第三章 (9) 神様は不公平

***


 そこで三善は目を覚ました。


 ぼんやりと霞がかる視界の中、背中でモーターの微振動を感じている。車の中だということは、夢心地の状態でも何となくだが理解できた。車内独特の匂いが鼻を付き、久しぶりに酔ってしまっていた。普段ならば、車酔いなんか滅多にしないはずなのに、だ。


「ああ、起きたか。ヒメ」


 声をかけたのはケファだった。運転席に座り前を見据えたままだったが、その表情はいつも通りの精悍なものであり、声色もどこか優しい。ほんの少し安心した三善は、ゆっくりと身体を起こそうとした。


 ――動かない。


 三善は手を動かしたり足を動かしたりしようと試みたが、どうにもうまくいかない。体がひどくだるくて、対価をなしに『釈義』を使ったときの倦怠感ととてもよく似ていると思った。小さく咳をしたところ、ぜいぜいと湿った音がする。仕方がなく、三善は聖職衣の袖口で口元を拭う。赤黒いしみが滲んでいた。


「どこに行くの?」

「新しい依頼が来た。急で申し訳ないけど、そのまま運ばせてもらった」

「ふうん――」


 無表情で三善はケファをじっと見つめていた。ケファもそれ以上何も言わず、黙々と運転している。三善に気を遣ってか、非常に静かな運転だった。


 車は丁寧にカーブを曲がり、そのまま見知らぬ道へと入ってゆく。

 じっとケファを観察していた三善だったが、しばらく進んだところで、唐突にぽつりと呟いた。


「あなたは誰?」

「俺は俺だ」

「いつからこんなに運転が上手くなったの?」


 いつからって……と、彼は一瞬口ごもる。少し困らせてしまったようだ。左手で頭をかきながら、照れくさそうにぽつりと言った。


「練習したんだよ、こっそり。お前があまりに下手だ下手だ言うから」

「確かにケファは車の運転が下手だと思うけど」


 三善の赤い瞳がじっとりと、睨めつけるようにケファの横顔を見つめていた。その仕草、瞬きするその刹那さえもじっと見透かしてしまうようで、妙な緊張感が生まれる。しかしケファはそれにあまり動じずに、いつも通りの表情で車を走らせている。


 三善は続けた。


「それに、どうしたの? 左耳のピアスの数が足りないんだけど。さっきまでは二つあったのに、いつからひとつにしたの?」


 ケファは突然黙り込んだ。三善もその沈黙に乗じ、じっと押し黙っている。赤い瞳は一度も揺れ動くことがなかった。


「落としたんだよ」

「完成したピアス・ホールがそんなに早く塞がるはずない」


 三善が追撃する。さらにじいいいいっと紅い瞳は彼を凝視し続けている。最早これは観察の域を超えている。監視だ。徹底的にプレッシャーを与えようとしているのか、ぴくりとも動かない視線はとにかく痛々しいものだった。おそらく本人は自覚してはいないのだろうが、これはこれですさまじい拷問である。


 そこでようやくケファはひとつため息をつき、面倒そうに三善に話しかけた。


「――もしもそうだとして、お前はどうするつもり? 殺すの?」


 三善はすぐに答えた。


「どうもしないよ。今の僕はできるだけ誰かと争いたくない。体力が消耗するだけだ。それに、僕は今ほとんど動けない」

「そう。そりゃあ好都合だ」


 彼は笑い、三善の言葉の続きをやんわりと促した。それで? と。どうやら三善の話を面白く感じたようで、どうせなら最後まで聞いてやろうと踏んだようである。三善は聞きたいことを整理するために数秒黙りこみ、すぐに話し始めた。顔色が悪いので、疲弊しきっているのは目に見えて分かる。しかし、この機会を逃したらおそらく対等に話すことなどできやしないと、なぜかそう思ったのだった。


「あなた――は、ええと。僕を連れ去ったのかな。もしもあなたがケファでないと仮定してだけれど」


 うーん、と彼は唸り声をあげつつ、ゆっくりとブレーキを踏んだ。信号が赤に変わったからだ。


「お前が言うことが本当だとしたら、まあ八割方そうだろうな。もしもの話だが」

「となると、おそらく僕が『あのこと』を知っていると踏んでやってきた訳だ。もしもの話だけれど、ね」

「そういうことだろうな。『契約の箱』の所在なんざ、『あの女』くらいしか知らねぇもんなあ」


「なるほど」

 三善が納得したように頷いた。「なんとなく、僕はあなたが誰か分かった気がする」

「へえ、言ってみな」

「ホセの昔の友達。トマス・レイモン、だったかな。ああでも、その人はもう死んだんだっけ……。じゃあその人のおばけかな」


 ケファは再び黙り込んだ。……そしてしばらくの間の後、急に声を上げて笑い出した。信号が青に変わり、再び車は走り出す。走り出しも滑らかで、非常に心地の良い運転である。


「あーあ、ばれちゃった。しかも何だよ、そのおばけって発想は。大体合ってるけど」

「おばけを見たのはこれが初めてだよ、僕」

「おばけじゃねぇよ」


 気の抜けたやり取りから一変、ケファ――否、トマスが鋭い語調で切り返した。


「人外みたいなことをしているという点では化け物だとは思うが。人間辞めた覚えはないな」


 三善はどきりとした。

 微かに見せた表情が、“七つの大罪”のそれと非常によく似ていたからだ。


 なんだかとんでもないものに攫われてしまった、と三善は思った。しかしそう思っただけで、焦りや不安などは一切感じなかった。我ながら肝が据わっていると改めて思う。どう考えても身体が動かないこの状況、不利としか言えないはずなのだが。


「あいつから聞いたのか?」

「ホセのこと? ああ、まあ、そんなとこ」


 あながち嘘ではない。第十三書庫で見た映像については一切触れず、あたりさわりのない返事をした。


 彼が口角を釣り上げたかと思うと、おもむろに変身を解き始めた。白っぽい閃光が彼を包み込み、まるでマスクを剥がすかのように、ゆっくりと、ゆっくりと仮面を剥いでゆく。


 その下から現れたのはプラチナ・ブロンドの短髪と深海のような深い青の瞳。時折銀の光彩が混ざる、不思議な色だった。


「そうか、あいつからか! よく話す気になったなぁ。おい、お前。俺があいつに何度も殺されているっていうのは知っているかい? 知っていて一緒にいるんだろ?」

「……何度も?」


 三善は首を傾げた。


「そういう風に返してくるってことは、一度目は知っているのか。オーケーオーケー、それで充分さ。……あいつはさ、もう俺のことを怒りの対象としか見ていないと思うんだ。あいつは“憤怒”に憑りつかれた男だ。永遠にな」


 小馬鹿にするように鼻で笑い、トマスは華麗にハンドルを切る。恐ろしく運転の上手い男だった。怪訝そうな顔をしている三善に気づき、トマスは「どうかした?」とやんわり尋ねる。


「いや……世の中、こんなに運転が上手い人がいるなんて。神様は不公平だなって思った」

「それは多分、あれだ。お前の境遇が特殊すぎるだけじゃないか」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る