第十章 その1 おっさん、ケーキを食べる機会を逃す
国を挙げての急ピッチの復旧作業により、王都各地の病院や施設もようやく使用に耐えうる程度に再興が完了した。一時的に病院代わりとして利用されていた学校もその役割を終え、教室に並べられていたベッドも撤去される。こうして魔術学園にはいつもの平穏が戻ってきたのだった。
「つまり心臓には常に同じ方向から血液が送り込まれ、また同じ方向へと流れ出ています。蘇生術を施すときは、この流れに注意して魔力を送り込まねばなりません」
ようやく座学の授業も再開される。久しぶりに教壇に立つパーカース先生は、以前と比べて明らかに生き生きしていた。
ヴィルヘルムとの良好な関係ももちろんだが、騎士号を叙勲された鍛冶屋の兄妹のはたらきかけで自然科学を研究するグループの設立が認められたらしい。彼女はそのメンバーとして、授業の傍ら研究に勤しんでいるようだ。
そう言った事情のせいか、退屈一辺倒だった先生の授業が妙に面白みを増しており、生徒たちは久々の授業を真剣に聞き入っている。
だがその中でもマリーナは殊更に鬼気迫る雰囲気を漂わせていた。食い入るように、ほとんど睨み付けるような顔で講義を受けるその姿は、見る者からすれば命を狙われているのではないかと疑うほどの凄みを帯びていた。
「いつも以上に真剣ね。何かあったの?」
授業の後、教室を出るマリーナにナディアが駆け寄って尋ねる。
「うん、入学してから密かに思ってたのよ、このままだらだら勉強を続けているだけじゃダメだって。ちゃんと目的意識を持って、効果的に知識と技術を身に着けていかなくちゃ。だからこれからは一日たりとも無駄にできないわ」
かつかつと石張りの床を鳴らしながら強く言い切る。凛とした美人顔の彼女だ、堂々と廊下を歩く姿は絵画のように映えていた。
だがそんな普段とは違う彼女の様子に、ナディアはうーんと腕を組んで唸る。
「そうなの……前の事件で壊れたお菓子屋さんが再開するから、学校が終わったらみんなで食べに行こうと思っていたのに残念ね。でもそうよね、マリーナの邪魔しちゃ悪いわ。記念にチョコレートトルテが特別に売り出されるって聞いてたけど、勉強なら仕方ないわ」
「チョ、チョコレートトルテ!?」
くるっと振り向くマリーナの瞳は潤んでいた。寒さ残るこの季節でも頬は赤く染まり、緩んだ口の端からは涎さえ流れ出しそうな勢いだった。
チョコレートの原料であるカカオは南国でしか栽培されない貴重品で口にできる機会は少ない。しかしココアパウダーをたっぷり練り込んだクリームは少し大人っぽい独特な風味で、背伸びしがちな女の子からは絶大な人気を誇っていた。
「私たちみたいな不真面目な学生と違って、マリーナは勉強家だからねー」
「だ、誰が行かないなんて言ったのよ。たまには息抜きも必要よね、たまには」
「よっしゃ、それでこそマリーナね!」
完全に乗せられていることに気付かず、友人に目を輝かせて詰め寄るマリーナ。ナディアは悪戯っぽく微笑むと気付かれないよう小さくガッツポーズを取る。
「あとはハインさんね、もう行ってしまったみたいだから追いかけないと」
そこでマリーナは立ち止まる。
やっぱり、ハインさんも誘うのね。
憧れの人であり、頼れる大人であり、そして対抗心の行先であり。そういった複雑な感情を整理しきれない彼女は、今ハインと対面していつものように仲良く話をできるか不安だった。
「ねえ、やっぱり私……」
つい口に出してしまった。背中を見せていたナディアが「うん?」と振り返る。
だがはっと気付く。彼が一体何をしたというのか。自分と同じように回復術師を目指し、勉強に励んでいるだけではないか。
そうだ、今の自分は逆恨みもいいところ、彼の苦労と努力が結果として出ているだけなのに、それを責めることができようか。もういつまでも子供じゃない、悩みを他人のせいにするのはやめよう。
