第三章 (4) 第三者

 そのページに表示されているのは、エクレシアに所属する全神父の行動記録である。


 彼らが洗礼の際に与えられる銀十字の中には大司教の釈義が込められており、彼らが教区を移動する毎にデータが自動的に検邪聖省へと送られる仕組みになっている。


 異端審問官がごく少数であるのに大人数の神父を管理できるのは、こういった仕組みがあるからなのである。とはいえ、ロンはあまりこの方法を好まないので、半年に一回担当の教区のみを少し覗く程度に留めている。これは他の審問官も同じで、最悪一度も開いたことがない審問官も稀にいたりする。無論、指定教区外・数年前のログを開くことなんか、よほどのことがなければ行わない。


 ロンが見つめるその日付は五年前、ケファ・ストルメントがドイツへと向かうはずだった日。彼はエクレシア指定便に乗るはずだったので、教区もかなり制限できる。たしか彼が使用していた十字は本来姫良三善が使うものだったはずなので、三善のコードをケファに、ケファのコードを三善に置き換えれば人物も特定できる。


 検索をかけると、答えはすぐに出た。

 事件当時、空港で感知できた人数は以下の三人。


 ケファ・ストルメント。

 姫良三善。

 ホセ・カークランド。


 彼らのログがしばらく延々と続き、ケファだけが二人から離れていった。どうやらここで別れの挨拶を済ませ、搭乗口へと向かって行ったのだろう。


「……あれ?」


 それを黙々と見つめていると、ログの中に突如『第三者』のログが書きこまれ始めた。


 この名前は。


「――嘘、だろ……?」


 その時、ロンの後頭部になにか堅いものがぶつかった。重い、音。カチリ、と。この音は聞いたことがある。

 静かにロンは両手を耳の横まで挙げ、口元に笑みを湛えた。


「降参です、ブラザー・ヨハン。初対面でそれはないでしょう?」


 それを降ろしてくれませんか、と静かに告げると、背後から「断る」と男性の声が降ってきた。ロンは呑気にも、随分綺麗な声だな、と思った。あいにく振り向くことはできないので、お顔を拝むことはできない。


 その男は綺麗な声に反して、まるで人を小馬鹿にしたような口調で話しかけてくる。


「念のためこっちを監視していて正解だったな。噂通り、とても頭のいい審問官らしい。この身体の主には勝てないみたいだが」

「そりゃあ、ですよ。それにしても、まだ信じられないな……。一体、どういう手品を使ったんですか? こんな巧妙な手を使ってまで」

「簡単だ。合意あってこの身体を地に堕としてやった。それだけだ」


 ロンの表情が変わった。無表情と言うべきだろうか、その表情にはなにもなくなってしまった。その代わりに滲み出るのは、怒りにも似た禍々しい焔。


「殺したのか」

「いいや、生きている。お前たちが愛する司教様のためにわざわざ生かしたのさ」


 銃が降ろされる感覚があった。振り向いてもいい、ということだろうか。

 ロンがゆっくりと体を動かすと、そこには一般神父の恰好をした金髪の男が立っていた。薄い眼鏡をかけた彼の表情からは怜悧さが感じられる。彼の左耳、ちょうど軟骨の部分に白い石のついたピアスが開けられている。


 それを見て、ロンは何故かこの支部の長の姿を思い出していた。そしてこうも思う。声と同様、綺麗な人だ。しかし、この男は先程までの傲慢な口調からは想像もできない悲しみを湛えた表情を浮かべている。


「どういう意味でしょうか」


 尋ねると、男は静かに被りを横に振った。


「――気付いているんだろう。ならば、まだ黙っていてほしい。こちらの条件が整っていないから」


 発する声の雰囲気が変わった。穏やかで、しかしどことなく激情を秘めたような声。まるで、人が変わったかのようだ。


「俺は『あの子』に三回、嘘をつかなくてはならないんだ」


 ロンがその意味を理解した刹那、遠くの方からどたどたと走る音が聞こえてきた。我に返ったロンは、ようやくログページを開きっぱなしにしていることに気が付いた。慌てて全てのウィンドウを閉じ、何事もなかったかのように顔を上げる。


「ブラザー!」


 ノックすらせず部屋に駆けこんできたのは橘だった。どうしたものか、その身体は傷だらけで、頬もあちこち擦り切れていた。確か彼は朝早くに三善と共に出かけたはずだった。


「タチバナ。ノックくらいしてくれる? こっちは今、大事な大人の話をねぇ」

「そんなことは後でいいですっ! センセが……!」


 その様子を見て、表情を変えたのはヨハンだった。

 ロンは敢えてそれを無視し、橘を宥めるために無理やり口にバター・キャンディを放り込む。


「まあまあ、落ち付いて。ゆっくり話してごらん」


 口に入った飴の甘さが、彼に冷静さを取り戻してくれたらしい。ロンに背中を擦ってもらい、ようやく橘は口を開いた。


「センセが、怪物に襲われました。蟲の形をしたものと、一角獣の形をしたやつ。角が腕に刺さって、センセが重傷を……。シスター・リーナを探したんですけど、外出中で……!」

?」


 それを聞いたヨハンにはなにか思い当たる節があったようだ。しばらくじっと押し黙ると、確信したようにゆっくりと頷く。


「タチバナ君、だっけ。ヒメはどこだ。案内してくれるか」

「えっ……? ど、どうして俺の名前を?」


 話はあとだ、とヨハンは橘を引きずりながら部屋を出て行く。その姿をぽかんとした様子でロンは見つめ、彼の最後の言葉を脳内で静かに反芻した。

 彼・ヨハンは今、確かに言った。自分の目の前で、最も重要な一言を。


『ヒメはどこだ』と。


***


 ヨハンに急かされながら、橘は先程の場所へと案内する。

 橘は前述の通りヨハンに対する一切の記憶を失っていた。したがって、見ず知らずの人だという認識のもと「あなた誰ですか?」という質問をしてきた。


 それに対しヨハンは渋い顔を浮かべ、

「その既成事実まで消しやがったか、あのバカは」

とか何とか呟いていたが、簡単に三善の知り合いだということのみを説明してやった。


 走るたびに侍祭の白い肩帯が翻る。

 先程“大罪”に遭遇した場所までやってくると、既にそこには何も残っていなかった。べったりとした体液と血液のような赤黒い跡が残る。ヨハンは静かにしゃがみこみ、その残滓をじっと見つめた。


「センセは、どこに行っちゃったんでしょう……?」


 不安げに彼は呟く。

 ヨハンはじっと辺りを見据え、何かを探っているようだった。“大罪”独特の残り香が地を這うように漂っている。その中に漂う、肌を刺激する強烈な聖気の残滓に気が付いた。この強すぎる聖気には、心当たりがある。


「――なあ、あいつが襲われた時、どんな色の火花が散ったか覚えているか?」


 唐突な質問。橘は戸惑いながらも、橙だと告げた。


「やはり“憤怒Ira”か。一角獣を寄こしたということは、あいつが復活したのか……? うん。気配を追えばまだ間に合うな」


 危険だから君はここに残ってくれ、とヨハンは告げ、聖気を頼りに走り出そうとする。それを、橘が引き止めた。


「あなたは一体――?」


 ヨハンは立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。


「……君の先生を、唯一裏切る者だ」


 橘を見つめる紫の瞳が、哀しそうに揺らいだ。

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