第一章 (12) そこに神はいなかった

「おれはね。この街が大好きだ。住んでいる人も、街並みも、空気も、全部大好きだ。大好きだから守りたくて、あれこれ考えてここまでやってきたはずなのに。おれがここにいる限り、箱館が危険に晒されることは避けられない。よかれと思ってやったことが、全部裏目に出てしまった」


 だから、と彼は呟いた。「だからさっき、ジオラマを見て――そんな裏目に出た行動がその先ずっと語り継がれてしまうのが、心底恐いと思った。ひとつ間違えば、それだけこの街の皆に深い傷を負わせることになってしまう。それは身体的なものかもしれないし、精神的なものかもしれない。おれは嫌だよ。皆を悲しい気持ちになんかさせたくない。辛い気持ちにもさせたくない。ほら見ろ、ぬくぬくして育った結果がこれだ。これは間違いなくおれの甘い考えが招いたことだ。……だけどさ、甘いとは分かっているけれど、」

「本当は戦いたくない、か」


 ヨハンの一言に、三善は小さく頷いた。


「そんなこと、俺に言っていいのか。お前は今や大聖教の命運を一身に背負う大司教だ。それに、俺は一度お前たちを裏切っている。『戦いたくない』、その一言を利用する可能性も充分あるだろうに」


「その身体を使い続ける以上、あんたはもうおれを裏切ることなんかできないだろ。それに、……あんたが『大聖教』の人間じゃないから話したんだ。トマスでもなく、ケファでもなく、おれはあんたに話しているんだ、ブラザー・ヨハン。おれじゃあ駄目なんだ。おれは生まれた時から大聖教にいるから、本当に今やっていることが正しいのか分からない。だから外を知っているあんたに話した」


 のろのろと車が動き出した。ようやく帰れるのか、とヨハンが息をつき、そっとアクセルを踏む。三善はとうとう膝に顔を埋める形で顔を伏せ、完全に沈黙した。


「――ここからは、俺の独り言だから聞かなくてもいいよ」

 じっと前を見据えたまま、ヨハンが呟く。「多分後ろで寝ているも聞き耳を立てているのだろうから、お前さんも聞くといい。十字軍遠征に駆り出され、聖都に行ったときの話をしてやろう」


 ぴくんと三善が体を震わせた。しかしそれ以上動こうとはせず、静かに聞き耳を立てている。おそらく、後部座席の橘も彼らの話し声で目を覚まし、じっと彼の話に耳を傾けているのだろう。気配で分かる。


「あれは大変だったなぁ。俺たちはロシアを経由して南下したんだけど、大豪雪でバギーは埋まるし、ろくな食い物もなかったし。ああでも、例の塩原と人骨の砂はそれ以上に辟易したな。それと、カークランドの先天性第一釈義と」

 俺はね、とヨハンが実に穏やかな口調で言った。「カークランドの先天性第一釈義を相殺するために連れていかれた、生きた盾だったのさ。だから俺には、が一切与えられなかった。他の仲間たちも基本的にはそう。それに対してカークランドは、一人で殺人の業を背負わされる羽目となった。あいつの釈義は、『無差別にあらゆる物質を灰へと変換する』。しかもその釈義はごく微量――保有釈義のうち一パーセント程度の対価で街ひとつを吹っ飛ばすほどの威力を見せるときたもんだ。さて、あいつはただ守るだけしか任務を与えられていない俺になんと言ったか?」


「……くそったれ?」


 三善がぽつりと呟いた。相変わらず顔は伏せたままだ。うーん、とヨハンは己の金髪を掻きあげ、困ったように肩を竦める。


「それが正解ならどれだけよかったか。正解はこうだ」


 ――わたしの中には神が存在しない。だからあなたはわたしを見捨てて自分の信仰のために生きなさい。あなたの神は決して、こんなところで朽ちるべきものではないはずだ。


 悔しかったなぁ、とヨハンは苦笑しながら言う。


「たかが成り上がりの司教にそんなこと言われる筋合いねぇっつぅの。だから無性に腹が立って、思いっきりぶん殴ってやった。でもさぁ、今なら、あいつの言わんとすることがなんとなく分かるんだよ」


 ぴたりと静止していた景色が徐々に流れてゆく。空からは白い雪が降り始めて、ボンネットにぺたぺたとへばりついていった。水っぽい、重い雪だ。

 ヨハンは下がった眼鏡を中指で押し上げた。


「確かにあいつの中に『神はいなかった』。いや、神を喪失した状態を自ら作り上げたから、今のあいつがいるのだろう。……坊ちゃん、だから一つ助言という名の忠告」


 この一言が彼の手助けになるのなら。否、彼だけではなく、今その身体を使わせてもらっているをも救うことができるのなら。

 その一言は彼にとってはとても残酷で、すぐには理解ができないかもしれない――だからこそ、期待したい。


 彼がちゃんと気付いてくれますように。『ほんとうのこたえ』は、すぐ手が届くところにあるのだ。


 だから。


 自分の力でこの意味を理解しろ。お前はそれに気付くことができるはずだ。


「この街を守りたいと思うなら、あんたは自分の中の神様を捨てろ。喪神しなければ得られないものがある」


 三善がようやくのろのろと顔を上げた。その表情はぴんと張った糸のように緊張に満ちている。決してヨハンへ目を向けようとしない彼は、真正面の架空の一点をじっと見つめながら、はっきりとした口調で尋ねた。


「それはあんたの経験則?」

「なに、近道を教えてやったまでのことさ」


 それを確認すると、もう三善の表情には疑念と呼ばれる類のものは存在していなかった。ただひとつ、納得したように首を縦に動かすだけだ。漠然と、彼の言葉を信用してもいいと思ったのかもしれない。


「やっぱり、あんたに話してよかったよ」


 そして、このような言葉を投げかけるのだった。

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