第九章 その3 おっさん、葬儀に参加する

「陛下との謁見時間はごくわずかです。どうぞお心得ください」


 王に謁見する前の控え室、豪華な装飾の施された部屋の真ん中に置かれた椅子に座らされた伯爵夫人エレンは若い貴族の男から忠告を受ける。


 冬の朝の冷え込みも、この王城の中では無縁のようだ。


「はい、お時間を設けてくださったこと、心より感謝申し上げます」


 そう言って恭しく会釈する伯爵夫人の振る舞いは、金細工と絵画に彩られた部屋の中で実に溶け込んでいた。最高級のシルクで編んだドレスに控えめながらも強い輝きを放つダイヤのネックレスを首に下げたその姿は、まさに舞踏会の華だった。


「しかしお美しい伯爵夫人おひとりでよくぞ参られましたな。ブルーナ伯爵はご多忙で?」


「ええ、共和国との緊張が続く昨今、王国防衛の最前線である領地から一時的とはいえ夫がいなくなるのは避けたいので」


「ほう、それは。しばらく主人に会えないとなれば、さぞ寂しいことでしょう」


 若い貴族がじっと細めた目を向ける。


「その辺にしておけ!」


 だがそんな彼も、突如鳴り渡る一喝に「ひっ」と小さく声を上げて萎縮してしまった。


 部屋に入ってきたのはすっかり禿げ上がった頭の両側方に、きちん整えた白髪を残した老齢の男だった。


「私の部下が失礼しました、申し訳ありません。私は国王陛下の従者を務めております、トマス・ゼファーソンと申します」


「こちらこそゼファーソン様。ブルーナ伯爵が妻エレンと申します」


 ふたりは互いに礼を交わす。ゼファーソン氏は国王の幼い頃からの世話役であり、同時に滅多に姿を見せない王のメッセンジャーとしても有名だ。王と謁見したい場合、まずは彼に話を通さねばならない。


「国王陛下は多くの者から命を狙われる身。悲しいことですが、貴族とて面識の乏しい方には警戒を緩められません。謁見時間は限られております、お話しになりたいことはあらかじめご想定ください」


「ありがとうございます」


 だが今回は根回しが効いたのだろう、エレンは思った以上にすんなりと通される。


 いよいよ準備は整ったようだ。謁見の間へと続く巨大な扉、それに近衛兵が「お入りください」と手をかけてゆっくりと開かれる。


 その重厚な扉をくぐったエレンを待ち構えていたのは、数百人で舞踏会もできそうなほど広大な謁見の間。その壁際に並び、じっと視線を注ぐ兵士や高官、貴族たち。暗殺を企てる者が国王に飛びかかったところで、すぐさま全方向から刃を浴びてしまうだろう。


 そんな人々に囲まれながら、王は一段高い壇上で玉座に腰かけていた。しかしその姿は足元近くまで薄いカーテンで隔たれ、ほとんど陰しか見えなかった。


「ブルーナ伯爵が妻エレンにございます。本日はお目通しくださり、誠にありがとうございます」


 ゼファーソン氏に先導され、王の前まで歩み出たエレンは跪いて深く頭を下げる。まだ呟き声では聞こえない程度に離れてはいるが、これ以上近付けば脇に立つ衛兵が問答無用で切りかかってくるような緊張があった。


「面を上げよ」


 太く力強く、それでいて何もかも包み込むような優しさも備えた声だ。それに応じ、エレンはうっすらとしか見えない王の顔を見上げた。


 座っている状態でもわかるほどの、かなりの身長を誇る人物だった。ハインのような筋骨隆々ではないものの、均整のとれた逞しい体格であることはカーテン越しでも感じ取れた。


 エレンは国王とは血縁関係にある公爵家の出である。しかし、その姿を見たのは6年前の戴冠式の時の一度切りだけだ。しかもその時は遠目に眺めていただけなので、直接声を交わしたのは初めててのことだった。


