第五章 (7) 俺が信じる『正義』は

 三善は意を決し、ケファの肩帯を強く引いた。


「やめろ!」


 トマスの制止する声も、既に三善の耳には入らない。

 掴んだ刹那、三善の身体が真っ白な炎に包まれた。

 ごお、と勢いよくあっという間に全身を覆われ、さすがの三善の表情に戸惑いの色が浮かぶ。だが、その炎は不思議と熱くはない。むしろ心地良いほどのぬくもりがあった。


 脳裏にぼんやりと掠めていったのは、第十三書庫で出会ったあの白い髪の女性だ。この柔らかな炎が彼女の姿を彷彿させてゆく。炎が放つ熱を心地良いと感じたのは、そのせいかもしれない。


 最後にあの女性が言った言葉が、とてつもなく大きなものに感じる。


 ――あの人をさがして。あなたがあの人に会えば全て終わる。


 三善は一度瞳を閉じ、彼女に思いを馳せた。彼女がこの『契約の箱』に巡り合わせてくれたのだ。そして、少し前までこの体に在った『あの人』ともいつか巡り合える。そんな気がした。


 今にも崩れてしまいそうなくらいに脆くなった気持ちが、再び堰を切ったように溢れてくる。

 今胸の中にしこりのように残るのは、不安だけだ。


「――三善」


 その左手に何かが触れた。そして、ぎゅっと包み込むように強く握られる。大きな手は間違いない、ケファのものである。


 三善が顔を上げると、自分と同様に白い炎に包まれたケファがゆっくりと目を細めたところだった。何かを考えているようである。


「もっと早くに気づけばよかった。そうしたら、お前に教皇になれだなんて言わなくて済んだのに。ごめんな」


 三善はゆっくりと首を縦に振った。そうか、と呟いたケファの目は、どことなく哀しそうに見えた。曇った表情の向こうにある気持ちが汲み取れず、途端に胸に抱えていた不安が倍増する。


「聖ペテロの釈義が、『契約の箱』なんだね」


 ケファは小さく頷いた。


「使い方、知ってるか」

 三善は首を横に振る。


「そう言うと思った」


 苦笑しながら、再びケファは三善の手を強く握る。より一層、ふたりを覆う白い炎が激しく燃え広がる。


「どうすればいい?」


 尋ねると、彼は簡単だと言った。


「これと同じ量の釈義でねじ伏せればいい」


 それは無理だ、と三善はすぐに否定した。今自分は釈義を展開できないのだ。ねじ伏せるどころか、逆に飲み込まれるのが目に見えて分かる。そして訪れるのは『開匣』する瞬間――『終末の日』。最悪な出来事しか起こりえない。


 ケファは、だから、と付け加えた。


「『第一使徒が命じる』――」


 三善が耳にしたのは、そのフレーズから始まる祝詞だった。思わずはっとしてやめさせようとするも、ケファは首を横に振っただけで、やめようとはしない。


 たまらず三善は怒鳴りつけた。


「やめてよ、ケファ!」


 それを全て唱え終わったとき、何かが終わってしまう気がした。だから三善は動かない身体を必死になって動かし、せめて祝詞を途切れさせようとした。

 しかし、ケファはそんな三善を徹底して無視し続けている。祝詞が途切れるどころか、その口からは決定的な言葉がとめどなく紡ぎ出されてゆく。


「『主より与えられし聖ペテロの恩恵を給いし釈義。そして汝が洗礼者、ケファ・ストルメントの釈義。その全権限を洗礼者・姫良三善に移譲し、以後その恩恵を永久に放棄する』」

「なにを言っているんだ! そんなことしたら『喪失者』になっちゃうよ!」

「『この少年に、神の最上の加護を給わんことを。――Amen.』」

「あなた自身の釈義まで手放す必要なんかない!」


 三善はまた泣いていた。泣くしかできなかった。止めようにも彼は完全に三善を無視していたし、強制的に止めさせようにも身体が言うことをきいてくれない。


 そして。


 今、自分の目の前で。

 尊敬していた自分の師が、『喪失者』になることを選択した。


「ケファのばか! なんで、なんでそんな――」


 泣きじゃくりながら見上げた彼の顔は、穏やかだった。こんなに穏やかな表情を、三善は初めて見た。


「なんでって、俺はどのみち『釈義』を使えなくなる。必要ないんだ」

「必要ないって――」


「俺の『正義』は」

 ぴしゃりと、わめく三善の声を遮った。「……俺が信じる『正義』は、楽しそうに動き回るお前が、変わらずに存在し続けること。その方がお前らしいし、俺はそれを見ているだけで充分幸せだ。そのために手段は選びたくない」


 そう言って、彼は笑った。


「こんなときに言うのはおかしい気もするけど、誕生日おめでとう、三善。これが、俺が見せてやれる最期の『釈義』だ」


 彼はいずれこうなることすら既に予測していたのかもしれない。

 それでもこの人は、生きて次の教皇になれと。全力で追いついてこいと、そう言った。


 もう、それ以上彼を責めることができなかった。

 ならば、もう後戻りはできない。


 三善は泣きはらした目を腕でごしごしと擦ると、決意を秘めた瞳で己の師を見つめる。


 彼は満足そうにしていた。


「『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。これより聖ペテロの恩恵を給いし釈義、および、ケファ・ストルメントの釈義を、神と子と聖霊の御名において継承する』」


 身体の中に、何かが入り込んでくる感覚。先程とは異なる、粘性を帯びた異様なまでの熱さ。釈義の巡りにも似ているが、しかしそれとも違う。喉が渇き、張り付いた唾液の感触が痛い。



「『これは汝が洗礼者・姫良三善との永遠の契約である』」

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