第五章 (3) 月夜の黒猫

 深夜。


 三善はそっと上体を起こし、左へ目を向けた。眠るときは薄いカーテンで仕切りを設けるようにしている。微かに聞こえる寝息。それを耳にし、三善は彼が深い眠りについていると判断した。


 ベッド脇の引き出しから羽織を一枚取り出すと、三善はするりとベッドから抜け出した。院内を歩くのに使っているサンダルを履き、軽く身体を伸ばす。微かに傷が痛んだが、普通に動きまわる分には問題ない。むしろ箱館に来てからの二年間、ここまでじっくりと休んだことがなかった三善である。休みすぎて身体が変に強張っているので、そろそろ軽い運動をしたくなってきた頃合いだ。


 静かに窓を開けると、冷えた風が三善の白い頬を撫ぜていく。

 地上を見下ろすと、意外と高さはないということに気が付いた。


 ――ならば、『釈義』を使う必要はない。


 三善はゆっくりと桟に足をかけ、勢いよく地上へ飛び降りた。軽やかに着地すると、数拍置いて頭上に羽織が落ちてくる。それをもそもそと肩にかけながら、おもむろに空を見上げた。


 暗い色をしたビロードの夜空に、上弦の月がぽっかりと浮かんでいる。それが眩しくて、三善はその赤い瞳をきゅっと細めた。


 ゆっくり息を吐き出すと、白い靄が視界を濁らせた。あとひと月もすれば、この街に冬が訪れる。三善にとって三度目の冬だ。


 途中目に留まった自販機でしるこドリンクを買い、それをカイロ代わりにしながら三善はのんびり歩き出す。ちょうどこの近くに馴染みの公園があるのだ。一人になりたいとき、三善は決まってこの公園に足を運んでいる。特に何かをする訳ではなく、ぼんやり煙草を吸ったり携帯で漫画を読んだりするだけなのだが、意外とそれが心地よかったりするのである。


 さて、三善がその場所に訪れると、さすがに日付が変わる頃合いということもあり、辺りには誰もいなかった。街灯の下に小さい木製のベンチがあり、ミルク色に照らされている。そこに腰掛けると、三善は手にしていた缶のプルタブを引いた。


 ――もうぐだぐだと悩んでいる場合ではないことくらい分かっている。

 しかし、と三善は思う。


「ああ、もういい加減にしてくれよ……」


 おれを悩ませるな、と理不尽な一言を洩らし、缶の中身を一気に煽る。胃に流れ込んでくる甘ったるい液体のように、今抱えている悩みごとを全部消化してしまいたかった。現状、消化しようにも胃もたれ必至。どうにもしつこくて敵わない。


 帯刀に考えていることを全て聞かせているから、少しは頭の整理はついている。だからこそ困っているのだ。今本当に必要なのは、自分と同じ思考レベルで会話が成立する人。できれば、そう、過去に対峙した“嫉妬”あたりだと都合がいいのだが。


 その時、三善は足元に何か柔らかい感触のものがすり抜けて行ったのを感じた。目を落とすと、それは体の小さな黒猫だった。


 珍しい、と三善は思う。

 理由は分からないのだが、三善はとにかく動物に嫌われやすい。ここまで近くに、動物が自ら寄ってくることなど滅多にないのだ。


 驚かせないようにそっと観察していると、猫は突然三善の姿を仰いだ。そしてベンチへと軽やかに飛び乗る。


「おお」


 こんなに近くまで来てくれるのか。

 という驚きにも似た気持ちで三善は黒猫を見つめた。

 もしかしたら触れるかもしれない。できれば、人生のうち一度くらいはふかふかの毛並みに触ってみたい。

 三善は音を立てないようにそっと缶を置く。そして、驚かせないよう慎重に手を差し伸べてみた。


「おいで。怖くないから」


 無駄に指先をわきわきと動かして見ると、驚いたことにその猫は大人しく撫でさせてくれた。ふかふか、もふもふの触り心地。これぞまさしく本物の手触りだ。首周りを触ってやると、猫はとろんと目を細めた。


「ああ、かわいい……。やわらかい……あったかい……最高……」


 謎な発言をするくらいに、三善はその魅力的な触り心地に酔いしれていた。


 と、その時。猫が唐突に


「そこじゃない。お前撫でるの下手だな」


 三善の頭上にクエスチョン・マークが浮かんだ。何だか知らない男の声がしたと思うのだが。思わずあたりを見渡したが、園内はがらんとしており、三善以外の人物は見当たらない。誰かいるならば気配を感じるはず。三善は思わず首を傾げてしまった。


「ここだ、ここ」


 再び声がした。随分近くにいるように聞こえる。再度きょろきょろとあたりを見回す。


「ここだっての」


 唐突に猫が三善の指を甘噛みした。

 ――まさか。


「え、普通の猫って喋るの? どういう仕組み?」


 我ながら変なことを言っている気がする。

 しかしながら思わず本気の返しをしてしまうくらいには、今の三善は妙に頭が冴えていた。


「喋る猫なんかいたら世界規模のニュースだぞ」


 猫が妙に渋い声色でそう言うものだから、三善は思わずぐっと言葉を飲み込んだ。


 ――そういう君自身が『猫』ではないか。


 本当はそう言ってやろうと思ったのだ。しかし、三善は気づいてしまった。目の前に座り込む猫の瞳が、ぞっとするほどに美しいエメラルド・グリーンであることに。


 この色には覚えがある。

 三善は暫しの逡巡ののち、のろのろと口を開く。


「もしかして、おまえは“怠惰Acedia”か」

「あたり」


 猫――もとい“怠惰”はのんびりとあくびをしながら、三善の隣で香箱座りをした。


「君、少し感が鈍ったんじゃないの。俺が噂で聞く君は、もう少し聡明だったと思うけど」

「仕方ないだろ。今まで本物の動物には決して好かれなかったのに、いきなりかわいい顔して寄ってこられたら嬉しいに決まっている」


 中身が“七つの大罪DeadlySins”であれば納得だ。少し残念だったが、念願の毛皮に触ることができたので良しとする。言葉が通じる分、少しは得なのかもしれないとそう思うことにした。


 それで? と三善は尋ねる。


「お前はなんでそんな恰好をしているんだ。“憤怒”と一緒にいたんだろ」

「ちょっとへましてね」

 “怠惰”は言う。「“憤怒”の監視をするために一時的に猫の身体に“弾冠シュート”したら、もともと使っていた身体が死体と勘違いされた。気づいたら警察に処理されていて、どうすることもできなかった訳。しかし、この体はいいぞ。ひがな一日ごろごろしていても怒られないし、ちょっとかわいいポーズを取るだけで結構いい飯が食える。これは天職かもしれない」

「ああ、そう……」


 呆れてそれ以上コメントができない三善だった。


 大聖教における“怠惰”とは本来「怠惰」と「憂鬱」のふたつが融合してできた考え方だ。今の彼のどこに憂鬱の要素があるのか。甚だ疑問である。

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