第五章 (6) なんぞ我を見捨て給ひし

 その時、三善の身体がふわりと持ち上げられた。ケファが三善を抱きかかえたのだ。


「悪い。遅くなった」


 いつもの彼だ。にこりと笑ったのを見て三善はなぜか力が抜け、表情が崩れた。再び泣きだしそうになるも、それは気合いで我慢する。


「怪我してないか」

「大丈夫。だけど、もう限界みたい。身体がまるで動かない」


 ケファの目が、三善の聖職衣に向けられる。袖口が赤黒く染まっていることに気がついた。それに、三善の呼吸に微かな喘息音が混ざっている。

 ケファが思案顔で三善の瞳を見つめ、それから、ゆっくりと瞼を閉じる。


「……、お前は生きたいと、そう思うか。こんな世界でも、こんな時間軸でも、生きたいと思うか」


 そして唐突に、そのような問いを投げかけた。その声は微かに震えている。

 三善ははじめ彼が何を言っているのかが分からなかった。しかし、次第に靄がかる思考がクリアになってゆくのを感じていた。


 ここ最近ケファから感じていた妙な違和感は「これ」なのだと、三善はこの時ようやく気が付いた。


 三善はのろのろと口を開く。


「ケファは、分かっていたんだね」


 ケファは答えなかった。


「……思うよ。生きたいと、そう思うよ」


 そのやりとりに気づかないトマスではない。執拗なホセの攻撃をやりすごしながら、彼ら二人に目を向けた。

 何だか、過去に何度も目にした濃い聖気の気配がするのだ。何度も何度もやり直しをする中で遭遇してきた、そして、今回は血眼になって探し求めた、あの気配だ。


 そこでようやく、トマスは自分が勘違いしていたことに気がついた。


「ああ、やっちまった。あっちかよ本物は」


 やはり最後まで帯刀たちの話を聞いておくんだった、と少々後悔した。そういうことなら初めからケファにだけ狙いを定めるべきだったのである。とんだ無駄足だ。


 そう考えている間もホセはすさまじい殺気と共にランスで突いてくる。この徹底さは半ば病気みたいなものである。正直辟易している部分もあるのだが、今回ははっきり言って自業自得のようなものだ。


 赤い火花が飛び散り、腕の骨が軋む嫌な感触が残る。妙な受け身をとったせいで、変なところに重い痛みが走る。


 しばらく守りに徹底していたトマスだったが、痺れを切らしたのかいきなり行動に出た。“太刀”をホセの槍に勢いよくぶち当て、その矛先を無理やり変更させた。その隙に彼の鳩尾に一発蹴りをお見舞いし、身を翻すと同時にケファへ向け“嫉妬”の“弾丸”を撃ち込む。爆音に似た音が衝撃となり、撃った手が跳ねかえる。青の雷管が飛んだ。


 気がついた時には、もう遅かった。


 さすがの三善も、もうだめだと思った。身体には力も入らず、『釈義』を展開することすら叶わない。“逆解析リバース”により“傲慢”の“鎧”を起動することもできない。


 一体どうしてこんなことになったのだろう。三善は刹那に後悔した。


 そのとき、彼は確かに聞いたのだ。

 耳元で囁く己の師の祝詞を。


「『Eli,Eli,Lema Sabachthani』」


 三善の目の前で“弾丸”が消滅した。


 それと同時にとてつもない違和感が身体を支配してゆく。ありとあらゆるものに対しなにかを“上書き”してゆくような、実に奇妙な感覚である。


 赤い瞳をこじ開けると、ケファの苦しげな表情がそこにある。なにか痛みを堪えているようで、額に脂汗を浮かべている。


「ケファ」


 彼は答えなかった。

 その時、遠くの方で声がした。三善がのろのろと目線を動かすと、トマスが何かを叫んでいる。彼らもこの不思議な違和感による影響を受けており、手にしていた“太刀”も槍も、全て溶かしてしまっていた。


 しばらくしてトマスの叫びがようやく耳に飛び込んできた。


「莫迦、『契約の箱』を展開するな! あいつらの思惑通りに動いてどうする!」


 その声に、横にいたホセははっとして問い質す。


「『契約の箱』ですって?」

「お前何も知らないであの坊ちゃんを追いかけてきたのかよ。あれが展開したら――」


 そう言っている間にも、神威をまとう聖気は膨れ上がる。身体に存在する穴と言う穴から侵食し、全てを飲み込んでしまうような。全てを上書きしてゆく脅威は留まることを知らない。

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