終章 猶予期間

 夕暮れが近づくにつれ、外気は徐々に冷えてゆく。聖職衣の袖から僅かに出るむき出しの掌が、かじかんで赤くなってゆくのが分かる。ふっと息を吐き出すと、口から洩れたそれは白く濁り潮風に消えていった。


 冬の訪れを実感して、三善はゆっくりと目を細めた。


 さすがにそろそろ冬用の外套を出さなくては。いくら自分が寒さに強いとはいっても、もうそろそろ限界だった。別に我慢大会をしている訳ではないのだが、どうしても外套を出すタイミングというのが未だに掴めずにいる。


 それにしても、と三善は思う。

 あの日自分から提示した「お願い事項」に対し、まさか一同が揃いも揃って鼻で笑ってくるだなんて考えてもみなかった。あの衝撃は忘れられない。彼らは「何だそんなこと」と言わんばかりの目でこちらを見て、こう言うのだ。


 ――運命共同体だと言ったのはお前だろ。


 色々と言いたいことはあったが、それはそれでいいような気もしてきた。


 一体誰に似たことやら、と三善は唇に笑みを浮かべつつ、長い坂道を登ってゆく。でこぼこした石畳は、もう何十回も、何百回も繰り返し歩いてきた道のりだ。


 三善は一度振り返り、眼下に広がる街並みを見下ろす。

 まるでよくできたジオラマのようだった。初めてこの景色を見たときも、確かそんなことを考えていた気がする。


 再び前を向きのんびりと歩いていると、……後ろから誰かがついてくる気配があった。一応はこちらに気付かれないよう細心の注意を払っているように思えるが、はっきり言って気配を消すのが下手すぎる。面白いから黙っていようかとも思ったが、それはさすがに性格が悪いと思い直した。


 三善はぴたりと足を止める。


「タチバナ。おいで」


 後ろからついてきていたのは橘だった。彼は突然名を呼ばれたことにたいそう驚いたようで、目を剥きながらも三善の元へ駆け寄ってくる。その肩にはユズがいて、機嫌がすこぶるよさそうにしていた。無論機械の話なので、そう見えるという主観的な話ではあるが。


「いつから気付いていたんですか?」


 駆け寄ってきた橘が尋ねる。


「最初から気付いていたよ。用事があるなら引き止めればよかったでしょう」

「いや、決してそういう訳ではないんです」


 ただ、と橘はうつむいた。


「……ついていきたいなあ、と」

「うん、いいよ。別にただの散歩だし」


 本当は呑気に散歩なんかしている場合ではないのだが、どうしても見たい景色があった。だから仲間内には「ちょっと見回り」と言って出てきた。おそらくただの散歩だということはバレバレなのだろうが、そのあたりを深く追求しないところが彼らのいいところでもある。


 我ながらいい家族を持ったものだ、と思う。

 黄昏の空は徐々に暗くなる。もうじき本格的に夜の帳に包まれ、この街は別の一面を見せてくれることだろう。


「タチバナ」

 三善がおもむろに口を開いた。「ところで、ちゃんと聖典は覚えたの?」

「う」

「う、って……。来週洗礼を受けるんだよ。本当に大丈夫?」


 そう。三善の昇格に先立ち、急遽橘に洗礼を受けさせることになったのである。本当はもっと先の予定で考えていたのだが、おそらくこのままではそんな暇もなくなる。それを見越して、少しだけ余力が残されている今のうちに行うことにしたのだ。


 そしてこの洗礼の儀が執り行われた二日後に、本部にて『漁夫の指輪』を継承する儀式が執り行われることとなる。


 ――彼らは一週間後、彼らは今までとは別の世界の入り口に立たされるのだ。


 だから、この最後の一週間は一種の猶予期間なのだ。一週間で今までの生活を捨て、新しい世界に否応なしに飛び込んでいかなくてはならない。言うなれば、過去と決別するための一週間だった。


