終章 (1) 二〇〇九年一月二七日

 最後の朝は美しい青空によって迎えられた。


 この日ばかりはさすがに早起きをし身支度を早々に済ませた三善は、やや速足でケファの自室へと向かっていた。きっと彼はもう起きているのだろうから、この時間に押し掛けても怒られることはないだろう。それに、今日はできるだけ彼と一緒にいたかった。


 部屋の戸を控えめにノックすると、ほんの少しの間の後、ゆっくりと開く。


「来ると思った」


 ケファはいつもよりは多少崩した笑みを浮かべ、見上げてくる三善のふわふわした頭を撫でてやった。今日はこの後スーツを着るつもりなのだろうか、黒い色をしたスラックスに白のシャツというなんとも珍しい恰好をしていた。


「そこに突っ立ってないで来いよ。朝飯くらいは食わせてやる」


 言われるがままに、三善は彼の部屋に入っていった。


 しばらく部屋を開けるためか、最低限の家具くらいしかものがなかった。小物の搬出は数日前に済ませ、必要のないものは売り払っていたことをふと思い出す。簡素な部屋の隅に大きなキャリー・バッグが開けっぱなしの状態で放置されているのを発見すると、何となく、三善は胸を締め付けられるような気がした。


 ――ああ、僕は「さみしい」んだ。


 自分でも自覚はしている。三善の記憶のはじまりである十三歳の頃から、当たり前のように側にいてくれた師が、遠く離れたドイツへと旅立とうとしている。変わらないものなんかないと知っているし、いつまでも同じものなんてないのも知っている。彼だって、自分同様前に進もうとしているのだ。それは認めないといけない。


 だからこそ、自分は彼の誘いを断ったのだ。その意思を無駄にしてはいけない。


 三善はしばらくキャリー・バッグをじっと見つめていると、背後からおい、と声をかけられた。


「頼むから食ってくれないか。片付かないだろ」


 そう言って笑うケファを見たら、何だか泣きそうになった。


 今日はふわふわのオムレツとサラダ、それからなぜかホットケーキが食卓に並んでいた。これはおやつではなかろうか、と一瞬思ったが、三善は嬉しく感じていた。勿論好物だからではない。彼が旅立つ前に一度食べておきたかったからでもない。


 この短い間に、彼はあらゆる手で三善を励まそうとしているのだ。それを理解できるからこそ、三善は嬉しくもあったし、同時に気を遣われている自分を情けなくも思ったのだ。今目の前に座り黙々と食事する彼には、きっとすぐには手が届かない。越えることのできない壁がそこにはあった。おそらく、それは自分がこの先成長しようとも変わらない。


 不思議だな、とぼんやり考えた。


「……なんでそう、うまくなさそうに食うの? お前は」


 フォークを持つ手が止まり、しばらく硬直したままだった三善に気がついたのか、やや不服そうにケファが言う。


「そんなことないよ!」

「ならさっさと食ってくれ。普通にしてくれよ、頼むから」


 まあ、こうして二人で並んで食事を摂ること自体が普通ではないのだが。

 気を取り直し黙々と料理を口にしていた三善だったが、唐突に何か思いついたらしい。動かしていた手を止め、ゆっくりと声をかけた。


「あのね、ケファ」

「ん?」

「ホットケーキの分量、教えてくれない?」


 この国にはミックス粉があるだろう、といつもなら言うのだろうが、ケファはもそもそと野菜を咀嚼しつつも頷いてくれた。椅子に無造作にかけていた上着のポケットからメモ帳を取り出すと、整った字で分量を書き出し、それを無言で渡す。


「ありがとう」

「作り方は分かるだろ? いつも横で見ていたもんな」

「うん」


 受け取ったメモはポケットの中に収め、三善はふかふかのホットケーキにナイフをあてる。きれいな焼き目のそれをゆっくりと切ると、ふんわりとした甘い香りと湯気が立ち上った。一口サイズに切り、口に含む。


 ――どうしてだろう。


 静かに咀嚼しながら、三善は思う。


 味がよく、分からない。


***


 ケファは初め断ったようだが、結局押し切られる形でホセに空港まで送ってもらうことになったらしい。三善も一緒に連れて行ってもらえることになり、運転手より先にふたりで後部座席に乗り込んだ。


 外出手続を済ませ、少し遅れてホセが現れた。今日はもともと休暇を取っていたらしく、聖職衣でもスーツでもなく、黒いハイネックのセーターを着ていた。黒い上着は左手に携えたまま、やや小走りでこちらに向かってくる。


「あいつ滑って転ばねえかな」


 ケファがぽつりと言ったその時、凍っていた地面に足を滑らせ、ホセは後ろに反りかえっていた。転びはしなかったが。


「滑ったね」

「滑ったな」


 二人で言う。そして笑う。転べばよかったのに、面白いからとケファは何気にひどいことを言っている。いつも通りのリアクションで、三善はほんの少しだけ安心した。


 運転席が開き、不服そうな表情でホセが顔を覗かせる。


「ちょっとあなたたち。今笑い者にしましたね」

「凍っている道なんか走るからだ」

「ひとがせっかく待たせてはいけないだろうと気を遣っているのに……」


 適当にあしらいつつシートに乗り込むと、扉を閉める。ゆっくりとシートベルトを締めると、車はのんびりと走りだす。まるで別れを存分に惜しもうとしているかのような、恐ろしいくらいの惰性運転だった。


 車内では相変わらず、ケファとホセがしょうもない口喧嘩をしていたが、その横で三善はずっと黙り込んでいた。隣に座るケファをちらちらと見てはいたし、顔色も良いので酔った訳ではないようだ。しかし基本的にはぼんやりとした目線で窓の外を見つめ、誰の話も聞いていない。完全に上の空である。


 ここしばらくホセと「目玉焼きにかける調味料」について大いにもめていたケファだったが、その三善の様子を案じてか、唐突に話を振ってみた。


「そういえばヒメは塩コショウ派だったな」

「え?」


 やはり全く話を聞いていなかった。きょとんとして三善はケファの紫の瞳を見つめたが、彼のその強い視線に負け、とうとう諦めて白状した。


「ごめん、聞いてなかった。塩コショウがどうしたの」

「うわ、まじか。こんだけ騒いでたのに」

「いや、この件に関してはあなたが頑固なだけだと思いますけど」

「頑固言うな、頑固」


 むっと露骨に不機嫌そうな顔をしたケファだったが、様子のおかしい三善を気遣ってか、すぐに元の表情に戻る。


 今朝から三善はこんな調子だったので、ケファも少なからず調子が狂っているらしかった。そうでなければ、あまり建設的でない「目玉焼きにかける調味料」の話でもめる理由などないのである。


 ケファの表情が曇ったのを、ホセは見逃さなかった。

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