第九章 その6 おっさん、東方の酒を飲む
ゼファーソン氏が言われるがままレフ・ヴィゴットに案内された店というのは、一見教会のようだが中は異国の工芸品や装飾の置かれた上品なレストランだった。
「ほう、おもしろい趣向の店ですな」
「でしょう? 異国との貿易で成功した商人が、元あった古い建物を買い取って改装したそうですよ」
「そうですな……」
覚えている、いや忘れるはずがない。ここはかつて教会の運営する孤児院だった。それも自分の若い頃、世話になっていたぺスタロット司祭が管理していた施設だ。
「ここで出されるのははるか東方の料理、私もまだ訪ねたことの無いほどの遠くです。いつかはこの世界の最果てをこの目で見てみたいものです。さて、どこかに……お?」
空いている机を探してきょろきょろと頭を動かしていたレフ・ヴィゴットは、見覚えのある顔を見つけて固まる。
「ハイン殿ではありませんか、これは奇遇ですね!」
にこにこ笑顔で手を振りながら、先客の座るテーブルに近付くヴィゴット。そこに座っていたのは大柄な男ともうひとり、いずれも見たところ40前後ほどの年齢だ。
「ヴィゴット殿! どうしたのです、そんな格好で」
大柄な男が仰天する。それはまさしくゼファーソン氏が先ほどまで下宿を覗き込んでいたハイン・ぺスタロットだった。
この偶然にはさすがにゼファーソン氏も驚きを隠せなかったが慌てて顔を背けて表情を整え、改めてハインの顔をちらりと見る。
葬儀で見かけた時は涙に濡れていたものの、たしかに同じ顔だ。まさかヴィゴットと知り合いだったとは、思いもしなかった。
「はっはっは、私はさすらいの文筆家、たまにこうやって身分を隠していろんな場所に姿を現すのですよ」
ヴィゴットがけらけらと笑いながら言うと、もうひとりの男が「ええ!?」と声を上げる。
「ヴィゴットって、もしかしてあのレフ・ヴィゴット様ですか!?」
どうやら彼は紀行文の熱心な読者のようだ。
「私の名を存じていただけるなど光栄ですな。ハイン殿のご友人ですかな?」
「幼馴染のペーターです。同じ孤児院で育った兄弟みたいなものですよ」
ハインが紹介している間にも、ペーターはヴィゴットに握手を求めていた。本来貴族と平民が手と手を交わすことなどありえないのだが、そういう社会通念にとらわれない性格のヴィゴットは快く応じ、互いに久々に再会した友人のような空気を漂わせていた。
「ところで、そちらのお方は?」
ゼファーソン氏をちらりと見て、ハインが尋ねる。ゼファーソン氏はごくりと小さく唾をのんだ。
「ふっふっふ、この方はですね――」
「どうも、役場で税務を担当しております、ホレスと申します。ヴィゴット殿とは、まあ飲み仲間みたいなものです」
口を開きかけたヴィゴットに割り込んで、ゼファーソン氏が偽名を名乗る。その行動にヴィゴットは「おや?」と目を丸くした。
本名は名乗らないのですか?
当然です。
ヴィゴットがまばたきで尋ねると、ゼファーソン氏も同様目だけで意思を疎通させる。ゼファーソン家は爵位自体はそこまで高くないが、数十年来の王の付き人として特別な地位を確立している。市井の場に突如姿を見せたとなったら、大混乱を引き起こすだろう。
おそらくはそう解釈したのだろう、ヴィゴットは了解した様子で小さく頷いた。
「そうだ、せっかくですし酒でも頼みましょうか。新作が売れてちょっと小金が入りましたので、払いますよ」
「本当ですか?」
酒という言葉にペーターの眼が輝く。だがハインは返事を渋った。
「いえ、でもまだ昼間ですし……」
「そんなキチキチに考えなくても。今日は休日、神様がお決めになられたことなのですよ、ハイン殿だって最近は忙しくてろくに酒も飲めていないのではありませんか?」
言われてもいないのに空いている椅子に座り込むヴィゴット。結局彼の口車にのせられ、4人は同席することになったのだった。
ヴィゴットが頼んだのは老酒ラオチュウというはるか東方の酒だった。白磁に入れられた粘り気のある黒い液体という見た目、そしてつんと鼻を突く薬草のような香りに一行は仰天したものの、いざ口をつけてみると思いの外飲みやすく、ほんのりと舌に残る甘さが男たちを虜にした。
「いやいや、東方にはこんなに美味い酒があるとは。これは私の残りの人生をかけてでも東方への旅路を敢行するしかありませんな」
「ヴィゴット殿、車が直ったらどこへ向かわれるのです?」
不意にハインが尋ねる。ヴィゴットは白いコップの中で波打つ黒い酒を見つめながら「うーん」と小さく唸った。
「実は北方帝国の知り合いから呼ばれておりまして。船に車を積み込んだら、そのまま海を渡ろうと思います。あそこは今の季節ですと雪がすごくて、車が無ければ隣の家にも行けませんよ」
彼の言う北方帝国とは、王国と海を挟んで対岸に位置する国家のことだ。海に面している王都からなら魔動外輪船を使えば2日とかからず到着する。
