第五章 (7) 天使
土岐野が部屋に備え付けられた浴室から戻ると、こんこん、と小さく何かを叩く音が聞こえた。それはどうやら南側に面した広い窓から聞こえるようだ。土岐野は不審に思いしばらく黙っていたが、あまりにそのノックが続くので、渋々カーテンを開けることにした。
「あっ」
カーテンを開けた先にいたのは三善だった。いつもの裾の長い聖職衣は着ておらず、白のボートネックのインナーと黒いズボンという出で立ちで、彼女の部屋の前に植えられている大木の上に腰掛けている。土岐野が目を瞠る姿に、彼は微笑み小さく手を振った。
土岐野が慌てて窓を開け、
「どうして……!」
「しーっ。静かに」
三善は口元の前に人差し指を立てた。「僕、今脱走中なんだ。このままでごめんね」
「え、ええと。こっち来る……?」
その言葉に、三善がぱっと表情を明るくしたかと思うと、彼はすぐに釈義を展開し塩の翼を背に生やした。そのまま大きく羽ばたくと、大きく開け放たれた窓から土岐野の部屋へ入り込む。
青白い月の光に照らされ、蝋のような肌をした彼のことを、土岐野はまるで天使のようだと思った。はっと息をのむほどに美しく、目が覚めるようだった。
三善は翼を解除すると、静かに窓を閉める。窓の外で、微かに灰が舞っていた。
「ごめんね、急に押しかけちゃって」
「ううん、それより身体はもういいのですか?」
「平気だよ。そのー、ええと」
三善は言葉を濁し、それから、ばつが悪そうに言った。「僕の方が年下だから、敬語はやめてね。呼び方も名前でいいから。だめ、かな」
そう言った三善の姿が、土岐野の目には何やら可愛らしい生き物に見えた。例えばそう、子犬のようだ。そんなお願い、聞けない訳がないじゃないか。
「えっ、ええと。じゃあ、そうするね。三善くん」
「うん」
嬉しそうに三善はうなずいた。
それにしても、彼は本当に変わった外見をしていると土岐野は思う。
灰色のくせ毛はほんのりと赤みが混ざっている。顔立ちは日本人がベースのようで、特段彫りが深い訳ではないが、その赤い独特の光彩が人をひきつけてやまない。
その赤い瞳が、サイドボード脇に置いていた一枚の紙をとらえた。土岐野の釈義に関する調査結果だ。
「土岐野さんは」
「私のことも、名前でいいよ」
「そう? ええと、雨ちゃんは、プロフェットになるの?」
「うん」
すぐ返事があったことに、三善はひどく驚いた様子だった。彼としては、土岐野はまだ悩んでいるのではないかと考えていたのだろう。
土岐野は、先ほどホセに聞かれた時よりもなお一層胸を張り、はっきりと言った。
「もう決めたの」
「そっか」
「フランスに行くんだって。三善君は行ったことある?」
「ううん、僕はこの本部から他の場所に行ったことはないんだ。それどころか、外出したこと自体ほとんどない」
え、と土岐野は声を詰まらせた。そして思い出す。先ほどホセが「彼は特別なのだ」と表現していたことを。
彼が『聖戦』の抑止だと言われた真の理由が、頭をよぎった。
彼はその特殊な生い立ち故に、あらゆる自由が奪われているのではないか。年相応に外出することもままならず、この施設にいることを余儀なくされているのではないだろうか。
わたしの罪の償いのため、です。わたしの、三善君に対する。
土岐野は唐突に理解した。ホセのあの一言は、おそらく「これ」を意味しているのだと。あれだけ土岐野から一般的な自由を奪うだろうことに難色を示し続けたホセだ、三善のこの状況を何とも思わない訳がなかった。
「だから、僕は今回のお仕事がかなり楽しみだったんだよね。僕、学校も行っていないからね。でも、共用ではあるけれど一応本もテレビも見られるから、同じ年代の子供が通う学校にちょっとした憧れがあって」
だからね、と三善は笑った。「雨ちゃんが知っていること、教えてほしいな。だめかな」
「どんなことでもいいの?」
土岐野の問いに、三善は大きく頷いた。
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