第一章 (6) 覚悟

 しばらくして、ようやく三善は橘が控える客間に足を運んだ。彼のことをあまりに待たせ過ぎたからか、橘はなぜかイヴをも巻き込んでトランプ大会を繰り広げていた。


 いつの間に、イヴはトランプなんか覚えたのだろう。自分が管理している範疇では、そんなデータはなかったはずだが。


 思考回路を順に辿り該当しそうな項目を探していると、あ、と橘が顔を上げる。三善が戻ってきたことでほんの少し安心したようだ。心なしか堅い表情が和らいでいる。


「みよさま、遅い。……あー、奥で煙草吸っていたのか。どうりで」


 どうやらその身に纏う香りに反応したらしい。ロンがこちらを見上げて言った。身体に悪いからやめてよね、と付け加えながら。

 それを適当にあしらいつつ、三善は空いていたロンの隣に腰掛ける。ちょうど橘と向かい合う形となった。


「ホセと連絡がついた。ええと、タチバナ、だっけ。アレからどこまで聞いている?」

「ええと。釈義がある可能性がある、と。ここに来て訓練すれば、もしかしたらプロフェットになれるかもしれないと、そう聞いています」


 どうやらホセは話の核心を本人には聞かせていないらしい。

 三善はすっかり困ってしまい、思わず肩をすくめた。どうしたものだろう、嘘ではないが真実ではない認識を、自分の親はこの少年に与えてしまったようだ。


 じっと三善に向けられる橘の黒目がちの瞳。それはあたかも仔犬のようで、どうも良心が痛む。


 今の彼は単に平常心を装っているだけで、本当は精神的に不安定だというのは見て取れる。彼に例の件――「パンドラの匣」について話すのは早すぎるのだ。しかしこれを話さない限り、彼は自分がいずれ姉のようにプロフェットになれると妙な期待をしてしまうだろう。


 内心三善は舌打ちをしていた。いつものことだが、ホセが回してくる仕事はかなり面倒だ。

 そしてこうも思う。――ホセに何と言われようと、その責任の重さに自分は未だ耐えきることができない。別に逃げた訳ではない。逃げた訳ではないの、だが。


 橘の期待に満ち溢れた黒い瞳は、どうも雨と重なるところがある。それが三善の中で極端な罪悪感を生み、どろどろと迷いが渦巻いている。

 どうしよう、どうするべきかとひたすらに悩む三善。ちくちくと良心が痛む。


「俺、頑張るから! お願いです、司教ファーザー。ここに置いてください」


 その健気なまでの必死さが痛い。

 じとっとした目でこちらを見るリーナ。ロンは別の意味で三善を睨みつけていたが、イヴだけは中立で、無表情で三善を見つめていた。


 困ったなあ……。


 思わず長ったらしい溜息をついてしまった。


「……頑張ると言われてもなぁ」


 匿うことについては全く異論がないけれど、彼を常に連れて歩くのは無理だ。『あのひと』ですら、共同の仕事を引き受けた場合と講義以外は別々に動いていたのだ。

 そんなことを考えている三善を見て、橘はどうやら別の意味にとってしまったようだ。ここに置いてもらうべく、必死になって食らいつく。


「俺、帰りの旅費がないんです。せめてそれを稼ぐまではここを離れることができません! 雑用でもいい、お願いです」

「三善君。こんな子供に働けなんて言えないでしょう? 次期教皇たるもの、慈悲深き心で! 私も協力するよ!」


 リーナも妙な方向に勘違いしており、しきりに橘の肩を持とうとする。彼女は自分と三善以外に新しくプロフェットが生まれる可能性に喜びを感じているだけだ。そりゃあ、プロフェットが増えれば彼女にとっては嬉しい限りだろう。橘の肩を持つのも当然だ。


「……うう……」

 本気で困った。「ろ、ロンの見解としては」


「プロフェットが増えるのはこちらにも大きな利益がある。損得という観点から言えば、非常に合理的ではあるし、断る理由もない。その代わり、彼を引き取る場合はみよさまの特殊な身の上を理解させることが必須だろうね。俺の嘘が他にばれると困るだろ?」


 彼もやはり橘を信じているので、若干の勘違いをしている。しかしまだ客観的なぶん傷は浅い。これから説明すれば大方納得はしてもらえるだろう。


「ちなみにイヴは?」

「私はどちらでも。あなたが引き取るというのならそれで構いません」


 つまりどこまでも中立であると。


 多数決で、なんとなく引き取らなければならない雰囲気になってしまった。ここで付き離したら鬼だろうな、と自分でも思う。そこまで厳しい物言いができるほど自分は鬼ではない。


 覚悟を決めなければならない。


 『あのひと』も、きっとこんな気持ちだったのだろう。自分の後見人となるとき、こんなふうに迷いや戸惑いを孕んだもやがかる気持ちを胸に抱き、それでも自分の手を取ってくれた。


 脳裏に『あのひと』の表情が浮かぶ。きっとこんなときは、紫色のきれいな瞳を細めて、困ったように笑うのだ。そして、仕方ないな、と言いながらも大きな温かい手を差し伸べてくれるのだ。


 記憶の中の彼は、いつでも自分を支えてくれていた。

 今度は、己が少年の手を取る番なのかもしれない。


 三善はぽつりと呟いた。


「……イヴ、寮の部屋に空きはあったかな」


 とたんに橘の表情がぱっと明るくなる。


「ええ、結構な空きがありますが」

「そうか。位階を叙するまで、どこか貸してやれないかな。できればおれの部屋の近くがいい。寮の管轄は誰だっけ、アヴィセンナかな」

「はい。許可は私が取ってきます」


 イヴが一礼し、楚々と出て行ってしまった。

 橘がその明るい表情で三善の顔を見上げた。その表情はどことなく、雨のそれと似ている。かなり複雑な心境だった。そういえば、彼女はこの件を知っているのだろうか。あとで電話してみようと三善は思う。

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