 詳しい理由は不明だが、現国王は幼い頃より王城の中で、ごく限られた人間とだけ接して育てられてきたそうだ。エレンでさえも出会うことは許されないほど、隔離は徹底されていた。その徹底ぶりは王位を継承した後も変わらず、祝祭であっても姿を見せることは稀だった。地方の下級貴族では、まだ王の姿を目にしたことの無い者も多いだろう。


「賊の反乱で王都がかつてない破壊を被った中、領地から物資を持って駆けつけたそなたの働き、聞き及んでいる。まことに大義であった」


 跪くエレンに向かい、王は賛辞の言葉を投げかける。


 たしかに威厳に満ちてはいる。だがその声や話し方から、エレンは奇妙な親しみも覚えていた。自分と王家とが遠戚であることが原因だろうか。


「陛下からのお言葉、大変光栄に存じます。今後とも陛下のため、夫とともに今後ともこの身を尽くしましょう」


「うむ、期待している」


 顔はほとんど見えないものの、王はにこりと微笑んだ気がした。


 そこでエレンは音を立てず唾を飲み込んだ。高鳴る心臓の鼓動を抑え、渇ききった喉から声を絞り出す。


「ところで国王陛下、今夫の治める領地は共和国とも隣接し、常に相手の動向を窺っている状態にあります。地理的に国防の要とも言えるでしょう」


 謁見の間を包んでいた空気が変わった。美しい伯爵夫人の登場にいささか和んでいた場が、途端に冷たい金属のように凍てつく。


「そんな要衝を守る私たちが陛下に背信を抱いたならば、たちまち敵の手に落ちましょう。それを謀反の疑いありとして兵を派遣されるなど早計と言わざるを得ません。失礼ながら、いささかお疑いに駆られ過ぎてはございませんか? 我らブルーナ伯爵家一同、建国以来領地を封じられてからというもの、陛下に誓った忠誠に揺るぎはありません」


 脇に立っていた衛兵の男が剣の柄に手を振れた。だがそれを国王はすっと手を挙げて制する。


「それはそなたらに悪いことをした。近年、共和国からと思われる妨害を度々受ける身、警戒できるものはすべてに気を配らねばならぬ、許せ」


 国王の意外な返事に、謁見の間はにわかどよめく。身の程もわきまえず王を咎めた愚かな女に、王が謝罪をする。長年多くの謁見を見守ってきた彼らにとっても、このようなやりとりは初めてだった。


「そのお言葉、重くお受け止めいたします」


 改めてエレンは一礼する。なおもはち切れんばかりに拍動を続ける心臓を抱えながらも、彼女はようやく呼吸を整えることができたのだった。


「伯爵夫人、そろそろお時間ですぞ」


 ゼファーソン氏がささやくと、全てを出しきったエレンは表情を緩め、「では陛下の治世がいつまでも続かんことを」と言い残して部屋を去ったのだった。


 重々しい扉がバタンと閉められる。途端、エレンは全身の力が抜けたようにふらふらと椅子に座り込んだのだった。


「ほほほ、まさか陛下を問い質されるとは。伯爵夫人は相当の女傑でございますな」


 ゼファーソン氏がにこやかに笑う。皮肉でもなんでもない、心の底からエレンを賞賛するように屈託ない笑顔で。


「あら、それはお褒めになられているのでしょうか?」


 額から吹き出す汗を拭いながらエレンが尋ねる。その表情は勝ち誇ったようなしたり顔だった。


「もちろんでございます。屈強な軍人や高官であっても、陛下の顔色をうかがって委縮してしまうのが常ですのに」


 子どものようにはしゃぐゼファーソン氏に、エレンも思わず頬を緩めた。


 国王命令とはいえ一度領地を没収されかけたこの身、国王に一言苦言を申し付けたいのは領民の総意だった。


 だが領主自らが大々的に前に出てしまっては角が立つ。そこで伯爵夫人が代わりに王に会うこととなったのだった。仮に反感を買っても馬鹿な女がしゃしゃり出てきた、というかたちに映り、出来の悪い妻を持った伯爵にも同情が得られよう。国王からの謝罪が得られたのはエレンにとっても驚く結果となったが、ともかく伯爵家としての目的は果たされたのだ。


