第一章 (4) そういう噂が回るのは早い

 そんなことを考えていると、「ところで」とノアが声をかけた。


「あなたから相談された『ケファと一緒にいる子』、なんて言うんだっけ」

「ああ、ヒメくんのことですか?」

「そう、その彼。ジェームズに喧嘩売って司祭に昇格したって本当?」


 まさか三善がジェームズに喧嘩を売った事件が、海を越えフランスまで流れているとは。そのこと自体は想定内ではあったものの、こんなに早く広まるとは思っていなかった。


 ホセは驚きながらも肯定の意を示す。


「本当です」


 なにせ自分はその当事者だ。あの時のことは今でも鮮明に思い出せる。肝を冷やしたなんて安っぽい言葉であの時の心情を表すことなどできやしない。いっそのこと適当に処分でもしてもらった方がよかったのかもしれないと今でも時々思うくらいだ。


「向こうではその話題で持ちきりよ。『なんて命知らずな子供なんだ』って」


 その点は否定できない。

 ホセは微かに唸りつつ、なんとか言葉をひねり出した。


「ケファが二十一歳の時に史上最年少で司祭になったときも大分騒がれましたけど、ヒメ君は大幅に記録を塗り替えて十五歳で司祭昇格ですから。そりゃあ目立ちますよね」


 この師弟コンビは毎度エクレシアを騒がせる。ケファが落ち着いたと思ったら今度は三善の番か。ホセは微かに覚える胃痛にその身を震わせた。


「まずは会って話してみたいわ。面会することは可能かしら。あなたに頼まれた件は、それから考えたいと思ってる。彼が一体何者なのか、自分で考えてみたいの」

「そうですね。面会することは問題ありません」


 ホセは横目で眠るケファを見て、それからためらいがちに口を開いた。


「――その、あの子が何者か、ですが。彼は私たちを導いてくれる救世主だと思っています」


 そうでなければ私もケファもこんなに無茶なことをしません、とホセはきっぱりと言った。


「あの子はいずれ大司教になる方です。現に、あの子が啖呵を切ったときに司教連中は誰ひとり反論しませんでした。彼はその器を持っていると、私は信じています」


 それ以降、ホセは三善について語ろうとは思わなかったようで、ぴたりと口を閉ざしてしまった。車に四人も人が乗っているとは思えないほどの沈黙が訪れる。唯一聞こえるのは、静かなケファの寝息だけである。


 ノアは流れる景色をぼんやりと見つめながら、そのエメラルドの瞳をゆっくりと閉じた。


「思うところはあるけど、まあ、あんたがそう言うのならそうなのかもね」


***


 本部に着くと、開口一番に土岐野は「三善くんはいますか?」と尋ねた。


 土岐野と三善は頻繁に手紙でやりとりをする仲である。その気になればメールでのやりとりも可能であるのに、この二人はなぜか手書きにこだわっていた。時々時間を見つけては何やらしたためている現場を何度か目撃しているホセは、彼らの驚くほど健全な仲につい微笑ましく思ってしまう。


 ホセは車を北極星ポラリスの正面玄関にゆっくりと停車すると、困ったように笑って見せた。


「いるにはいますよ」


 ただ、会えるかどうかは別の話ですが。

 そのように付け加えると、土岐野がきょとんとして首を傾げたので、それについてさらに補足説明をしなければならなくなった。


 ホセが口を開こうとすると、


「――あいつは今資料室にひきこもっているから、下手すると内側から鍵をかけているかもしれない」


 横から目を覚ましたらしいケファが口を挟んできた。先程までほとんど眠っていて一言も話さなかった彼が、今はすっかりいつもの精悍な表情で正面を見つめている。具合の悪いところを三善に見られたくないのか、自然とスイッチが切り替わったようにも見える。


「ちょっと様子を見てくるつもりだけど、他に何か用事ある?」


 その言葉に、ホセが間髪入れず口を開いた。


「ケファ、彼の元に行くのはダメです。今日は安静にしていてください」

「ん? 何だよ今更。動けるぞ、俺は」


 今まで何があっても三善の元に向かわなかった日はない彼は、その指示に不満だったらしい。口論に発展しそうな不穏な空気が流れる。


 見るに見かねて、ノアが会話に割り込んできた。


「風邪ひいている人が、うろつき回って菌ばらまくんじゃないわよ。その子もいい迷惑」


 さらに土岐野まで、


「ケファさん、やっぱり顔色悪いですよ。今日は休んだ方がいいです」


 全員に言われてしまっては強引に押し切ることなどできはしない。

 ケファはぐっと反論の言葉を腹の中に押し込み、大人しく従うことにしたようだ。多少拗ねたような表情は見せたが。


「分かったよ、今日は寝る」

「そうしてください」


 完全に車が停止すると、ノアと土岐野が先に車から降りて行った。車内にはホセとケファの二名だけが残っている。このタイミングを見計らっていたらしく、ホセがシートベルトを外しながらぽつりと言った。


「土岐野さんを自宅まで送ったのち、あなたをジェイのところまで連れていきます。それまでどうぞ休んでいてください」

「ああ。それにしても、風邪じゃねぇのに風邪のふりするって案外難しいんだな。今は薬が効いて眠いのは本当だけど」


 そう言うと、ケファは大きな欠伸をした。


「降りられますか?」

「うん、大丈夫。今は背中も痛くないし」


 よかった、とホセが微かに微笑む。

 そんな会話をしている二人の姿を車の外からノアが見ていたことは、生憎どちらも気が付いていなかった。

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