八月七日 1 合格通知

 司教試験の合格通知は、本来大司教から封書で直接手渡される。

 ……はずなのだが、あいにく彼の頭からは受験以降の段取りがすっかり抜け落ちていた。


 そんな訳で、前日までのハードな試験を終え精根尽き果てた三善は、自室で半ば死んだように眠っていた。頭まですっぽりと布団を被ると、すぴすぴと奇妙な寝息を立てている。


 結果はどうであれ、試験が終わったことへの達成感が彼の心を満たしていた。ちなみにこういうところだけ準備のいい三善は、丸一日惰眠を貪りたいがためにあらかじめ休暇申請をしていた。


 だからもう、彼を縛りつける「なにか」というものは事実上存在しないのだ。


 そう、存在しない。だから忌まわしきラテン語も今だけは見なくていいし、実技教官である大嫌いな司教連中の顔も見なくていい。それはなんて素晴らしいことだろう!


 そう、彼は今、幸せの絶頂にあったのである。


 ――この声で起こされるまでは。


「ヒメ君。いつまでも寝ていないで、起きてください」

「……」


 三善は思わず眉間にしわを寄せた。安らかな眠りを妨害するかの如く耳に飛び込んできたのは、どうしてだろう、ホセの声のような気がする。少し考えて、三善は聞かなかったことにした。寝返りをうち、そのまますやすやと寝息を立て始める。


 頭上から嘆息が聞こえたかと思えば、ゆっくりと肩を揺すられた。かなり迷惑である。


「ヒメ君、……三善。こら、そろそろ私より怖い人が起こしにきますよ、せめて体を起こしてください」

「知らない。聞かない。おれにとってホセより怖いのは『あのひと』だけだし」

「それ以外の世界を知りなさい、あっ」


 その「あっ」の行方が気になり、三善はようやくのろのろと瞼をこじ開けた。


 その目に映ったのは。

 ――やたら厳つい、スキンヘッドの男だった。


***


「俺の顔を見て気絶するとは、なかなかに失礼なガキだな。本当にこれがあの『姫良三善』なのか?」


 白目を剥いて倒れこんだ三善を横目に、ホセは申し訳なさそうに眉を下げ、「すみません」と肩を竦めた。そして、彼におずおずとシーリングされた封書を見せる。


「合格したのは本当ですよ。ただ、ちょっと温室育ちといいますか。世間知らずでして」

「ふぅん。おいこら、起きろチビわんこ。さっさと行くぞ」


 再び三善は謎のスキンヘッド男に起こされ、またも気絶しかけた。彼は三善の世界に今までにいなかったタイプの人間だったためか、どうも体が受け付けないらしい。気持ちは分からなくもないが、そう何度も気絶されても困る。すぐにホセがなだめるように声をかけ、今度は気絶せずに済んだ。


 ――このやたら体が大きな筋肉質の男は誰だ。


 姫良三善、十六歳。身長は僅かに伸びて一六五センチメートルとなった。しかしこのスキンヘッド男の慎重に比べれば、数センチの伸びしろなどただの誤差のようなものだ。比較的背の高い部類に入るホセですら彼の横では小柄に見えるのだから、三善が並んだら正真正銘の「チビわんこ」なのである。


「あ、う、おはよう、ございます……」


 怯えながらも挨拶をすると、彼はどうやらその点だけは認めてくれたらしい。短く頷き、ぼすっと三善の両肩を乱暴に叩かれた。


「うん。挨拶ができるってのはいいことだな。おはようさん」

「ホセ、いや、ブラザー・ホセ。この方はどなたでしょう。ブラザーの知り合いですか?」


 咄嗟に『いい子の仮面』を被り丁寧語で話しかけてしまうくらいに、三善は動揺していた。


 男が持つその熊のような鋭い眼光。今にも食われそうなほどの獰猛なまなざしに、尻尾を巻いて逃げ出したい衝動に駆られた三善である。しかし、それはおそらくホセが許してくれないだろう。


