第四章 (12) 小さな教皇
「――この匂い、」
ふと三善が空を仰いだ。
塩の破片がふわりと視界を掠めていった。“傲慢”もはっとして空を見上げると、そこには塩の大翼を背負った聖職者がいた。
かつての「聖戦」で殉教した聖人に次いで『岩』の名を得たプロフェット。
「おいたが過ぎるぞ、“教皇”」
彼――ケファ・ストルメントは確かに、三善に向かってそう言い放った。
すとん、と地上に降り立つや否や、三善が口にしたのは、
「ペテロのくせに遅い!」
という、なんとも理不尽な台詞だった。これは間違いなく、いつもの三善ではない。ケファは小さくため息をつき、やれやれと言わんばかりに肩を竦める。
「半分覚醒してやがるな。あいつのせいか――」
ケファがそう呟くと、ぎろり、と鋭い瞳を男に向ける。
鬼のような形相だった。同時に「なんてことしてくれるんだこの野郎」と音のない声を吐き出す。
「どうも、こんにちは。一応コレの保護者です。うちの子がお世話になったようで――」
「誤解だね。別に俺はなんもしていないさ、むしろ先に手を出したのはそっち」
「あぁ?」
「ペテロ」
いがみ合いそうになったケファと“
「保護者を名乗るなら、もっと早く迎えに来い。この首に痣が出来たら困るのは『三善』なんだからな」
既に鬱血痕の残る首筋を見せつけられ、ケファの眉間の皺がさらに深くなった。それは確かに自分の落ち度ではあるが、いつでも一緒にいろという方が無理に決まっているのである。しかしながら、それを一から説明するのは心底面倒だ。
「ったく、どうしたもんかなぁ」
ケファは首を一度ごきりと鳴らしたのち、左耳のイヤー・カフを外した。そっと何かを呟くと、イヤー・カフは純度の高い聖気を纏いながら長く形を変えてゆく。
いつもの十字を模した剣ではない。鍵のアトリビュートをあしらった、彼の身長ほどもある長さの杖だった。大理石のように滑らかな乳白色のそれは、明らかに通常の“釈義”とは性質が異なる。
「なるほど、『岩』の名も伊達じゃねぇってことか」
面白い、と“傲慢”が口角を吊り上げた。その大鎌を再び構え直したところで、ケファも表情ひとつ変えずに杖を真正面へと向ける。受けて立つ、とそのアメジストの瞳が訴えていた。
「“教皇”、ここは俺が。あんたは早く『三善』と代われ。あまり他に見られると困る」
そっとケファが囁くと、三善がきょとんとして小首を傾げてくる。
「なぜお前が戦う?」
――なんだか今、とんでもないことを言ったぞ。
ケファは一瞬己の耳を疑い、そのままの体勢で思わず問い質した。三善は再び、同じように答える。
「これは私が仕掛けた喧嘩だ。私が落とし前をつけなくてどうする」
それはその通りだが、それではケファがここに来た意味がまるでなくなるではないか。本当に、このひとを相手にするのは疲れる。どうして、三善のような可愛げがないのだろう。一応血縁者なのに。
ケファはそのまま数秒考え、“傲慢”へと目を向けた。その視線に、思わず彼は噴き出した。
「いいよ、俺はそちらの小さな教皇様と戦う」
そう言うのなら、黙って身を引こう。
その前に、とケファは三善の肩を叩く。
「その身体はいろいろと不完全なんだから、加減してやれよ」
ケファの言葉に、三善は無表情で頷くだけだった。そして、ふとケファを仰いだ。その唇からこぼれ落ちたのは、
「“それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか”」
三善でありながらそうではない、『誰か』の祝詞である。この問いかけにどう答えるべきか、『岩の子』であるケファは大変よく熟知していた。そして、彼が一体なにを求めているのかも。
ケファはその右手で、とん、と三善の背中を叩いてやった。
「――『神からのメシアです』」
三善の表情が変わったのは、誰が見ても分かることだった。
今までは、枷か何かに捕らわれていたのだろうか。そう考えてしまうほど、今の三善が纏う聖気は濃密で清浄だった。正直なところ、「きれいすぎた」。
先程も「その気配が濃すぎて、慣れていなければ具合を悪くしそうだ」と思ったが、あれはまだまだ序の口だったのだ。それを思い知らされ、“傲慢”は思わずぽかんと口を開け広げてしまった。
「おまえ、何を……」
ケファに声を投げかけようとしたところで、“傲慢”は唐突に理解した。
この男――ケファ・ストルメントが関する名は、ペテロ。主の最初の弟子である。神から託されたとされる『天国の鍵』は、彼のアトリビュート。もしも少年・三善の潜在能力を引き出す『鍵』が、先程の『口頭試問』だとしたら?
それならば、全ての辻褄が合う。
“あの男”が三善の存在を一言も告げなかったことも。この禍々しいほどの聖気により、己の核が崩壊しそうなことも。
全てはやはり、八年前の「大司教逝去」に繋がっていた。これ以上の収穫はあるまい。
「……やっと楽になった」
三善がぽつりと呟いた。手にしていた巨大十字を全て灰に変え、彼はただひとり、なにも武装することなく“傲慢”の正面に立つ。
その瞳は、傲岸不遜な口調とは裏腹に、恐ろしいほど慈悲深く優しいものであった。
「手加減はしない。あの娘を賭けて決着を」
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