第五章 (8) 『彼』の残像

***


「――そうか、あの子、プロフェットになるって決めちゃったのか」


 ケファの言葉に、ホセは小さく頷く。

 ホセが執務室に戻ったところで、ちょうどケファが別件の報告書を提出しに来たのだ。そこでいくつか情報共有をしておくために、二人はこそこそと内輪話を繰り広げることとなった。幸いホセの執務室は施錠可能なので、一度錠降ろしてしまえば他人が入り込むことはまずない。


「まぁ、ノアが珍しくやる気を出したようだし、いいんじゃない? 俺たちがどうこう言う問題じゃないだろ」

「ええ。そうですね」

 苦笑交じりにホセが言う。「彼女が一緒なら大丈夫でしょう」

「日程はどうするんだ?」

「ちょうど来月頭に私がドイツへ行く予定があるので、そのついでに送っていこうかと思います。ひと月もあればパスポートの申請は降りますし、諸々の準備も必要でしょう」


 それを聞いたケファが怪訝そうな顔をした。


「お前、しばらくこっちじゃないのか」

「一時的に帰ってきただけです。まぁ、次はすぐ戻りますよ。そのあとはしばらく本部勤務になります」

「ということは――」


 ホセは頷く。


「とうとう『彼女』のお目見えです」


 かわいいですよ、というホセの言葉に、ケファはさも興味なさげにあくびをひとつ噛みしめた。


「かわいいかどうかはあんまり興味ないけど。でもまぁ、上手くいくといいな。あんたがずっと頑張ってきたプロジェクトだろ」

「おや、まさかあなたの口からそんな言葉が聞けるとは思っていませんでした」

「はいはい。じゃあそれ、渡したからな」

「ええ」


 ホセはケファから受け取った書類――研修報告をちらつかせながら見送った。

 ぱたん、と扉が閉まったのを確認すると、ホセは穏やかな表情とは一変、険しい顔を浮かべながらその報告書へ目を落とす。


 一応ケファは司教見習いなので、本当は三善の面倒を見ている場合ではなく、どこかの司教付となり修行する必要がある。ケファの場合直属上司はホセにあたるのだが、ホセ自身が世界中を飛び回っているため個人の修行など見てやれる余裕がない。そういう訳で彼の場合は別の司教に依頼し課題を与えてもらい、その結果のみをホセに報告するよう指示していた。


 さすが元学者だけあり、基本的には好成績を収めているケファだが、なぜかとある課題だけなかなかクリアできないでいる。今回も例外でなく、彼から渡された書類には再試のマークがついていた。


 ホセ自身も“それ”は得意ではないため人のことは言えないが、さすがに二十回目の再試となると何かあったのかと勘繰りたくもなるものだ。


「まさか『悪魔祓い』が壊滅的に下手くそだとは思いませんでした……あの子まさかサボっているんじゃないでしょうね」


 全くありえない話ではない。ホセはまたしても頭を抱えることとなった。


 ――そのときだった。

 閉じられていたはずの窓が突如開き、強い風が吹きつけた。机に積まれていた紙束が音を立てて飛び散り、視界が悪くなる。強すぎる痛いほどの風に瞳を開けることすらままならなかった。


 微かに感じるのは釈義の気配だ。


「誰だ!」


 叫ぶと途端に風は収まり、散らばった書類が床を真っ白に埋め尽くしていた。先ほどまで手にしていたケファからの報告書も、今の風に飛ばされてこの書類の波に混ざってしまった。それ以外にも重要書類も混ざっていたので一瞬ためらったが、ホセは腹を括りそれらを踏みつけ、窓に駆け寄る。


 月明かりに照らされて、反対側の建物の屋根に人影があるのがぼんやりと見えた。裾の長い外套でも身にまとっているのだろうか。体躯がどうとか、そのようなことは一切判断がつかない。


 ホセはその姿に見覚えがあった。

 しかし、脳裏に浮かんだその人物はこんなところにいるはずがなかった。


 黒い外套から覗くその手には、長い杖のようなものが握られている。

 彼がいるのはありえない、しかし彼しかありえない。頭が混乱していた。


「……トマス……?」


 ぽつりと呟く。


 なぜ彼が。ここにいるはずない。何故彼が。


 ホセは動揺を隠しきれず、とうとう外に向かい哮る。ひたすらにその正体が誰であるのか確かめたかった。乾いた唾が喉に張り付き、思うように声が出ない。しかし躊躇いはなかった。


「トマスなのですか!」


 その声と同時に人影は霧散した。どんなに身を乗り出し、探してもそれらしい者は誰ひとりいない。


 ただそこにあるのは、うるさい位に鳴り響く己の拍動と記憶の中の『彼』の残像のみだ。


 いるはずがない。彼が、こんな所にいるはずがない。

 なぜなら、


「……確かにこの手で、殺したのに」

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