第三章 (9) 例の『塩化』現象・再
その後三善はもうひと眠りし、夕方頃にようやく覚醒した。
自分でナース・コールを鳴らすと、しばらくののち帝都自らやってきた。そこで軽い問診を受け、腹の傷以外は特に問題がなさそうだと分かると、帝都はようやくほっと肩を撫で下ろす。
「念のため、明日精密検査を行いましょう。それにしてもあなたときたら、熱を出したかと思えば今度は大怪我して帰ってきて。子供ですか。ブラザー・ヨハンに感謝するんですよ。あのひとがいなかったら、あなたは完全に失血死していたでしょうから。そもそも自分が珍しい血液型だと分かっているなら、なるべくそういう事態を招かないようにしてください」
それから、あれから、と帝都の長いお説教が始まった。大好きな優しい表情を浮かべた彼は、たいていその直後に嫌いな小言を口にするのである。しかし慣れたものなので、三善はほぼ上の空で、時折聞いているふりをしながら適当に相槌を打っている。それも実にタイミングよく、ああうん、そうねえ、と。
見兼ねて隣のベッドで内職をしていた――九条神父が勤める教会の入り口には、聖典の一節が書かれたおみくじが置いてある。彼は印刷してもらったおみくじの紙を一枚一枚折って、シールで留める作業を行っていた――ヨハンが、目線は手元に向けたまま声だけを帝都へと投げかけた。
「ブラザー・テイト。
「あってめっ、ヨハン!」
やはり聞いていませんでしたね、と帝都は嘆息を洩らし、目を泳がせている三善に声をかけた。
「どうせ年寄りの小言ですから、聞いていなくても全く気にしていませんけど。三善君、私はこれから一旦支部に戻ります。なにか欲しいものはありますか?」
「欲しいもの? ええと、」
そう尋ねられ、何かあっただろうかと三善は考える。着替えはあるので、せいぜい財布、筆記用具、印鑑、朱肉くらいだろうか。頬に手を当てながら、ふと思いついたものを伝えた。
「おれの自室に携帯が一台置いてある。あれを持ってきてほしい」
「普段使っているものではなく?」
「ああ。あまりに古すぎて型落ちしたやつ」
そう伝えると、帝都はゆっくりと首を縦に振る。にこりと笑うたびに目尻に皺が寄り、ああ、このひとも相当歳だなぁとばんやりと考えてしまった。年上に丁寧語を使われること自体はすっかり慣れてしまったが、やはり違和感があるものだ。
「……ああ、そうそう。ついさきほどブラザー・ホセから連絡を受けまして」
そこでなにやら思い出したらしい帝都は、ぽんと胸の前で手を叩いた。
「ホセから? 直接おれに言えばいいのに」
「電話が繋がらないからって言っていましたよ。だから支部に連絡してきたみたいなのですが」
ああなるほど、と三善は納得した。例の件で私用携帯はまっぷたつになり、再起不能の状態にあるのだ。入院している以上買いに行くこともできないし、人に頼むこともできない。もう一台の番号はホセには教えていないので、完全になすすべのない状態に陥っていたのだった。
「それで、あいつはなんだって?」
「『今すぐそちらに向かいたいところですが、ちょうど所用で聖都にいるので当分は帰国できません。私がそちらに行くまで、ちょっとした遣いを寄越します』と。それだけ言えば分かる、と仰っていましたが」
分かるかい? と帝都が尋ねてきたので、三善は曖昧に頷いた。
「遣い、ねぇ……。まだ使えるんだろうか、アレは」
帝都に窓を大きく開けるよう頼むと、三善は左指で小さな輪を作る。そしてそれを口元に当てた。
ひゅううん、と、高らかな音色が彼らの耳を貫いた。――指笛である。
はじめ帝都もヨハンも一体何のことだかよく分からないといった様子で首をかしげていた。ただ、その音色は夕暮れの彼方に消えてしまっただけだ。しばらく張り詰めた空気が病室を満たしていたが、何かに気が付いた三善は声を上げる。
「お、来た来た」
すぐに帝都に窓から離れるよう指示を出すと、彼はその右腕をまっすぐに伸ばす。
その時だった。
