序章 (4) 密会
雨が徐々に湿っぽい雪に変わり、重たいぼつぼつとした音が断続的に聞こえる。
この雨の中、彼は傘も差さずにぼんやりと壁にもたれかかっていた。その口には、火の付いていない煙草が咥えられている。もう湿気ってしまい使い物にならないはずだが、彼は決してそれを捨てようとはしなかった。
吐き出す白い息が紫煙を連想させる。濡れてしまった白金の髪から、ぽたりと滴が落ちた。
「――、」
ふと彼は顔を上げた。
ようやく待っていた人物が現れたのだ。彼は嬉しそうに笑い、手を広げつつややオーバーに“演技”して見せる。さも自分が長い間そこで突っ立っていたかのように。
「待ちくたびれたよ、ブラザー」
実のところ、彼はそれほど待ってはいないのだが。
そこに立っていたのは、紺色のスーツを身にまとった青年――否、大人になりきっていない少年、が正解だろうか。茶色の髪は後ろで一つに束ねられ、瞳は薄氷を連想させる美しい青色だ。しかしその瞳の焦点は定まっておらず、男の輪郭をぼんやりと捉えているだけだった。
「悪かった。側近を離れさせるのに手間取った」
「美袋か。あれはなかなか頑固そうな男だからなあ……」
男はそれを想像し、愉快そうに笑う。「なあ、傘くらい差したらどうだ、ユキ。その側近が怒るんじゃないのか」
「別に。俺はそれくらいどうってこと無……、ああ。悪いが、もっと近くに寄ってもらえるか。お前のことがよく見えない」
そう言い、少年――帯刀雪は目を細めた。
どうりでぼんやりした顔をしていると思った。単に彼は男の姿がよく見えていなかったのである。帯刀は「雨だとなおさら光の量が限られるので、より一層見えにくいのだ」と付け加えた。
それは悪かった、と男は改めて帯刀のすぐ近くまで歩み寄る。それでようやく、帯刀は納得したようにひとつだけ頷いたのだった。
「お前だってこんなに濡れているじゃないか」
「俺は風邪ひかないし」
身体は既に死んでいるからね、と男は淡々とした口調で言った。「それで、改めて連絡してきたってことは、取引に乗ってくれるということでいいのかな」
そう、数か月前の“嫉妬”の一件があった日に、帯刀が男から渡されていた小さな紙切れ。それにはこの男の連絡先が記されていたのだが、直後に慶馬が取り上げ、焼却処分してしまった。ここまで来ると過保護もいいところなのだが、あいにく帯刀は慶馬より一枚上手だった。彼は一瞬目にしただけのその連絡先を完璧に覚えていたのである。
一度エクレシア本部を離れ、彼は慶馬に悟られぬよう十分に下調べをした。先代である帯刀壬生が操作した情報を追うのは非常に骨が折れたが、それは帯刀雪という男が元来持つ根気強さがカバーした。今やこの男が求める情報の大半は持っていると自負してもいい。
そして、帯刀は満を持してこの男に会うことにしたのである。
帯刀はしばらくじっと押し黙っていたが、その後小さな声でぽつりと呟いた。そして、男の深海を連想させる深い青と銀の瞳を見上げる。
「そちらは、何を提供してくれる?」
「お望みのものがあれば、何でも」
そうか、と帯刀は目を閉じた。雨の音に耳を澄ませながら、ゆったりと次の言葉を選んでいるようだ。凛とした澄んだ空気が、彼の周りに流れている。
羨ましいこった、と男は内心考える。
「決めかねているのですか、王子。俺は何でも用意できますよ。その瞳の“聖痕”を抜く方法でも、なんだったら美袋の楔を抜く方法でもいい」
「それも悪くない、な」
もう少し考えさせてほしい、と帯刀は言った。まだどうすべきか決めかねているようで、無表情のまま黙り込んでしまった。
今、彼はとんでもない策略を巡らせているのだろう。そう思うと本当に恐ろしい。
帯刀家の持ちうる全ての情報は、このたった一人の脳に蓄積されていると言っても過言ではない。
その歩く記憶媒体である彼が直々に、それもたった一人で来るからにはそれなりの対応をしなければならない。そうは思っていたが、まさかここで決めかねている素振りを見せられるとは思っていなかった。
男は小さく笑うと、
「急ぎの話ではないから、ゆっくり決めるといい。あっちに車を停めているから、そちらでゆっくり話そう」
帯刀の手を引き、彼はゆっくりと歩き出す。男はたいそう機嫌がよく、へたくそな鼻歌を歌っていた。そのたびに白い息が立ち上る。
――男のその手は、氷のように冷たかった。
「本当に、防腐剤でも入っているんじゃないか。トマス」
「王子。だからそれは企業秘密だってば」
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