第五章 (4) 八番目は「正義」

「本当は“憤怒”の味方をするふりをして『パンドラの匣』を連れ去るつもりでいたんだけど。君がいい感じに浄化してくれたから、本意でない仕事をしなくて済んだ。礼を言う」


 少し前に帯刀が三善に説明した内容を思い出した三善は、それを聞いてようやく合点がいった。要するに、“怠惰”はその能力を用いて橘から正常な判断能力を奪うつもりでいたのだ。またしても帯刀の推測が当たったことを知り、三善は胸の内で密かに感動している。


「おれはそういう目的であいつを浄化したんじゃないんだけど……まあ、いいか。礼は受け取っておく」

「そうしてくれ」


 ああ、と“怠惰”は短く欠伸をする。


「君とまさかこんな風に話す日が来るなんて夢にも思わなかったよ」

「おれもだよ、“怠惰”。それにしても、なんでお前はおれの前に現れたんだ? この際はっきり言うと、おれはお前に話しかけられるまでお前のことをただの猫だと信じ切っていた。わざわざ正体を明かさなくてもよかったじゃないか」

「少しだけ、話をしようかと思っただけさ」


 その微妙な言い草に怪訝な顔をした三善だったが、すぐにこう返した。


「なに? まさか、余生を猫として過ごすことにしたから死んだことにしてくれ、とかそういう話でもする気?」


 その時、ぴたりと“怠惰”の動きが止まった。そして心底驚いたような声色で、

「なぜ分かった」

と抜かしてきた。


「まさかの図星かよ……」


 冗談だったのに。


 三善は長く息を吐き出し、それから右手で困ったように首筋を掻いた。

 しかし、本音で言うとそういう人生もありなんじゃないかと三善は思うのだ。彼は一〇〇九三回も強制的に人生のやり直しを命じられており、どうあがこうが最終的に全てをなかったことにされている。今後『やり直し』を続けるにしても、そのうちの一回くらいは自由にふるまってもばちは当たらないだろう。


 むしろ、彼にはそうする権利がある。彼は己の父親に巻き込まれた被害者でしかないからだ。


「いいよ」

 三善ははっきりと言った。「おれだってむやみにお前らを浄化したくない」


 しかし、と三善は考える。


「その嘘って、他の“大罪”にはばれたりしないの?」

「今回のうちに分かることはない。次回が訪れた時に分かるくらいかな……」


『契約の箱』による『時間遡行』が発生した場合、それまでに起こったすべての出来事が“大罪”へと伝えられる。この仕組みのことを彼らは『記憶の引き継ぎ』と呼んでいるらしいのだが、そこに至るまでの間は特に監視されている訳ではないのだと言う。


 そこまで言った“怠惰”は、ふと何かに気づいたらしい。短い沈黙ののち、「あー、そうか、いいこと考えた」とぶつぶつ何かを呟いている。


 最終的に彼はのろのろと顔をあげ、三善にこう言い放った。


「君、今から俺を“解析トレース”しろ」

「はっ?」


 こいつは何を言い出すのだ。三善は思わず目を剥いた。


「姫良三善。君が俺の能力をコピーすれば、俺となんらかの形で接触したという証拠になるだろ。俺の能力は『人から正常な判断を奪うこと』。簡単に言うと、相手方に対して一時的に脳疲労を起こす能力だ。決して役に立たない能力じゃないだろう」

「そりゃあ、そうだけど……」

「好きに使うといい。つーか手切れ金だと思え」

「本当にあんたは自由人だな。羨ましい限りだ」


 三善はそっと“怠惰”に触れ、ゆっくりと深呼吸した。刹那、彼の双眸がまるで炎のように揺らめく。この能力を使うのは五年ぶりだが、自然と身体が覚えていた。頭に流れ込んでくる複雑な数式をひとつひとつ読み解き、片っ端から記憶していく。


 しばらくそうしていると、全て読み取り終えたのだろう。突然三善が長く息を吐き出した。


「なんだこの、めちゃくちゃな能力は! あり得ない!」

「すごいだろ。数式が破綻してるんだぜ」

「ああ、だから脳疲労を起こすのか……。最悪だ。こんなの、普通の人間が喰らったら軽い洗脳状態に陥るに決まっている」

 頭を抱えながら三善が言う。「しかもこれをタチバナに使おうとした、だと? こんなのを使ったら『パンドラの匣』が開いて終わりだ。今このタイミングでそれはない、絶対にない」

「……、あのさあ。もしかして、だけど」


 “怠惰”が呟いた。その声に反応し、三善はのろのろと瞼をこじ開ける。


「君、『パンドラの匣』の正体がなにか、知ってるだろ。“憤怒”に聞いたのか」


 どきりとして三善はその動きを止めた。

 声が出なかった。なんと話せばいいか分からずに、三善はその眼を“怠惰”へと向ける。猫だ。ただの黒猫が、こちらを鋭いまなざしで睨みつけていた。


「――ああ。


 決して忘れるはずがない。

 あの日、“憤怒”を浄化したとき。


 静かな炎に灼かれる彼女は、抱きしめる何かを欲してゆっくりと両手を伸ばした。橙の瞳が、切に訴えていた。それに答えてやろうと、三善が彼女の身体をゆっくりと、きつく抱きしめてやった。


 ふと、耳元で細い息遣いが聞こえてきた。彼女が――否、“憤怒”が彼女の身体を借り、なにかを言おうとしているのだ。


 ――よく聞け。『パンドラの匣』の正体は、……だ。


「へえ。あーそうか、なるほどね……だから君はあの子供に『A-P』のできそこないを渡したのか」


 三善の言葉に対し、“怠惰”はいくつか首を縦に動かした。三善は何も言わなかった。その代わり、恨めし気に隣に座る猫を見下ろし、小さく舌打ちして見せる。


「じゃあ、悩める姫良三善にもうひとつ助言をしよう。もしも父親と会う機会が今後あるようなら、会った方がいいぞ。絶対にだ」


 三善は怪訝な表情のまま、その言葉の真意を尋ねた。“怠惰”はそれ以上、細かいことは何ひとつ説明しなかった。ただ、やけにさっぱりとした口調でこう繰り返すのだ。


「会った方がいい。もしも迷っているなら、確実に会った方がいい。そしてできれば、『パンドラの匣』も一緒に連れて行くことをお勧めする」

「それは、過去の経験則?」

「それはどうでしょう。俺が言えるのはこれくらいかな」


 さて、と“怠惰”は立ち上がり、小さな体をぶるぶると震わせた。そして大きく伸びをすると、三善へエメラルド・グリーンの瞳を向ける。


「俺はもう行く。一〇〇九四回目の試行が発生しない限り、もう会うことはないだろう」

「ああ」

 三善は短く頷いた。「頑張れよ、兄弟」

「兄弟? これはまた、不思議なことを言う」

「“憤怒”はおれのことを“狂信”と呼んだから。違うか」


 三善の言葉に、“怠惰”は微かに唸って見せた。僅かに逡巡したのち、彼はこのように言った。


「いや、お前の名は“狂信”じゃない。“正義”の方が合っていると思うけど」


 そして“怠惰”――否、黒猫は去っていった。

 三善は猫が消えた夜闇をじっと見つめ、それからのろのろと己の手に目を向けた。見慣れた傷だらけの手がそこにはある。


 唇の端から白い息が漏れ、ゆったりと立ち上っていった。


「……“正義”、か」


 八番目の名を唱え、三善はそっと瞼を閉じた。

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