入り組んだフィヨルドと山脈が見る者を圧倒する風光明媚な国で、塩漬けなどして加工された海産物は近隣諸国の食文化を下支えしている。寒冷地と積雪ゆえに穀物はライ麦くらいしか獲れないが、それでも海の幸をふんだんに用いた北方の料理は豪勢で貴族からの人気も高い。
「北方帝国ですか。そういえば王家は北方帝国ともつながりが深いですからね」
ペーターはここではないどこかを見つめていた。ヴィゴットの著書を読み耽る彼は、頻繁に登場する北方諸国にきっと憧れを抱いているのだろう。
そんな彼に優しく教えるように、ゼファーソン氏が話しかける。
「ええ、王妃様も北方帝国の王族の出でございますから。貴族にも北方帝国をルーツに持たれる方は大勢おられます」
今の国王の妻、つまりお妃様は北方帝国を統治する皇帝の次女にあたる。10年ほど前、当時はまだ王子だった現国王の結婚式が盛大に行われたのは民衆も覚えているだろう。
より肥沃な土地や食糧を求めて早くから航海技術を発達させてきた北方諸国は幾度となく周辺諸国と交戦を繰り返してきた歴史もあるが、帝国としてまとまって以降は貿易を通じた平穏な関係を維持している。王国にとっても隣接する共和国の方がよほどの脅威だった。
「あのお美しい王妃様のこと、きっと帝国はお美しい女性だらけなのでしょうな」
ペーターが冗談混じりに言う。彼は10年前の婚礼のパレードで王妃の花嫁姿を見ていた。
「ええ、それはお美しい方ばかりで。あの国に骨を埋めたくなりますよ」
ゼファーソン氏が答えると、男たちは一様に吹き出す。そしてハインが「ホレス様も訪れたことが?」とすかさず尋ねた。
「ええ、若い頃に視察団の一員として。帝国の港湾整備は我が国のはるか先を進んでおりますから」
やはり海洋国家として、北方低コックが大型の船舶とそれを受け入れるだけの港湾を整える力は世界でもトップクラスにあった。若手の高官だった自分たちの行ったこの外遊のおかげで、現在の王都も大型船を受け入れられるように整備し直されたのはゼファーソン氏にとって周りにも自慢できる功績だった。
「ところで皆さんは、この店にはよく来られるのですか?」
ゼファーソン氏が話題を変える。
「いえ、今日が初めてです。実はここ、かつて私たちの育った孤児院だったのですよ」
ハインは躊躇もなく答えた。
「ええ、あそこには祭壇があって、聖人画があって……今でもよく覚えています」
ペーターも昔を懐かしむ様子で周囲を見回す。
「そうですか……いつ頃から?」
「私は5歳からですが、ハインは生まれた時からだそうです」
ペーターがちらりとハインに目を配る。そしてハインは「ええ」と寂しげに頷いた。
「物心ついたときにはもうここにいました。親の顔は全く知りません」
酒を酌み交わし店を出た途端、外の突き刺すような寒さが全身を襲う。一行は全員が縮こまりながらも、暖かい暖炉を求めて家路へと急いだ。
「ハイン、やはりあの男は……」
ぶつぶつと呟くゼファーソン氏。少し先を歩いていたレフ・ヴィゴットはそんな彼の様子を見て、思わず訪ねたのだった。
「どうなされました?」
「いえ、ただの独り言です」
首を横に振るゼファーソン氏。ヴィゴットは「うん?」と首を傾げたものの、深くは追及しなかった。
「そうですか……では、また王城で」
そうして貴族のふたりも別れ、ゼファーソンは王城へ、ヴィゴットは宿へと戻る。
王城近くの宿に着いたヴィゴットは外套に付着した雪をぱらぱらと払い落としながら、自室のある最上階へと階段を一段一段ゆっくりと昇る。ここは貴族御用達の高級宿であり、調度品も食事も一級品だ。宿泊料も平民ではとても払えないものである分、兵士が常駐して警備も万全だ。
そんな高級宿の最上階は一階分まるまる、ヴィゴットの部屋として貸し出されている。大型の天蓋付きベッドを中心に豪華な花瓶や絵画が飾られた、王族の寝室にも見劣りしない高級感溢れる一室だ。
部屋に帰ってきたヴィゴットは外套を脱いでハンガーラックに吊るすと、既に焚かれている暖炉の傍らの椅子に座り込む。
そして突として近くに置いていたカバンを引きずり中を開ける。取り出したのは通信用の水晶だった。
それを手に持ったヴィゴットは「むん」と小さく念じる。たちまち無色透明の水晶はぼやっと白く濁り、やがてそこから声が聞こえてきたのだった。
「どうですヴィゴット、重要な情報は聞き出せましたか?」
女性の声だ。耳障りの良く艶っぽい、だが油断のならない雰囲気も漂わせている。
「確定事項ではありませんが、ゼファーソン殿はまだ何も気付いておられないようです。ただあくまでも今のところです、安心はできません」
いつもの少しひょうきんな声質とは違い、ヴィゴットの声は死地に赴く戦士のようだった。
「でしょう? 本当、私に隠れてこそこそと何を企んでいるのかしら。引き続き調査をお願いするわね」
「当然でございます、王妃様」
姿は見えないはずだ。それでも彼は手元の水晶に深々と頭を下げていた。
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