第三章 (8) 世界に挑んだ試行回数

 胃から何か熱いものがせりあがってきた。三善は口に手を当て堪えようとしたが、我慢できずにとうとう嘔吐した。吐瀉物が足元に飛び散り、妙な汗が額から零れ落ちる。胃の中のものを全部吐き出したところで、肺に唐突に燃えるような痛みを感じた。


 むせかえるように咳をすると、口内に鉄の味が広がったのが分かる。口に手を当て、そっと離してみる。その原因はすぐに判明した。血だ。


 それを見て、三善は数ヶ月前にケファが言っていたことを思い出す。


 ――その楔は永久的なものではない。


 ああ、これが。三善は思う。

 無理もなかった。これだけ長時間同じペースで『釈義』を展開し続けているのだ。体力も気力も、実のところほとんど残されていない。身体が鉛のように重く、思うように動かない。必要以上に重力に吸い寄せられているような、そんな気さえした。


 三善はしばらく肩で息をしていたが、次第に落ち着いたのか、ゆっくりと頭を上げた。彼女はまだそこにいる。心配そうな表情でこちらを見下ろしていた。


 三善は何とか持ち上げた右手で口元を拭うと、熱い息を肺に無理やり押し込んだ。のろのろと瞼を持ち上げると、掠れた声で尋ねる。


「……続きは?」


 司書はゆっくりと三善の横にやってきて、膝をついた。そして、彼の頬にそっと触れ、じっと目を合わせた。随分冷たい手だった。まるで自分がよく知っているとある司教のようだ。しかしその冷たさは決して嫌ではない。むしろ心地良いとすら思ってしまう。自分のものと同じ紅玉の瞳が、辛そうに揺らぐ。


「これ以上は見せられない」

 彼女はそう言い、目を伏せる。「見せたらあなたが潰れてしまう」


 三善はためらいがちに彼女の手に自分の手を重ね合わせた。自分の体温を少しでも分け与えることができれば、と思ったのだ。


「見せられないけれど、あなたがなすべきことは教えてあげられる」


 彼女が再び三善へ目を向けると、その頃には彼女の中の『躊躇』の二文字はきれいに消えうせていた。そこのあるのは、己の使命を果たすという明確な意思があるだけだ。それを感じ取った三善は、朦朧とする意識の中、なんとかそれだけでも聞き取ろうと集中する。


「この部屋を出たら、きっとあなたは『契約の箱』の所在を聞かれるでしょう。その時はこう答えなさい。あなたのものになるはずだった十字に組み込まれていると」


 明らかな嘘だった。


 既に三善は真相の一部を把握してしまっていた。今、『契約の箱』がどこに隠されているか。何故その人物が選ばれたのか。


 だからこそ彼女の言い分が分からずに、三善は狼狽している。


「どう、して、」


 三善は目を瞠り、彼女の言葉を遮ってまでも話を続けようとした。この予感が正しいのなら。もしも頭に浮かんでいるひとつの『こたえ』が真に正しいものだとしたら。


「あなたの手に必ず渡るようにしなくてはいけないから。十字は前回――一〇〇九二回目の隠し場所。前回を知る人物なら、必ず一度あなたの前に現れ、十字を奪おうとするはず。だから騙しなさい、相手が味方であっても。この件において信じられるのは、あなたと、もうひとりの適合者だけ」


 その聞き覚えのある数字に、三善は「またか」と思った。なぜこうも似たような数字を突きつけられるのか。やはりそれが全ての根源であるということなのだろうか。様々な考えが頭を過るも、三善は一旦それらを捨て置くことにした。


「その、数字……なに」


 彼女は首を横に振る。それは言えないと言わんばかりに、じっと口を閉ざす。


「なに」


 三善が凄んだ。


 この状況で、この人物に対しそれを挑む自分は愚かだと思う。しかし、切羽詰まった今、尋ねない訳にはいかなかった。


 その並々ならぬ気迫にひるみ、彼女は渋々口を開く。


「『あの人』が、世界に挑んだ試行回数」

「試行……?」

「『あの人』は結末を知るたび、何度も過去へ戻る。それでも世界は直線的時間から逃れられない。同じことを繰り返す」


 彼女は相変わらず抽象的な物言いだったが、なんとなく、彼女が言いたいことは察した。つまりは直線的時間になぞらえて、終わりの地点に到達した後にまた初めの地点へと戻る。そういうことをしている人物がいるということだ。


 それができそうな人物に、三善はひとりだけ心当たりがあった。


「神が定めた時間に逆らおうとすること自体が驕りなのかもしれない。それでも『あの人』は挑むの。目に見えないものに挑み続ける。三善、」


 彼女はそっと瞼を閉じ、何かを思案している様子でいる。暫し逡巡したのち、ゆっくりと嚙みしめるように言った。


「『あの人』を止めてほしい。『あの人』だけに全てを背負わせるからいけないの」

「……あなた、は」

「『あの人』が苦しむだけの世界は、私にとっても残酷すぎる」


 三善の視界がどんどん暗くなっていく。彼女の姿も見えなくなってゆく。しまった、まだ話は終わっていないのだ。こんなところで、気を失う訳にはいかない。


「三善。……あの人をさがして。あなたがあの人に会えば全て終わる」


***


 遠のく意識。同時に襲う浮遊感。


 ノイズの喧騒に包まれながら、三善はその声を何度も聞いた。どこかで覚えのある男の声だ。


 ――また、駄目だった。

 ――次は上手くいくはず。

 ――失敗した。全滅だ。

 ――まるで彼らが道具のように感じてしまう自分が嫌だ。

 ――自分に憤りを感じてしょうがない。

 ――もう時間がない。対価が足りない。あと数回しかやり直せない。

 ――この子を巻き込む訳には。しかし。


 数々の嘆きにも似た声は重なり、伸びて、緩やかに三善の心臓を突く。


 三善は唐突に理解した。この声が誰のものであり、なぜ葛藤し続けているかを。

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