「ゼファーソン様、ご家族よりお手紙でございます」


 その時、先ほどの若い貴族が駆けつける。その手には書状が握られていた。


「どうした、緊急の用事か?」


「はい、お知り合いの方が亡くなられたそうで」


 そう言われ渡された書状にゼファーソン氏は目を通す。しばし文面を眺めていると、ゼファーソン氏の白い眉はみるみる内に萎れていった。


「ぺスタロット司祭か……もう70を過ぎておられたからな」


 目を擦りながら苦々しく呟くゼファーソン氏。


 ペスタロット。その名を耳にするなり、エレンはとびあがった。


「お知り合いなのですか?」


「ええ、若い頃に悩みをよく聞いてくださった司祭です……喪服を準備するよう家の者に伝えてくれ。帰宅したらすぐに葬儀に向かう」


 ゼファーソン氏が命じると、部下の貴族は「はい」と頷いてすぐさま来た道を引き返した。




 その日の昼過ぎ、王都近郊の教会所有の墓地には多くの人が押し掛けていた。


「今、ひとりの清き神のしもべが神のもとへ旅立たれた。私たちも彼に倣い、残りの人生を清く正しく歩もう」


 年老いた僧の述べる言葉に、集まった老若男女は皆じっと聞き入る。彼らは生前、ペスタロット司祭を慕っていた人々だ。


 自らの出世よりも目の前で困っている人々のために生涯を捧げた僧侶だった。教会の財政も困窮する中、孤児院の維持のため最後まで走り回っていたのは司祭だった。ここのにいる者は全員、そんな彼の人となりに感銘を受けたあらゆる身分の人々だった。


「遅れてすまない」


 黒一色の喪服に身を包んだゼファーソン氏は、墓地の入口で机を置き、参列者の受付を勤めていた若い僧侶に声をかける。


 僧侶はぎっしりと埋められた参列者名簿を開くと、「こちらにお名前を」と空白のページを向けた。ゼファーソン氏は机の上に置かれていた羽ペンで自分の名をさらさらと記帳する。


「ようこそおいでくださいましたトマス・ゼファーソン様。今ちょうど棺を運び出しているところでございます」


 僧侶に案内されるがまま、多くの参列者の輪に加わる。こうなっては貴族も平民も関係ない、ただ故人を悼むひとりの人間だ。


「司祭様……あなたの魂が攻めて安らかに天に昇られんことを」


 指を組み、じっと目を瞑る。ちょうど複数の男たちに抱えられ、埋葬のために運ばれてゆく棺を見るのは辛かった。


 だが、そんな彼の瞑想は男のすすり泣く声でかき消される。


「ハイン、そんなに泣くなよ」


「ペーター、泣きたいときくらい泣かせてやれ。俺たちもハインの気持ちはよくわかる。特にこいつは小さい頃、司祭様の後をずっとついて回っていたからな」


 ひっくひっくと年甲斐もなく泣く男。つい目を開いてちらりとその顔を見た途端、ゼファーソン氏は驚きに固まってしまった。


 棺を抱える6人の男たち。その先頭を歩くのは一際大柄ながら涙でぐずぐずになった顔の大男。だがそんな顔になっても面影までは消し去れない。


 ゼファーソン氏は静かに葬列を抜け、墓地の入り口へと戻る。そして先ほどの若い僧侶に、にこやかに話しかけるのだった。


「すまない、来るはずの友人がまだ来ていないかもしれない。参列者の名を確認させてくれないかな?」


「ええ、どうぞ」


 差し出された名簿をゼファーソン氏はひたすらめくる。そして名簿の前半、最初から葬儀に参加していたであろう人々の名前の中に、目当ての人物を見つけたのだった。


「ハイン・ぺスタロット……司祭と同じ名前、孤児院で育ったのか……」

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