第六章 (3) 謀られた
九条神父のもとに帰り、色々あってようやく一息ついたヨハンである。
ここ数週間は帝都牧師の依頼により三善の監視をしていたため、なかなか勤め先の教会に戻れなかったのだ。一時帰宅くらいはしていたが、そういうときはたいてい洗濯物を片づけたり事務処理をしたりしていたため、九条神父とはすれ違うことが多かった。そういう事情もあり、帰宅してからしばらくは九条神父の雑談に付き合う羽目となった。二十一時を回ったところでようやく気が済んだのか、九条神父による「お開きにしよう。続きは明日」の言葉により解放され、ようやく自室に戻ることができたのだった。
さて、とヨハンは荷物整理のために鞄を開け、――なんだか漠然と嫌な予感がした。なんだかんだ言ってこの手の予感を外すことはほとんどない。その正体のつかめない感覚についてしばらく考えたのち、ヨハンはおもむろに立ち上がる。壁に身を隠すようにしてそっと窓辺へ近づくと、悟られないように外を覗き見た。
――司祭館の入り口に誰かいる。背はそれほど高くない。黒く裾の長い外套を身に纏う男が、チャイムを鳴らしていた。
そのシルエットには見覚えがあった。まさか、と思う。
その時、九条が応対のために玄関の戸を開けた。室内の明かりにより暗闇が照らされ、来客の姿がぼうっと浮かび上がる。
「ホセっ……!」
名を呼びかけて、ヨハンは慌てて口をつぐむ。
待て、何故あの男が箱館にいる。――否、状況だけを考えれば別にいてもおかしくはない。三善が怪我をしたということを聞きつければ、あの男は必ず来る。しかし、なぜ箱館支部ではなくこんな場所にいるのだろう。確かに九条は三善と懇意にしているようだが、こんな夜更けにわざわざやってくる理由などない。
強いて言うなら、彼が「この場所に正体不明の神父がいる」と聞きつけたならば可能性はあるかもしれない。
ヨハンはすぐに外套を一枚羽織り、玄関とは反対側の窓を音がしないようそっと開けた。窓の桟に足をかけ、地上を覗き込む。眼前には柔らかい芝生が広がっていた。多少着地に失敗したところで、ひどい怪我はしないだろう。これでも一応――既にその機構は破損したが――プロフェットだった身体だ。人並み以上に頑丈にできているつもりである。
ヨハンは躊躇いなく窓から飛び降り、軽やかに着地した。もっとひどい音がするかと思ったが、意外とそうでもない。
耳を澄ませると、玄関先から微かに声が聞こえた。
「……ああ、ブラザー・ヨハンの知り合いでしたか。彼なら今、上にいますよ」
呼びましょうか? と九条が穏やかな口調で尋ねた。それに対しホセはいえ、とさも申し訳なさそうな声を上げている。
「時間も時間ですし、明日出直すことにします。夜分遅くにすみませんでした。あまりに驚いたものですから」
逃げる隙が欲しいので、むしろ上がって行って欲しいと願うヨハンだった。
しかし、九条は予想に反して「そうですか」とホセの言い分を受け入れてしまっている。つまり、時間稼ぎをして逃げるのはほぼ不可能という訳だ。さて、どうするかと思考を巡らせつつ、ヨハンはのろのろと立ち上がる。
反対側から回るか? しかしこの司祭館、玄関を中心にシンメトリにできている。どちらから回ろうともあの男に遭遇することには変わりない。ならばこのまま直進し、裏手の坂道に出るのがよいだろう。多少高さのある壁を飛び降りることになるが、二階の窓から飛び降りることに比べれば大したことない。
ヨハンが足を動かしたとき、ちょうど玄関の戸が閉まった。
「……そこにいるのは分かっています」
ホセの声がやけにはっきりと聞こえる。「こういうことがあると、あなた、絶対外に出て身を隠そうとしますからね。少しは学習なさい」
身も蓋もないことを言われた。というより、詰まるところヨハンが窓から抜け出そうとすることを見込んでわざわざ正面からやってきたということだろう。
――謀られた。
ヨハンは思わず頭を抱えそうになった。さくさくと芝生を踏む音が近づいてくる。代われ、と胸の内で呟くも、同居人からは拒否された。自分の不始末くらい自分でどうにかしろということらしい。全くもって使えない同居人である。
仕方ない。いずれ知られることだった。
腹を括り、ヨハンは振り返る。
芝生を踏む音が止んだ。
そこにはホセがいた。彼ははっと息を飲み、それから微かに表情を崩して見せる。まるで動揺していることを悟られまいとしているかのように、その表情からは正確な感情が読み取れなかった。
「あなた、一体どういう手品を使ったんですか」
ヨハンはそっと目線を逸らし、かけていた銀縁の眼鏡を外した。それから自分でも驚くほど穏やかな声色でそっと声をかける。
「……場所、変えようか」
***
近くの自販機で温かい缶コーヒーを二本買い、ホセはそのうちの一本をヨハンに渡した。ブラックコーヒーの厳ついパッケージ。かつての自分が好んだもののひとつだ。
よく覚えているな、と思っていたら、
「研究室時代、よく私に淹れさせていたでしょう」
と聞いたことのあるフレーズをホセは躊躇いなく言うのだ。まるで思考を読まれたかのようだった。
二人はそのまま近くの公園へ向かい、ベンチに腰掛ける。さすがに時間が時間だけあり、周囲には人っ子一人見当たらない。ただ街灯の明かりだけが二人を照らし出し、ぼうっと暗い影を落としていた。
「――誰から聞いた?」
ヨハンが短く尋ねると、ホセは苦笑交じりに答える。
「ヒメ君の番犬から。居場所については、ヒメ君本人から」
なるほど、とヨハンは頷いた。確かに、現在の三善の番犬・もとい秘書には己の正体を知られている。その直後に三善が入院したのでそれどころではなかったのかもしれないが、改めて考えると妙な話だった。
「で……、状況が全く読めないのですが、何だかものすごくややこしいことになっていることは分かりました。あなた、今異端審問官に目をつけられていますよ」
「そりゃあ、そうだろうな」
ヨハンが妙だと感じていることについてホセが明言化したので、ヨハンは全面的に同意する。彼が優秀な異端審問官だということは知っていたが、それにしては放置されすぎている。あのとき自分が“七つの大罪”と切れない縁を結んでしまったことは確実に知られているのだから、もっと早くに行動を起こされてもおかしくなかったのだ。
もっと妙なのは、その本人ではなく、ホセが動き出したことだ。確かにホセは教皇庁特務機関に片足突っ込んだ生活を送っているのだが、異端審問官の動向に直接手出しをするようなことはなかったはずである。
考えれば考えるほど、今の状況は妙だった。
ヨハンは缶コーヒーのプルタブを引き、一口だけ口に含んだ。
「お前はどこまで知っている?」
「……、多分私は何も知りません」
「だろうな」
そうでなければ三善のもとに土岐野橘を送るなんて真似をすることなどなかったろう。だからこそ先日本音が漏れて「あのバカ」と口に出してしまったのだが、いまさらだ。
「いいよ、お前はそのままで。難しいことは俺とヒメがやるから」
「それはどういう意味ですか」
「気づいているんだろ? 本当は」
ぴしゃりとヨハンが厳しい口調で言い放つ。「俺が誰に身体を売ったか」
沈黙だった。
答えられないのか、はたまた本当に分からないのか。――否。おそらく、ただ単に口にしたくないだけだ。その証拠に、ホセの表情には微かな苛立ちが見え隠れしている。
ヨハンは困ったように首筋を掻き、それからゆっくりと諭すように言った。
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