第四章 (10) インタリオリング
さて、その『漁夫の指輪』は大司教が何らかの理由で退任した場合に教皇庁に返還され、印章の部分を破壊することとなっている。大司教ヨハネスが逝去した際も例外でなく、当時使用していたものは『死体が存在しない』状態だったにもかかわらず、何故かきちんと回収できていた。その際に印章は破壊され、再びヴァチカンにて厳重に保管された――はずだった。
エクレシア本部の記録ならびに己の記憶を頼りにヴァチカンを訪れたホセは、思わぬ出来事に遭遇してしまった。
――『漁夫の指輪』がない。
否、この表現はあまり適切でない。枢機卿団の担当者へ確認したところ、彼は首を傾げながらこんなことを言ってきたのである。
――いや、『漁夫の指輪』はヴァチカンで管理していませんよ。今は『聖都』で厳重に保管されているはずです。
ほら、とその担当者がその記録を開示してくれた。確かにそこには、例の指輪が『聖都』へ輸送されたことが記されている。そして日付は、なんとホセが本部で見た資料と一致しているではないか。
その瞬間、なにか厄介なものに首を突っ込んだ気がしたホセである。しかしここで諦めるわけにもいかず、渋々『聖都』へと向かうこととなる。
そして先述の「指輪がない」という発言へと戻る。
「管理体制がなっていないとか、事前に手配しておけとか、色々言いたいことはありますが……ないものは仕方がありません。この際新しく作ってしまえばいいんじゃないでしょうか。どうせ当分はヒメ君のものになるんです、与えたところであの子はすぐに壊しますよ」
『お前が今相当怒っていることは理解した。しかし、一応自分の息子なんだからもう少し可愛がってやれ。ついでに言うと、今回チビわんこはなにもしていない。とばっちりもいいところじゃねぇか』
「私ね、ちょうど今露店の前にいるんです。五〇シェケルで済むならいくらでも買いますよ、私は。幸いあの子の指輪のサイズは知っています。名案だと思いませんか」
疲れのあまりついつい現実逃避し始めるホセだった。
本件についてよほど堪えているのだろう。ジョンはなんだかいたたまれなくなり、憐れんだ声で、
『……うん、帰ったら愚痴のひとつでも聞いてやるから、まずは早まるな』
「私は至極冷静です」
『冷静な人は自分のことを冷静だとは言わないぞ』
冗談です、とホセが短く言ったとき、急に裾を引かれる感覚がした。驚いてホセが目を向けると、いつの間に戻ってきたのだろう。マリアがホセを仰ぎしきりになにかを訴えていた。
「失礼、」
ホセは携帯の送信側に手をかざし、マリアに声をかける。「どうしました?」
よくよく見ると、マリアはその手に何かを握りしめていた。何か買い物をしてきたのだろうか。だが、それにしては様子がおかしい。
「これ、」
マリアがそっと握りしめた手を開き、ホセへ見せた。
金色のインタリオリングだ。不思議なことに印章の部分が熱により溶かされ、元の造形が判別できない状態となっている。見たところ男性用に見えるが――そこでふと、ホセは何かに気が付いた。
「インタリオリング?」
その声はジョンにも聞こえたらしい。ジョンがその発言を問い質したのと同時に、ホセはマリアへと質問を投げかける。
「これはあの店で買ってきたものですか?」
違う、とマリアは首を横に振った。
「知らないおじさんが、くれたの」
「知らないおじさんから貰いものをしてはいけないとあれほど言ったでしょう……。まあいいです。それはどんな人でしたか?」
マリアはほんの少し逡巡し、それからまわりをきょろきょろと見渡した。そして、突然街角を指して言う。
「あのひと」
ホセが顔を上げると、確かにそこには二人連れの男がいた。片方は中年、もう片方は老年といったところだろうか。中年男性の方がもう片方の男を支えながら歩いており、建物の影へと消えて行くのが見えた。
ホセは瞠目し、思わず言葉を失う。
「……
マリアの声に反応し、ホセは震える声でジョンに言った。
「ジョン、また後でかけ直します」
『えっちょっ、おま……!』
問答無用で電話を切り、ホセはマリアを小脇に抱え走り出す。
――まさか、そんな訳ない。
ホセはその男をとてもよく知っていた。もう何年も会っていない、むしろもう会うことがないと分かっているはずなのに、どうして『その人』だと確信したのかが分からない。しかし今は、その人物に会わなければならないと確信していた。
彼らが消えて行った建物の角に到着する。ホセは息切れをもよおしながらその角へ目を向ける。
彼らはすでにその場からは立ち去っており、裏手へ続く路地が真っすぐに伸びているだけだった。
ホセはマリアをその場に降ろすと、額から流れ落ちる汗を袖口で拭う。
「……遅かったか」
マリア、とホセがその名を呼んだ。「少しだけ冒険しましょうか。人探しです」
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