「センセも、実は緊張しているんじゃないですか」


 橘がニヤニヤと笑いながら脇腹を小突いてくるので、三善は仕返しに橘の頭を上からかき回してやった。なんだかんだ言って、この二人は似た者同士なのである。


「緊張はしているよ。そりゃあ、いきなり立場が変わるんだから」

「あれ、やけに素直ですね」

「おれはいつでも素直です」


 そして互いに笑い合いながら、淡々と道を歩いてゆく。


 そうしているうちに、彼らは街の外れまでやってきていた。三善は躊躇いもせず右の脇道に入ってゆく。


 あ、と橘は思った。

 この場所はとてもよく知っている。橘が初めて函館にやってきたあの日、三善と再会した場所――外国人墓地だ。あの日海を目の前にして、この司教は歌を歌っていた。橘はその姿を見て、美しいと確かに感じた。


 そしてその司教は今、自分の目の前にいる。


 時々思うのだ。

 このひとは、自分には分からない次元を見つめているようだ、と。それは初めて会った時から変わらない。つまりは元々そういうひとなのだ。その結論に、橘は納得していた。


「ここで、タチバナがやってきたんだよな」

 三善が言う。あの日と同じように、白い墓標を背にして。「『きれいだろ。この時間の空が、一番きれいなんだ。後ろの連中も、きっとこれを好きだと思う』」


 遠くの方で船の汽笛が鳴り響く。そしてその残響は、潮騒の音と混ざり、徐々に溶けてゆく。しんとした空気を孕んだこの場所は、いつでも他の音を優しく蕩かしてゆくのだ。


 本当に、不思議だと思う。本当に。


「――『あなたが、姫良三善司教ですか?』」


 橘が繰り返す。その返答に三善が目を瞠り、それからにこりと優しく微笑んだ。


「うん、そうだ。よく覚えているね」

「それほどでも」

 橘も笑い返す。「ここから始まったんですね。全て」


 三善はうん、とおもむろに首を縦に動かした。橘の言うところの『全て』の意味を理解した上での同意である。そう、彼らがここで再び出会わなければ、もっと別の出来事があったかもしれない。


 例えば、橘が箱館を訪れなければ。

 例えば、三善があの場所にいなければ。

 ――例えば、あの日が『八月八日』でなければ。


 そんな些細な選択の差が、今の彼らを形成している。


 タチバナ、と三善がその名を呼んだ。


「ずっといつ言おうか悩んでいたんだけど、ようやく決心がついた」


 何を、と橘が問いかける前に、三善はゆっくりと橘へと向き直る。独特の紅い光彩が、じっと橘を見下ろしている。


「お前の『釈義』の話だ。お前は『釈義』能力者、それは間違いない。しかし、その能力は決して解放させてはいけない。解放させたら最後、どうなるか誰にも想像がつかないんだ」

「えっ……?」

「お前の釈義は」

 三善が鋭い口調で橘の声を遮った。「……お前の釈義は、『十二使徒』に匹敵する能力。第十二使徒『イスカリオテのユダ』だ」


 風がいっそう強く吹き付けた。


 まるで今この時、彼ら二人の時間が止まったかのように。全ての音をかき消していく。

 そしてようやく風が凪いだとき、ようやく橘は口を開くのだ。


「――ああ、だからみんな俺をから遠ざけようと」


 微かに唇が震えているのは、決して寒さのせいだけではないだろう。三善はうつむき、そっと彼から目を逸らした。


「センセ」


 橘の語調が突然強くなった。三善は口を閉ざしたまま明後日の方向を向いている。


「俺、……絶対、裏切らないから。あなたのことを」


 そして彼は告げるのだ。己が決断したことを、運命やそうあるべきという史実すらも完全に無視して。彼の黒い瞳の奥に宿る微かな炎が、三善にとって一番嬉しいものだった。


 彼は『あの答え』を無意識に自覚しているのだ。


 そしてこうも思う。

 おれは見つけられるだろうか、と。


 D’ou venous-nous?

 我々はどこから来たのか?


 Que Sommes-nous?

 我々は何者か?


 Ou allons-nous?

 我々はどこへ行くのか?


 ――とにかく今は、前へ進むしかない。

 今の彼には、それしか選択肢が残されていなかった。

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