びゅん、とかまいたちの如く素早い「何か」が窓から飛び込み、三善の右腕に留まった。大きな翼をぱたぱたと何度か震わせると、その「何か」はゆっくりとそれを折りたたむ。
その正体は、鷹だった。
三善は「お疲れさん」と声をかけてやりながら、その鷹の嘴をそっと人差し指で撫でてやる。鷹は三善に随分と懐いているようで、甘えたように目を細めている。
一体何が起こったのか分からずに、帝都とヨハンは思わず目を剥いた。
「あの、
「三善君、それは? 鷹匠だったの、君」
そんな二人をよそに、三善はけろっとした様子で鷹の首に巻きついている暗い色をした首輪をいじっている。よくよく見てみると、その首輪には大聖教の印が入ったプレートが付いていた。つまり、これは大聖教公認の所有物ということだ。
三善は小さく首を動かし、ぽつりと言った。
「ただの『A-P』だよ。ああでも、これは……おれが本部勤務だったときに遊びで作って、そのままにしていたやつだな。ジョンが改造した跡があるけど、あのひとは一体何を仕込んだんだか」
さも当たり前のような口ぶりだが、なんだかとんでもないことを言っている気がする。
そもそも『A-P』を遊びで作るというその部分が信じられない。あの仕組みは専門の技術者でもなかなかに理解し難いものがある。そんな大それたものを、一年そこら勤務しただけで軽々と作れるレベルまでになっていたというのか。
我が子とも言える鷹と戯れている本人をよそに、また新たな三善最強説が二人の間に浮上していた。
そうしているうちに、三善は鷹から首輪を外し終えていた。銀色のプレートにはいくつかのボタンと小さなスピーカーが付いている。その正体をようやく理解したらしい三善、一番端についている再生ボタンを無造作に押した。
すると、機器の真横についているランプが緑色に光り、ばかでかい声が聞こえ始める。
『あ……あーあー。録れてるかな。おーいチビわんこ! 俺だ、元気かー』
やたら呑気な男性の声が聞こえ、思わず三善は脱力する。
「チビわんこじゃねえよ、もう。しかも新手の詐欺か」
『チビわんこじゃねえよ、って言ってそうだな。言い返す元気があるなら大丈夫だろう。“大罪”に腹を刺されたんだってな。司教失格。そもそもお前は根本的に注意力が足りない、覚悟も足りない。どうせまた最後でためらったんだろ』
痛いところを突かれ、ぐっと押し黙る三善。その横で帝都は「あの司教を黙らせている」と声の主に尊敬の念を示し、ヨハンはと言えば何とも言えない複雑な表情をしていた。
『お前は良くも悪くも優しいからな、それが命取りになるってことを身を以て理解したんじゃないかと、まあ期待しておく。さて、お説教はここまでだ。本題に入る。チビわんこ、お前が寝てる間にちょっと大変なことになったぞ。例の“塩化”が別の場所で発生した』
思わず心臓が跳ねた。
例の“塩化”――すなわち、御陵市の一件だ。まさかとは思うが……、と三善は脳裏に彼の姿を思い浮かべていた。
橘だ。
『パンドラの匣』が何かの拍子に開きかけたとでも言うのだろうか。
焦燥感に駆りたてられている三善の耳に、ジョンの言葉が焼きつけられてゆく。一字一句忘れぬように、ありったけの集中力を費やしているようにも見えた。
『場所は本州第七区・
十二使徒の、召集――。
三善はしばらくその無表情のままじっと、鷹が身に着けていた首輪を見つめていた。録音データはそれで終了らしく、緑のランプは数回点滅したのち、ふっと消えてしまった。
そのままじっと、三善は黙っている。まるで彫像にでもなってしまったかのようだ。
ヨハンも帝都も彼の様子を窺いつつ、思考の邪魔にならぬようただただ静かにしているしかなかった。時折聞こえる鷹の機械音だけが静かに響く。
おもむろに三善が口を開いたのは、それから間もなくのことだった。
「……帝都。申し訳ないけれど、少し席を外してもらえるかな」
帝都は短く返事すると、速足で病室を後にする。引き戸の硬い回転音が完全に停止したのち、三善はヨハンへと視線を向ける。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます