第二章 (4) 不可解な家訓
その後帯刀は予定通り二階の自販機でソーダを購入し、ボトルを片手に部屋に戻った。エレベーターを降りたところで、こちらもまたそこそこ気の抜けた格好をしている慶馬に出くわす。
慶馬はエレベーターから帯刀が現れるとは思っていなかったようで、微かに驚いた表情を浮かべつつそっと掠れた声で尋ねた。
「眠れないのですか?」
帯刀は小さく頷く。今はとてもじゃないが眠りにつけそうになかった。先ほどの事実がまだ脳裏を過り、そのたびに脳細胞が覚醒していく。今夜はほとんど眠れやしないだろう。
「慶馬も眠れない?」
「ええ、まあ」
気まずそうに慶馬は目を逸らした。そういえばこの男、慣れない布団ではあまり熟睡できない性質である。心臓に毛が生えているかと思いきや、妙なところで繊細である。
帯刀は少し考えて、声のトーンをさらに落として言う。
「慶馬、少し話さないか」
「はい」
帯刀は自室に慶馬を招き入れ、静かに戸を閉めた。慶馬がベッド脇の椅子に腰掛けたので、それと向かい合うようにして帯刀はベッドに座る。
ソーダの栓を開けながら、帯刀は言った。
「悪いな、長く運転させて」
「いえ、あれは不可抗力なので」
慶馬はさっぱりとした口調で返す。「それよりも俺は雪を一人で行かせることのほうが嫌ですね」
「ああ……うん」
そう言うだろうと思った。期待を裏切らない発言に、帯刀は肩を落とした。一度くらい期待を裏切ることを言ってみればいいのに。
「きっと慶馬のことだから、今回のことは全体的に嫌なんだろうと思っていたけど」
「ええと、雪。それはちょっと違う」
予想外の一言に、帯刀はその真意を尋ねた。
「俺はこの件についてはこれでいいんじゃないかと思っています。少なくとも、大司教補佐の元に付くよりはよっぽど核心に近づけるかと。俺が嫌なのは、あなたに置いて行かれることだけ」
慶馬はさらに付け加える。「あなたはこの件においては観測者にあたると思っています。『契約の箱』も『白髪の聖女』も、結局突き詰めていけば全てエクレシアに通じます。我々はこの世界で何が起こっているかを考証する責務がある」
帯刀はソーダを煽り、弾ける舌触りを感じながら慶馬の言葉を噛み締める。彼のその言い分は基本的に同意だった。
「おそらく、あなたが気にしているのは
「親父殿の? ……ああ、うん。そうだな」
へへ、とむなしい半笑いを浮かべつつ、帯刀は天井を仰いだ。真っ黒に塗りつぶされた天井は深い闇によく似ていた。先が全く読めない。これで合っているのか、判断がつかない。それでもこちらに主導権がある以上、まだ手は打てるはずだ。そんな僅かな期待にすがり、ここまできた。トマスが自ら接触を量ってきたのは全くの想定外だったが。少なくとも前進はしている。それだけが救いだ。
「慶馬、ちょっと思い出したんだけど、お前はうちの家訓を知っているよな」
帯刀が唐突に切り出した。きょとんとした表情で慶馬は彼の蒼い瞳を見つめたが、すぐにそれに対する解を口にする。
「ええと。一・帯刀家はどこにも属さない永久中立の立場である。二・当主の決定は絶対である」
「三番目は?」
そこでぴたりと慶馬の口が止まる。
しばらくそのまま何かを思案していたようで、視線がじっと足元に向けられている。そんなまさか、という呟きも含め、彼の思考では今、何か別の事象が組み立てられている。
「……『契約の箱』は、不可侵である」
「正解。三番目は俺と慶馬だけに聞かされたんだよな、確か」
そう、これらは全て帯刀が当主になると決まった時に壬生から説明されたことだった。詳細までは教えられなかったが、ただひとつ彼が言い放った言葉がある。
――『契約の箱』に関わったら最後、お前は逃れられなくなる。
何に、とは言わなかった。
しかし、壬生がそういうときに意味のない言葉を吐くとは思わない。必ず意味があり、そして事態が手のつけられないことになったときに呪いとなって降りかかりるだろう。そういった意味で、彼の言葉は呪いのようだった。
「その『契約の箱』という言葉が、何故うちの家訓に記されているのだろうな」
しんとした静寂が部屋を包み込み、ぞっとする寒さが背筋を這う。それでようやく帯刀も慶馬も頭の芯が冷え、多少冷静な言葉の組み立てを行うことが出来たらしい。
「親父殿は、なにか『契約の箱』について隠しているのだろう。
「……それを探るのが真の目的なんですね?」
「あー、最優先事項はお前の楔を抜く方法だから。まあ、それもおおよそ手立てが付きそうだし、少し寄り道をしてもいいだろう。利用できるものは何でも使うべきだ。俺達は手段を選んでいる場合じゃない」
そうだ。少なくとも『契約の箱』に関することだけは手段を選んでいる場合ではない。帯刀はそっと瞼を閉じ、これからのことをゆっくりと慶馬へ伝えた。
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