第四章 (2) 昨日のこと

 ええと、と口ごもりながら三善はテキストに目を落とした。洗礼を受ける前に習ったような初歩中の初歩しか書いていないけれど、これを一般の子供が理解できるとは到底思えない、が三善の正直な感想である。どう噛み砕こう。うーん、と三善は思わず唸ってしまった。


「『復活』という出来事は歴史的に一度しか起こらない出来事であるので、科学的証明が困難だということ――これが問題点にあたります。私たちの世界は、科学的方法で立証される事柄ばかりで成立している訳ではありません。法律的方法によって吟味されなければ、正当な方法を用いているとは言えないのです。つまり、」


 身体の芯が冷える思いをしながら三善は言葉を紡ぎ出す。「目撃者の証言や本人の証言が収載されている聖書の記事を有力な証拠として検証が必要になります。だから、復活の証言には、聴く者の主体的な判断、即ち、信じるか否かの判断が求められます。話す側ではなく、聴く者に判断の最終権限が託されているのです」


 やっとのことでその項目を言い切ると、丁度よく、まるで示し合わせたかのように授業終了のチャイムが鳴る。教室中が喧騒に包まれた。


 三善はふー、と長い息を吐き出して、教壇に突っ伏した。この長い長い一時間で、自分の魂が半分くらい削られるような思いをした。今度からは、きちんと授業を聞こう。そう念じながら、己のやわらかい灰色の髪をぐしゃりと押える。


「お疲れさん、ヒメ」


 ふと頭上から声が聞こえた。三善はそのままの体勢で「むぅ」と奇声を上げる。


 突っ伏しているがために表情は分からないが、どうやらケファは苦笑しているらしかった。気配でなんとなく分かる。


「こんな時間に神学なんか入れたら、普通は眠くなるっつうの。まあ、ヒメちゃんの講義自体が理屈っぽくて、それに拍車をかけたってのもあるけどさ。こういうのはもっと楽にやっていいんだ。特に、今日は普通科の授業だし」


 どういうこと? と三善はのろのろと顔を上げた。


「全力で神学を刷り込まなくてもいいって話。国語や数学と違って、神学は『生きるための考え方のひとつ』を提示しているにすぎないの。そもそも、宗教ってそういうものだろ」


「……ああ、そっか。直接人の生き死にに関係することだから、基本的に『何を信じるか』っていう部分は本人に任せていいのか」


 そう、とケファは頷く。


「そして、直接生死に関わることだからこそ、俺たちは真面目に教えを説かなくてはいけない。真摯に向き合わなければ、俺たちを生み出した神様とやらに示しがつかん」


 まぁ、それをきっかけに信者が増えれば万々歳だけど、とケファは茶化しながら笑った。


 これくらいあっけらかんとしていれば楽だが、そうもいかないのがエクレシアの内情である。そもそもエクレシアは大聖教内で分裂した宗派を無理やり束ねたよろず宗教法人である。ケファが「本人に任せる」発言をしてもあまり怒られないのは、彼が大聖教にとって有益となるような研究成果を十数単位で発表してきたからであって、普通は例外なく叩かれるに決まっている。


 そのあたりの兼ね合いが奇妙に絶妙だということを三善は知っているため、敢えてその辺りは深く追求しないことにした。


「じゃーねー、ヒメ先生」

「またねー」


 声をかけながら講義室を出ていく生徒たちに三善はにこにこと笑いながら軽く手を振ってやる。それを見て、ケファは思わずきょとんとしていた。


「なに、お友達になったの?」

「ううん。さっき廊下を歩いていたら、突然飴を握らされた」


 三善ののほほんオーラに絆されたのか、はたまた単位のために――聖フランチェスコ学院は単位制だ――買収されたのか。真意は明らかでないが、特に悪いことではなかろう。まあいいか、とケファもそのあたりには納得してくれた。贈り物はあまり受らないほうがいい、と軽く釘をさした程度で、それ以外には細かく口出ししなかった。


「そうだ。三善、これ」

「ん?」


 急に名前を呼ばれ、テキストをまとめていた三善はついつい瞠目してしまった。彼に渡されたのは、結構な厚みのある紙束である。


 本文は英数字の羅列のみで構成されており、ぱっと見ただけではそれが何を意味するのか見当がつかない。だが三善はそれをちらりと見ただけで、「ああ」とすぐに納得したようだった。


「書いてくれたの? ありがとう」


 それは、一昨日三善があの男から『解析トレース』した暗号文であった。とりあえずケファに全部を話し無理やり記憶させた、というのは覚えていたが、その後それをどうしたかは全く覚えていなかった。ものにもよるが、三善は記憶を断片的にしか留めておくことができない。記憶分野のキャパシティが極端に狭いのだ。だからこそ、外部に記録できるものはきちんと書き留めておく必要があるのだが。


 三善はその紙束を上から数枚ぺらぺらとめくり内容を確認し、脳内できちんと再生できるかシミュレーションしてみた。頭にいくつか数式が浮かび上がり、そしてそれが正しいことを瞬時に検算しながら。三〇秒ほどゆっくり時間をかけて「正しい」ことを確認すると、三善はそっと紙束を閉じた。


「うん、大丈夫。合ってる」

「ところで、それって本当に“傲慢Superbia”の“鎧”なのか?」


 三善が肯定したのを受けて、「それじゃあ尚更」とケファは三善の頭に手を乗せる。

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