第二章 (2) まぼろしの中にいる人
「どうですか、橘君」
穏やかな老齢の声が聞こえた。奥から九条神父がひょっこりと顔を覗かせる。そして棚が整然と片付いているのを見て、嬉しそうににっこりと笑った。
「ああ、すごくきれいだ。ありがとう、この歳になると力仕事が辛くてね」
「いいえ、こういうことでしたらいつでも言ってください。俺、掃除は好きなんで」
それは心強い、と九条神父は橘の頭を優しく撫でる。彼はその年齢もあるのだろうが、橘のことをまるで孫のように可愛がっている。ちなみに三善は息子扱いしているという少々度胸のある彼だが、橘自身も祖父ができたような気分で、大変嬉しく思っていたのである。
なんとなく、三善が彼を慕う気持ちが分かる気がした。
「あっ、九条神父。ところで、先程知らない神父様に会ったのですが……」
そこで橘は先程の金髪の神父のことを突然思い出した。ここにやってきたということは、九条も間違いなく知っている人物だろう。なにせこの書庫は九条が直接管理しているものだ。利用許可も当然彼が判断しているはずだ。
彼は一度きょとんとして首をかしげたが、すぐに思い出したらしく、ああ、と頷いた。
「ヨハン・シャルベル神父のことかな。先週から教会の手伝いをしてくれているんだ。元々エクレシア勤務だったはずだから、もう知っていると思ったのだけれど……」
「ええと、それは、俺がまだちゃんと位階を得ていないからかもしれませんね。あとでセンセに聞いてみます」
そうかもしれないね、と九条は笑う。そして、休憩にしようかと持ちかけたのだった。
***
その頃、三善は九条神父の教会裏に自転車を停めていた。きちんと二重ロックにし――こういうところだけ彼は几帳面である――、額から流れ落ちる汗を袖口で拭う。
急いで用事を済ませ自転車で字のごとくかっ飛ばしてきた三善である。信頼できる九条の元に橘を預けたけれど、やはり不安でたまらなかった。昨夜の土岐野との電話もその原因のひとつだろうが、できるだけ目の届く範囲に彼を置いておきたいのだ。
喘ぐ息をゆっくりと吐き出し、暑さで鈍る思考を冷ますべく何度か深呼吸した。肺に清浄な空気が満たされて、乱れる心音も徐々に落ち着きを取り戻してゆく。
「……さて」
あいつを迎えに行くか。
最近風が冷えてきたので、クールダウンするにはちょうどいい。肩からずり落ちそうになっている緋色の肩帯をかけ直し、自転車のハンドルに掛けていた黒の鞄を引っ掴む。
――いっそタチバナが司教にでもなってくれたら、司教見習いとして違和感なく連れまわすことができるのに。
三善はかなり無理やり且つ強引なことをぼんやりと考えた。自分もできるなら彼もできるのでは、と内心思うのだが、後々無理が生じるだろうと容易に想像ができる。すぐにこの考えは却下した。
そんな大した利益にもならないようなことを延々と考えながら角を曲がり、戸口にその赤い瞳を向けたときだった。
戸口からちょうど、誰かが出てきた。
九条神父だろうか。
そう思い、声をかけようと三善はにこやかな笑みを浮かべ片手を挙げようとする。――だが、しかしそれは結果叶わなかった。
「――っ!」
出てくるはずの言葉が、『彼』の姿を見たと同時に霧散してしまったのだ。
そこから出てきたのは、すらりとした背の高い神父だった。黒い聖職衣に白い肩帯を下げており、その恰好から一般神父だと推測できる。短く後ろにまとめられた金髪に、銀縁の眼鏡。左耳に見えるのは、白っぽい石のピアスだ。
彼の穏やかな表情には、どこか既視感があった。
心臓がばくばくと激しく動き出すのが嫌でも分かる。心臓の音がこんなに大きいものだとは思っていなかった。やたらうるさいその音は、その他の音を全て瞬時に打ち消してしまった。
どうして?
叫ぶ拍動の向こうで、長い間「しまいこんでいた」記憶が再生される。
――最後くらい笑え。ばか。
やめてくれ!
脳裏に焼き付くその優しい声に動揺し、三善はとうとう鞄を落とした。どさり、と重たい音がする。その音がまるで鐘の音のように延々と木霊して聞こえ、記憶の中の『あのひと』の声と共にぐらぐらと揺れた。
――本当に、一緒に来なくていいんだな。
己を惑わすその問いが、耳にこびりついて離れない。
三善の身体は硬直し、そのままぴくりとも動けなくなる。指先が凍るように冷たい。口が妙に渇く。どうしてだろう、喉すらもきゅうっと締め付けられるように苦しかった。
拍動と、共鳴する声。それを必死に打ち消そうと、三善は何度も別のことを考えようとした。だが、考えれば考えるほどその声は大きくなる。
堰を切ったかのように溢れだす。淀みない音の川が激しくせめぎ合う。
どうして、目の前の神父は。
どうして、『あのひと』に似ているんだ。
鞄が落下する音により、目の前の彼がこちらに気がついた。彼の眉が僅かに震える。そして、のろのろと彼は三善にその瞳を向けるのだ。
心が叫んでいる。やめてくれ、と。しきりに悲鳴をあげ、慟哭にも似た濁音が脳天に響いている。警鐘とも紛うほどの鋭さが、そこにはあった。
紫水晶を思わせる瞳が、三善の姿を捉えた。
やめてくれ、これ以上幻覚を見せないでくれ。甘い期待を抱かせるな。
なぜならもう、自分が望む『彼』はいないのだ。冷たい冬の海にその身を沈め、泡となって消えたはずなのだ。
これは――そう、幻だ。
そう思っても、呼ばずにはいられない。その姿形、どれをとっても『あのひと』そのものなのだから。
「どう……して、」
どうして、こんな幻想を見せるのだ。どれだけ試したら気が済むのだろうか。
「け、ふぁ……っ?」
――神様。
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