね」

『そうなの?』

「でも回り込まれて、正座して、謝られて……」

『それで?』

「周りに人もいたから、喫茶店で話そうって……」

『ホームから入れる駅の中の喫茶店に?』

「その時の会話で貴女達が卒業後に結婚した事や」

『や?』

「在学中に起業して忙しくなったって聞いた」

『そうよ……その頃に私と二人で会社を作ったの』

「忙しくなり過ぎて私と連絡取れなくなったって」

『……本当に、あの時期は大変だったわ』

「昔の事を謝られて、話している内に……」

『楽しくなってしまった、と?』


 受話器の向こうから大きな溜息が聞こえてきた。


『分かった。その一回は認めるけど、その後は?』

「久し振りに知り合いに会えて嬉しくて……」

『それは理解が出来なくもないけど……』

「通勤時間帯にだけ会って、お茶しようって……」

『私に秘密だったのは、なぜ?』

「再会したばかりで言い出しづらかったから……」

『……単なる言い逃れじゃないの』

「そうね。でも結局は貴女の知る所となって……」

『家に呼んで、二度と会わないって約束させたわ』

「……」

『どうして、約束を守ってくれないの?』

「だから……今回の件は……」

『それも単なる口実じゃない』

「ユウジからはサラには話を通すからって……」

『あの人に頼まれて私が断れる訳ないでしょ?』

「それ、私の責任になるの?」


 アーシャは段々とイライラしてきた。

 そんな気持ちになったのにサラは酷い事を言う。


『まさか、お金が目当てなの?』

「なっ!?」

『知っているわ。貴女の生活レベル』

「貧乏だって言いたいの!?」

『異世界関係者に強請りたかりって少なくないわ』

「私を何だと思っているのよっ!?」

『……一般論よ』

「貴女ね……」

『むしろ彼に近づかないのなら払ってもいいわ』

「馬鹿にしないでっ!」

『冗談よ』

「……」

『私達が苦労して得た財産よ。手放したりしない』

「……変わったね」

『貯蓄を無駄遣いした貴女に理解できっこないわ』

「……それは……」

『せっかく入った大学も中途退学しちゃうし……』

「……誰のせいだと……」

『切っ掛けは私達でも選んだのは、貴女よ?』


 アーシャは眉間に皺を寄せた。

 自分は何故こんな会話に付き合わされている?


(もう、沢山よっ!)


「……分かったわ」

『何が?』

「ルストの件以外で貴女達には連絡しない」

『助かるわ』

「……でしょうね」

『ストーカーの被害届けを出さなくて済むし……』

「……そこまで?」


 アーシャは悲しくなった。

 涙声でサラに尋ねる。


「それ程昔の仲間に会いたいと思う事は罪なの?」

『貴女が会いたいのは、ユウジだけでしょ?』

「昔の貴女だったら今でも会いたいわよっ!」

『……どういう意味かしら?』

「あの日から貴女は変わったわ」

『……』

「二人に騙されたのも、振られたのも私でしょ?」

『……そうね……』

「貴女は全てを得ているのに何を怖れているの?」

『得たからこそ今さら失うのが怖いのよ』

「そんなに私が近付いて来るのが怖いなら……」

『怖いなら?』

「再会時に携帯連絡先を消させれば良かったのよ」

『……それは、貴女にも言える筈よ?』

「……」

『……』

「結局、同郷の知り合いが他にいないせいね……」

『……ええ、腐れ縁という奴かしら?』


 アーシャは少し心を落ち着かせてサラに尋ねる。


「ルストの件は?」

『……ええ、何かあったら連絡ちょうだい』

「魔女に関してだけは?」

『そうね……一時休戦として共闘しましょう』

「……それじゃあ」

『……ちょっと、待って?』

「まだ、なにか?」

『えっと……その……』


 サラは珍しく言いづらそうに口籠った。


『貴女の宿泊を断った件なのだけど……』

「ああ……あれね?」

『彼の側にいて欲しくないのが最大の理由だけど』

「はっきり、言うわね」

『貴女以外で彼に守って貰うべき人がいるの……』

「分かっているわ」

『……本当?』

「ユウジにも奥さんを大事にね、って伝えた……」


 寂しそうだが、少し得意げな表情のアーシャ。

 受話器の向こうから聞こえたのはサラの溜め息。


『分かってないじゃない。早合点は相変わらずね』

「……どういう事?」

『ルストなら私だって油断しなければ大丈夫よ』

「……それなら、なぜ?」

『彼に会社の従業員達を守って貰う必要があるの』


(……あっ!?)


 アーシャは理解した。


『もちろん社内には警備員だっている』


 サラの説明は続く。


『業務関連で腕の立つ異世界出身社員もいるわ』

「それでも……」

『大部分は剣も魔法も使えない一般人なのよ……』

「そうか……そうだね」

『彼らの内の誰であれ人質にされると厄介だわ』

「……ルストなら隙を見せれば実行してくる」

『私達二人、いえ我が社は従業員を守るつもり』

「うん」

『会社組織として出来る限りの事をするわ』

「そうしてあげて」

『だから……』

「うん……今度こそ分かった」

『……決して貴女を見捨てたい訳じゃ無いの……』

「大袈裟だよ。ルストに殺された訳でも無いのに」

『貴女の警護に割ける人員の余裕が無いのよ……』

「……本当に一人でも大丈夫だって!」

『油断しないで?』

「うん、気を付ける」

『……それじゃ、何かあったら連絡するわ』

「うん、こっちもね」

『……またね?』

「またね……」


 サラから通話は切られた。

 アーシャは一息つくとスマフォを置いた。


(……またね?)


 自分に会いたく無いと言っていた元親友。

 その人が最後に、つい口走った一言。

 アーシャは何かを少しだけ取り戻した気がした。


(でも、なんか、しんどい、疲れた……)


 日曜日の爽やかに晴れた朝なのに気が滅入る。

 アーシャは夢の事を想い出す。


(今日は昔に帰ろう……)


 テレビの正面に胡座をかく。

 そして家庭用ゲーム機のコントローラを握った。


(今日は一日中、引き篭もり記念日!)


 アーシャはゲームを遊び始めた。

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