 三善は腹を括り、布団の上で居住まいを正した。


 そんな三善の様子を敢えて見なかったことにしたホセは、何事もなかったかのように彼を指して言った。


「ブラザー・ミヨシ。こちらはジョン・アーヴィング司教です。十二使徒『ヨハネ』の二つ名を持つ、立派なプロフェットですよ。言うなれば、私の同僚。そしてあなたの大先輩です」

「おいカークランド。ってのはまた、微妙な言い草だな」

「ええ。現行ではあなたが『十二使徒』の最高実力者ですから。だから立派だと言ったんです。違いますか?」


 そしてにこりと笑う。


 とりあえずこの男が見た目以上にすごい人だということは理解した三善、ぽかんと口を開け放ちながらも「はあ」と一応は頷いて見せた。


「ブラザー・ミヨシ。晴れて司教試験合格、おめでとうございます。これが合格通知です」


 本当はジェームズから手渡しされるんですが、と苦笑されながらも、シーリングされた封筒を渡される。赤い蝋には大聖教のモチーフである十字の文様が捺されていた。


 こんなに形式ばった手紙をもらうのは初めてである。確かこういうときはきちんとペーパー・ナイフで開けるのだと『あのひと』が言っていた気がする。三善はサイドボードに手を伸ばし、引き出しから小さなナイフを取り出した。封を切ると、箔押しのきれいな紙が出てきた。


 三つ折りにされたその紙を広げ、三善は神妙な面持ちで文面を眺めた。どうやら昨日までの試験結果と合否判定が書いてあるらしい。憎きラテン語なので解読に時間がかかったが、試験合格の旨が記されているということで間違いないようだ。


 まだ事態をうまく飲み込めていない様子の三善に、ホセは微笑んで見せた。そして寝ぐせがついたふわふわの頭を優しく撫でてやる。


「本当に、よくがんばりましたね。さて、あとのことは全てブラザー・ジョンに任せます。これからもその高邁なる精神をもって、精一杯努力してください。以上です!」

「ブラザー・ホセ。待ってください、仰っている意味が分かりません」

「……あなた、本当に試験要綱を読まないで受験したのですね。我が子ながら呆れてしまいます」


 それでいてしっかり合格してしまうのだから恐ろしい。


 嘆息交じりにホセは説明する。


 司教試験に合格した新人は、合格通知を受け取ったその日から別の司教の補佐として数年働くことになっている。初日は研修内容の説明や諸々の手続きを行うことになるため、この日だけは特段の事情がない限り出勤するように言われているはずなのだ。


 ところが、他の司教見習いと違い完全独学主義を貫いた三善にはその忠告を行う者がおらず、あろうことか休暇申請を出すという体たらく。それを知らないジョンは当然会議室にて数時間待ちぼうけをくらい、半ばブチ切れながら三善の自室に乗り込んだという訳だ。


「お、おおう……」


 それは怒られて当然である。


「と、いう訳だ。自由奔放な奴は嫌いじゃないが、最低限の礼は通してくれ。時は金なりと言うだろう。お前の到着を待った俺の数時間を今から返してもらう」


 こちらも怒りを通り越し呆れへと変貌を遂げたジョンが、頭を抱えながら言った。


 しかし、今度は三善が食らいついた。


「待ってください。司教ならブラザー・ホセでも……」

「私はダメですよ、私はあなたの後見人ですので、世間的には身内として扱われます。身内が面倒をみることは禁止なんですよ。それに、超エリート司教が直々に名乗りをあげてくれたんです。これは普通考えられないことですよ、私でさえ新任の時はおいぼれの専属でしたからね!」


 うっかり本音が漏れたが、三善の耳には入らなかったので問題ない。


「しかし、」


 この人超怖いんだけど! と言いかけたところで、三善は自分の体が唐突に軽くなったことに気がついた。――ジョンに持ち上げられたからだった。そのまままるで俵のように担がれ、抵抗空しく三善は彼に強制連行されることとなったのである。


「ありがとな、ホセ。このチビわんこは俺がしごいてやるから」

「徹底的にお願いしますね! はぁと」


 何が「はぁと」だ!

 後でしこたま文句を言ってやろうと心に決め、とりあえず下ろしてくれないだろうかと三善は血の上りかけた頭で考えた。

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