第三章 (8) あのひとの意思
その時だった。
三善の頭のちょうど真上の辺りから、懐かしい声がした。
「坊ちゃん、まだ『それ』を唱えるには早いぜ」
途端に頭に触れていた何かの感触が離れ、同時に何か重たいものが床に叩きつけられる音が聞こえた。息が洩れるような細い悲鳴と、手を叩く乾いた音が残響として響き渡る。まるで鐘の音のようだ。不思議な威力を以て、その音は眠りかけた三善の思考を叩き起こす。
唐突に聞こえてきた「男」の声を、三善はとてもよく知っていた。とても大好きな声だった。そして、どんなに望もうとも今後一切聞くことができない声だった。一瞬幻聴なのかと思ったほどだ。
「お前は!」
慟哭に似た“憤怒”の声がする。
「どうしてお前がここにいる!」
「悪いな、天国の門番にまたしても追い払われちまった」
それにしても、と「男」が呟く。「坊ちゃんの身体をこんなに傷つけて。おいたがすぎるよ、“
うるさい、と“憤怒”が猛る。
「裏切り者のお前が言えることか! それに、その身体はなんだ!」
「おお怖い。せっかく美人の身体を手に入れたんだから、もっと慎ましくしていればいいものを――」
三善、と「男」は唐突に声を上げた。
三善のほぼ使いものにならなくなった耳がその鋭い声をかろうじて捉える。のろのろと目を見開くと、濁り切った視界の向こうに黒い聖職衣が見えた。その後ろ姿は霞んでいてよく見えないが、何か良くないものと一致しているのは確かだった。
短い金色の髪、すらりと伸びた手足。やや広い背中。
「――がんばれ三善。もう少しの辛抱だ」
そして、今までの鋭さからは想像もできない程穏やかで優しい声がした。二日前に見た優しい夢の通り、あのままの声がすぐ手の届くところにあった。
「け……ふぁ……」
言いたくても言えなかったその名を、今やっとのことで口にした。
今、三善の前に立ちはだかるのは、紛れもない『あのひと』だ。しかし、何とか口にしたその声に対して、彼は返事を返してはくれなかった。
それは自分ではないと静かに主張するかのようだった。
「たわけ者が」
“憤怒”が短く返答すると、彼女はすぐに「男」へとその刃を向ける。鋭い切っ先に纏うは独特の橙のプラズマだ。間違いない、これを食らったら確実に液状化現象を引き起こす。身体がだめになってしまう。
しかし、「男」は決して避けようとはしなかった。代わりにその左手を勢いよく突っ込んできた彼女の右腕に伸ばし、ぐっと力強く握りしめる。
ぴたりと彼女の動きが止まる。
「……申し訳ありません。私はこの身体と正式に契約しているのです。それに」
「男」が彼女の耳元で囁いたのと、三善の血まみれの左腕が彼女の足首を掴んだのはほぼ同時だった。まとわりつく血液のせいでやたらぬるぬると滑るけれど、能力を使うには充分だ。三善は熱い息を吐きながら、うつ伏せの状態で掠れた声を無理やり絞り出した。
「っ……『ヨハン』……!」
「姫良三善を生かすことが、『あのひと』の意思だ」
止めを刺すかの如く絶大な威力を持った言葉を、「男」――ヨハン・シャルベルは投げつけた。銀縁の四角い眼鏡がその表情をうまく隠しているが、おそらくその瞳は怒りに燃えているのだろう。
“憤怒”の顔が醜く歪む。そんなまさか、と動揺を隠し切れない。彼女の手の中の太刀が、一瞬で白色の灰へと変わった。
三善の祝詞が切れ切れに聞こえてくる。彼も、ほとんど気力だけでそれを唱えているのだ。余裕のなさは声色にはっきりと表れていた。
それでも、これを行えるのは彼しかいない。最後の力を振り絞り、三善は声を上げる。
「『Fiat eu stita et pirate mundus.Fiat justitia,ruat caelum.』――『
刹那、かくんと膝を床につき、彼女は嗚咽を洩らす。慟哭にも似た、激情を秘めた声だった。
「あ、……あああああっ……!」
そんな彼女に、三善はゆっくりと手を伸ばす。両手が真っ赤に染まっている。
「『Date et dabitur vobis.』」
言葉を紡いだ刹那、彼女と三善を、優しい白金の炎が包み込む。ゆっくりと、彼女から“憤怒”の魂が剥がれ落ちてゆく。きれいな明るい橙の色を纏っていた。
この瞬間に直面するとき、三善はいつも後悔する。
もっと、彼らにとっての最善が在るのではなかろうか。浄化するよりも、もっともっと幸せになれる方法が。どうして、わざわざその存在を『なかったもの』にしなければならないのか。
そんなことを考えている時点で、『僕』は司教失格なのかもしれない――
三善の紅い瞳がのろのろと細められる。静かな炎に灼かれる彼女は、抱きしめる何かを欲してゆっくりと両手を伸ばした。橙の瞳が、切に訴えていた。それに答えてやろうと、三善は彼女の体をゆっくりと、きつく抱きしめてやった。
白金の炎が勢いを増す。爆ぜる音が耳に焦げつく。熱さなど既に忘れてしまった。
ふと、耳元で細い息遣いが聞こえてきた。彼女が――否、“憤怒”が彼女の体を借り、なにかを言おうとしているのだ。
「――」
囁くような、滑らかな発音が三善の左耳に入ってきた時、同時に彼は目を見開いた。銀のイヤー・カフが動揺を現すように細かく震える。
むせかえるような独特の花の香りが雨のように降り注ぐ。この場所に流れた生臭い空気を、その純粋な香りで浄化していくようだった。
「Ite,missa est……」
そして聖体の秘跡は終わりを告げる。