「ううん、なんでもない」
マリーナはにこりと微笑み、ナディアの後に続いた。
学校が終わり冷たい風の吹き付ける王都だが、この商店の並ぶ通りだけは人の往来で賑やかだ。
この辺りはダン・トゥーンの襲撃を受けたものの奇跡的に大きな被害はなく、せいぜい屋根の一部が焼けたり瓦が崩れたりといった程度だったため復旧はすぐに完了していた。
そんな通りの一角に店を構える菓子屋は、手頃な価格とそれをはるかに上回る絶品の美味しさで、王都でも有数の人気店だ。
「すごい行列ね」
若い女性を中心に、店の再開を聞きつけて集まった人々が隣の店の入り口を塞ぐほど集まって行列を作る。水も凍りつく寒さでさえも、甘味の前では敵わないようだ。
「貴族にも愛好家の多い人気店だからねー」
「ハインさんも来られれば良かったのに」
ナディア、マリーナを含む5人の女の子たちが彼の不在を惜しむ。ハインも一緒に来ないかと誘ってみたものの、今日は下宿先の書店の手伝いで来れないそうだ。
だがマリーナは密かに安心していた。決心はしたものの、やはりハインと顔を合わせて平静を保っていられるか自信は無かった。
長い長い待ち時間の末、ようやく女子生徒たちは店の中に入る。そしてカウンターで注文を聞いていた若い男を見て、一様に「ええ!?」と驚きの声を上げたのだった。
「いらっしゃいませー、あ」
「ヘルマン先輩!?」
菓子の並ぶカウンターに立っていたのはヘルマン・ベーギンラートだった。彼女たちの1年先輩で、最近まで軍事魔術師科に在籍していた将校の息子だ。
「先輩、魔術工学技師科受け直すんじゃなかったのですか? いつの間にお菓子屋さんに就職を?」
「いやいや、これバイトなんだよ。学校辞めたんだから再受験のための勉強以外不要だって親に言われて、小遣いがストップしちゃったんだ」
「そんなに働いて、合格はできるのですか?」
「一回は通った試験だから、大丈夫じゃないかな。入学試験だけなら学科ごとの出題内容に大きな違いも無いし」
はははと笑うヘルマン。この人は女の子の前では妙にノリが軽い。
「ヘルマン、ボケっとしてねえでビシバシ働け!」
店の奥から飛んでくる親父の怒号に、女子生徒たちは震えあがる。だがヘルマンは慣れた調子で「へい親方!」と威勢よく返していた。
「というわけでお客様、ご注文は何になさいますか?」
「随分と体育会系なんですね……じゃあチョコレートトルテとコーヒー」
「私も同じので」
「じゃあ、私も」
結局5人とも同じものを注文する。ここで注文した菓子は別料金で持ち帰りも可能だが、大半の客は店内の机に座って飲み物といっしょにその場で楽しんでいる。
円卓に身を寄せ合い座った彼女たちの前に運ばれてきたのはチョコレートトルテ。材料が入った時にだけ提供される至高のメニューだ。
「美味しーい!」
口にした途端、5人全員の顔が一斉にとろける。満足極楽のその笑顔、別の客にケーキを運んでいたヘルマンもしたり顔を浮かべてしまう。
「だろう、親方は口は悪いけど、技術と舌は超一級品だからな。他の商品も注文してくれよ」
「先輩、私たちを太らせるつもりですか?」
「難しいジレンマだな」
そう話に興じていた時だった。カウンターから聞き覚えのある男性の声が聞こえたのだ。
「すまんが、チョコレートトルテの持ち帰りはできますかな?」
しわがれた老人の声だが、上品な落ち着きを漂わせている。ふとその人物を見たマリーナは、またしても「ああ!」と声を上げたのだった。
「が、学園長!」
そこに立っていたのは身分不相応にラフな格好をした先代学園長ことデュイン公爵だった。
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