第三章 (5) 憤怒

 肌にまとわりつく湿気にひどくうんざりしていた。

 べったりと背に張り付く服の感触が気持ち悪い。それでも喉だけはカスカスに渇いていて、唾の奥に張り付いた感触がある。


 三善はゆっくり瞼をこじ開け、細く長く息を吐き出した。


 釈義を展開した後のだるさと熱が全身を駆け巡り、思考がぼんやりと靄がかかっている。その視界に映るのは、血で赤く染まった聖職衣の袖と、灰色をした薄汚い床のみだ。釈義を展開したときに手袋も拘束具も適当に放ってしまったので、今は白い掌がむき出しになっている。それに色を添えるように、ところどころ赤い裂傷の華が咲いていた。左手をゆっくりと右腕に滑らせると、さきほど受けたはずの傷はどこにもなかった。ただ、右側の袖だけが真っ赤な水滴を吸いこんで重たくなっているだけである。


 それから彼は視線を真上へと向けた。骨組がむき出しになっている天井は、床と同様、くすんだ灰色をしている。埃っぽさも変わらない。視線を真正面に戻し、今度は全体の広さを確認しようと首を動かした。どうやら、元々はなにかのテーマ・パークだったらしい。あちこちに色がはげた遊具が無造作に積まれている。風化した金属の人形や、馬。それらが死んだ魚のような眼光でこちらを睨んでいた。


「――」


 動こうかと思ったが、身体が重くて思うように動けない。

 ――否、身体というよりは右足だけが猛烈に重いのだ。見ると、その右足に何か金属らしいものがまとわりついていた。その金属に触れると、緑の火花が散った。その光に視界を奪われ、思わず三善は目を背ける。


 この金属が体のだるさの原因だろう。奈何せん、鉛でも練り込まれているかのように重い。念のため解析トレースでもして成分を解析した方が、とも思ったが、唐突にロンの存在を思い出したので止めた。火花が散ったということは、ほぼ間違いなく“大罪”が関わっているということだ。ならばあまり下手に触らない方がいい。


 次に三善は左耳・胸元を探り、愛用品の十字架を確認した。イヤー・カフも、銀十字も、確かに所定の場所にあった。それだけで、なんとなく安心する自分がいる。


「……ここは、どこだ」


 そこでようやく、彼は普通一番初めに考えるであろう疑問にたどり着いた。

 記憶によれば、確か一角獣に連れ去られたはずなのだ。何でそんな目立つもので……などと文句のひとつも言ってやりたいものだが、そこを追及したところで結果はさほど変わらない。


 そこまで荒っぽいことをせずとも、ちゃんとした手順を踏めば話をするくらいの対応はするのに。


 そう考えていると、静かに扉が開く音がした。


「あら、お目覚めのようね」


 女性の声だ。のろのろと顔を上げると、東洋人の女性が口元に笑み湛えながらこちらに歩いてくるのが見えた。腰までの長さの黒髪は癖一つなく、すらりと細身の体に纏う漆黒のワンピースがとてもよく似合う。瞳は橙色である。変わった色をしている、と三善は思った。


 珍しいものをじっと見すぎる傾向にある三善、今度ばかりはさすがにまずいだろうと判断したらしい。さりげなく目を逸らし咄嗟に『いい子の仮面』を被ると、気持ち悪いほどに穏やかな口調で言った。


「ええ。おかげさまで、とてもよく眠らせてもらいました。お気遣い感謝します」

「喜んで頂けて光栄ですわ」


 彼女が破顔する。一般的に言う美人に該当するその顔立ちは、街中で見たら誰もが振り返るほどだ。このような完璧な笑顔を向けられたら、一瞬で心を奪われてもおかしくはない。

 そう、これが普通の状況ならば。


「ええと、」

 言葉に窮して、三善はちらりと己の足首で光る金属に目を向ける。「あなたは、おそらく“七つの大罪DeadlySins”の誰かだとは思うのですが……。どちらさまでしょうか」


 確かめるように、三善は尋ねた。彼女はゆっくりとした足取りで彼に近づき、三善に密着するくらいの距離に膝をついた。彼女は眉を下げ、哀しそうな表情を浮かべていた。


「……あなたは分からないのね」

「記憶によれば、あなたは私の知っている彼らとはまた異なる容貌をしています」


 そう、と彼女が呟くと、その細く長い指を三善の頬に沿わせた。僅かに見えた爪は丸く、桜貝のようである。柔らかな指先でゆっくりと滑るように撫でると、その親指が最後に行き着いたのは三善の唇だった。


 女は唇の端に艶めかしさを湛え、そして瞳に怒りの炎を燃やす。


「これでも、私たちは血を分け合った兄弟のようなものなのに」


 ぞくりと、体中の毛が逆立つような感覚が襲う。

 その言葉の意味を考えるよりも前に、三善はその殺気にも似た気配に思わず頬を引きつらせた。まずい、と脳裏で警鐘が激しく鳴り響いている。三善は必死になってその気配から心当たりのある人物を思い浮かべ、ゆっくりと唇を動かした。


「“憤怒Ira”、か?」

「あたり」


 ふふ、と彼女――“憤怒Ira”は声を漏らし、そして三善の身体を強く抱きしめた。


「前の身体は聖クリストフォルスに壊されてしまったから、『今のあなた』に会うのは初めてね。あなたのために、ようやく拒否反応の出ない身体を見つけたの。わざわざ綺麗な体を探したんだから感謝してよ。綺麗な人、好きでしょう?」

「……そうか、代替わりね。ならば顔を知らないはずだ」


 苦笑しつつも三善は彼女の様子を探る。抱き付かれているため顔は見えないが、すぐに殺すつもりはなさそうだ。しかし、なるべく失言はしない方がよいだろう。彼女をむやみに刺激しないよう、三善は慎重に言葉を選ぶことにした。


「もうひとりはどうした? 一緒じゃないのか」

「うん? どうしてそう思うの?」

「足枷の火花の色が君のものと違う。おそらく君は“怠惰Acedia”と一緒のはずだ」


 彼女はそのままぴくりとも動かなくなった。おそらく自分の頭の後ろの方で目を剥いているのだろう。

 三善は様子を窺いつつ、彼女の両肩に手を乗せ、ゆっくりと引きはがした。こういう、パーソナル・スペースを無暗に縮めてくる人間は正直苦手なのである。“大罪”を人間と定義するかという点で多少の議論が起こりそうだが、少なくとも三善の中では同じカテゴリに分類されていた。よって、彼女もまた例外ではない。


「そう、ね。“怠惰Acedia”は確かに一緒にいたけど、今ここにはいない」

「そうか。分かった」


 怠惰のアトリビュートは『緑のBow』。ほとんど出くわしたことはないけれど――おそらく、本人がその名の通り惰性で生きているからだろう――、確か“怠惰”は七種類の中でも珍しい能力を使うはずだ。何せ、彼のアトリビュートである弓は『弓矢』の弓ではなく、『楽器』の弓なのだ。戦闘要員でないことは明白である。


 それならば戦闘特化した“憤怒”と共に行動する理由も理解できる。しかし、まだ納得がいかない。そもそも“憤怒”は今回の遡行では単独行動をしていたはずなのだ。何故今更『終末の日』否定派の“怠惰”と共に行動しているのだろう。

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