白金の炎が徐々に収束し、やがて灰だけを残し消え去った刹那、三善の集中の糸が切れた。どさりと完全に床に伏し、自ら血溜まりに突っ込んでしまった。刺された左の脇腹を必死に抑え何とか止血しようとするも、なかなか止まらない。
「三善っ!」
聞き慣れた声が降ってくる。
三善の目にはもう何も映っていなかった。頭の中すらも墨で塗り潰してしまったかのように真っ黒で、もう何も考えたくなかった。しかし、振ってくるその声の主だけはそれなりに把握している自分がいる。
ヨハンが三善を抱き起こし、まだ血が溢れ出る脇腹に触れるのを、無意識に右手で払いのけた。ぱしんと小気味良い音がして、冷たい掌が弾かれる。
「さわるな」
熱い息を吐き出しながら、三善は言う。
「その手で、さわるな。言った、だろ……」
言葉に微かな喘鳴が混ざる。ヨハンはしかし首を横に振り、たった一言、
「喋らないで」
とだけ言うと、『何か』を囁くような声色で呟いた。向けられたのは『三善』に、ではない。それは神に捧ぐ祝詞だった。彼との契約を示す、また、その能力者ならば誰でも効力を発する、あの祝詞だ。
薄れてゆく意識の中、三善はそれをしっかりと耳にしていた。
「『
――ああ、その言い方は『あのひと』のものにとてもよく似ている。
***
次に目を覚ました時、三善は見知らぬ場所で横になっていた。身体がずしりと重たい。動くのも億劫だったので、そのままの体勢で目だけを動かしてみた。
まだ輪郭のはっきりしない世界は、全体的に白い印象を三善に与えていた。ふと右側に目を向けると、切り取られたように四角く青いものが見える。きっとあれは窓で、青いのは空の色だ。まぶしいな、と三善は思い、ぼうっとしながら真正面に目線を戻した。
次第に目が覚めてきたのか、ぼやけた鮮明になる。白いと思ったのは、どうやら本当に白い部屋に入れられていたからのようだった。天井を囲うように走る銀のレールには、地味な色がついたカーテンが取り付けられている。ぴちゃん、と微かな音が聞こえた。見ると、それは点滴が落ちる音だった。小さな透明な滴が滑り落ちる。色のないチューブを伝い、体に侵入してくる。不思議なもので、三善はそれを心地良いと感じていた。
窓は開け放たれているようで、爽やかな風が吹き抜けて行った。彼の頬を撫でる一筋の風が体温を奪っていく。
今見ているこの世界が、まるで全く知らない世界になってしまったみたいだ。ほんの少し、眠っていただけなのに。
「目が、覚めましたか」
隣から声が聞こえた。とても穏やかで、そしてやや掠れた低音だった。
目だけを動かすことに限界を覚えた三善は、無理やり首を左横に捻る。赤い瞳が、彼の姿をようやく捉えた。
「……ああ、あんたか」
ヨハンだった。彼は三善同様、パイプベッドの上にいた。三善と違うのは、彼は上体を起こし何やら本を読んでいる、ということだけだ。顔色は良くないが、三善ほどひどい状態ではないのだろう。銀の眼鏡の縁がまぶしく見えて、三善はゆっくりと目を細めた。
「今、ナース・コールを鳴らしますね」
彼は本を膝の上に置くと、枕元を探っている。それを三善が止めた。まだ、他の誰かと話す気には到底なれなかった。勿論彼とも話す気などなかったけれど、脳の状態を補完するには事情を知っていそうな人に聞くしかない。体力的にもそう長く話せないだろうと無意識に思ったらしく、最低限の言葉で疑問をぶつけ始める。
ヨハンはナース・コールを既に手に持ってはいたけれど、三善の指示通り押すことはしなかった。
「おれ、どれくらい寝てたかな」
ナース・コールから手を離すと、コードが振り子のように壁に引き戻されてゆき、こつんと小さな音を立ててぶつかる。
ヨハンは静かに答えた。
「三日ほど」
三日、と三善は絶望に似た声を洩らした。無理もない。気を失っていたのはせいぜい一日程度だろうと勝手に思い込んでいたのだ。いきなり空白の三日があると宣告されれば戸惑うに決まっている。
「どうして、あんたがそこにいる」
「ブラザー・帝都の指示です。まぁ、私も明日までは入院しなければならないので。彼からしてみれば、ちょっとした護衛のつもりでしょう」
「どうして」
「プロフェットの規約に準じて、一般病棟と隔離しなければならなかったのです。そうなると、個室じゃあ明らかに部屋の数が足りません」
「そうじゃない。どうしてあんたが入院しているんだ」
怪我なんかしていなかっただろう、と三善はその瞳だけで訴えた。それを察したらしく、ヨハンは唇の左端を微かに吊り上げる。
「まだ血が足りていなくて」
「……輸血か」
ええ、とヨハンは頷く。
「あなたの血液型――AB型のRHマイナスはなかなかないということを、よく分かって頂かなくては」
「あんたは、それ、なのか」
「それ、ですね」
話し疲れてしまったらしく、ヨハンは眼鏡を外し、もぞもぞと布団にもぐりこんだ。三善に対して背を向けるような格好で、薄く白いシーツにくるまる。
三善は彼の背中をしばらく眺めていたが、やがて飽きてしまったのか、再び首を動かし仰向けになる。まだ靄のかかる頭の中で、ヨハンの声が何度も何度も響いている。
――それは『あのひと』と同じ血液型だ。
点滴の透明な滴が、ゆったりと落ちてゆく。
恐ろしいほどに、時間はのんびりと流れていた。
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