第五章 その2 おっさん、勘違いされる
「あれ……ここは?」
翌朝、浅い眠りから目を覚ましたヘレン先生は見慣れぬ部屋にキョロキョロと周囲を見回す。
書物に埋もれた自分の部屋と違い、質素ながら整理整頓の行き届いた部屋だ。
「ああ先生、お早うございます」
声を聞いて椅子に座って眠っていたハインが重い瞼を上げる。途端、先生はぎょっと驚いてがくがくと震えた。
「ペ、ペスタロット……さん!? どうしてあなたが!?!?」
「やはり覚えてないですか……先生、昨夜は酒場の前で泥酔されていたのですよ。家に送ろうにも場所を教えてくださらないし、とりあえず私の部屋に連れてきました」
「あなたの……部屋……」
ぼっと顔が赤くなる。
確かに昨日は酒場でバンバン酒を頼んだが、そこから先のことはまったく覚えていない。ハインと会ったことさえ記憶の片隅にも残っていなかった。
すぐさま先生は布団に頭まで潜り込んだ。
「お、お恥ずかしいところをお見せしてしまいごめんなさい、ごめんなさい!」
全身を丸めて、震えながら何度も繰り返す。
「先生、気になさらないでください。ああいうことはよくありますので」
ハインは必死に宥めるが、その時ちょうど部屋のドアが開けられ、目を輝かせたエプロン姿のハーマニーがひょっこりと顔を覗かせたのだった。
「おっはよーございまーす! パーカース先生、昨夜はお楽しみでしたか?」
「いやああああああ!」
「こらハーマニー!」
珍しくハインが本気で叱る。だが当のハーマニーはへらへらと笑っていた。
「冗談ですってばー、ハインさんはずっと付きっきりで介抱していただけですよー」
「冗談でもそういうのはよしてくれ!」
「ほ、本当に申し訳ありません……もう帰りま……す……」
芋虫のようにベッドから這い出すヘレン先生。だが床に立った途端「うっ」と頭を押さえ、重力に従うままにベッドに腰かけてしまった。
「先生二日酔いですよ、無理はなさらずもう少しゆっくりしていってください。朝ごはんのスープもありますから」
ハーマニーが先生の身体をそっと押し、再びベッドに寝かせる。そしてすぐに部屋を出て階段を駆け下りていった。
しばらくしてハーマニーは小さな鍋を持って戻ってきた。ソーセージ、ジャガイモ、ニンジンと身近なあらゆる食材を煮込んだトマトベースのスープだった。この土地ではアイントプフと呼ばれている家庭料理だ。
いっしょに持ってきた3枚の深皿に具だくさんの温かいスープをよそい、3人はハインの部屋で朝食を始める。
「先生、昨日はどうしてあんな所に?」
ハインは机でハーマニーと向かい合って肉汁滴るソーセージを口に運びながらヘレン先生に尋ねる。彼女はベッドで上体だけを起こし、ふうふうと息を吹きかけてジャガイモを冷ましていた。
「……よく覚えてません」
「学会で何かあったのですか?」
先生の手がピタリと止まる。
「昨日何度も繰り返されていたのですよ。偏見のカタマリだのハゲジジイだの」
ハインは笑いを堪えながら訊くが、これでもオブラートを2重にも3重にも包んでいる。実際に口にした内容についてはあまりに酷すぎるので、ここでは控えさせてもらいたい。
昨夜、泥酔した先生が一人でべらべらと愚痴をまくし立てていたおかげで、ハインたちにも何があったかはおおよそわかっていた。
学会に属する一研究者として、屈辱的な仕打ちを受けたのだろう。かつて職人だったハインも閉鎖的なコミュニティでは、足並みを揃えない者は爪弾きされるのは痛いほど理解していた。
「きっと辛いことがあったのでしょう。良かったら私にお話しください、お力添えできるならいくらでも協力しますし、そうでなくても話すだけ楽に――」
「申し訳ありませんが、ペスタロットさんにお話しできるような内容ではありません」
返事は鋭いものだった。心なしかヘレン先生は怒っているようにも見えた。
「これは失礼しました」
不躾なことを言って、先生のプライドを傷つけてしまったのかもしれない。
そう反省して目を逸らした時、ハインの目に映ったのはわざと乱暴な匙使いでスープを口に運ぶハーマニーの姿だった。
「ハーマニー、どうしたんだい?」
使い終わった食器を重ね、ふたりそろって階段を降りていたところでハインが尋ねる。
「先生の話を聞いていたらなんだかイライラしてきてしまって」
食事が終わっても相変わらずハーマニーは頬を膨らませていた。
「昨日はあんなに不満たらたらまき散らしていたじゃないですか。辛いなら辛いって、素直に言うべきです」
ふんと強く鼻から息を吐き出す少女に、ハインは共感しつつも当惑した。大人になりつつあるハーマニーは頻繁にませた言動も取るものの、やはり根本の部分では彼女はまだまだ子供だった。
「ハーマニー、人は誰だって知られたくないことを抱えている。たとえ周りの人が既に知ってしまっていることであっても、本人はなおもひた隠そうとするんだ」
穏やかな口調だが、しっかりと注意する。
「先生はきっと学会で辛い目に遭ったんだろう。普段はおとなしい先生でも、酒に走って正気を失うほどのね。そしてそれは先生にとっては触れられたくない部分なんだ。学会のことなんて僕には全くわからないのに、安易に近付いてしまったのは迂闊だった」
「それはなんとなくわかりますけど……それにしても他の研究者に認められなかったくらいであんなに落ち込まなくても。こつこつ研究を続けて、成果を出してみんなをぎゃふんと言わせたらいいじゃないですか」
「たぶんそう単純にはいかないんだよ」
ハインは思い出す。いつの日だったか、伯爵夫人エレンが「学術の世界は思った以上に排他的よ」と言ったことを。
「真理を研究するのが学者として本来あるべき姿だろう。でも実際は権力や学閥のしがらみがあって、うまく立ち回れる人でないと研究者のポストに就くことさえ難しいんだと思うよ」
「なんだか息苦しい世界ですね。学者にこそそれまでの固定観念に縛られない自由な発想が大切だと、私は思いますのに」
ハーマニーがぶすっと口をとがらせていたその時だった。下の階から「すみませーん」と若い女の声が聞こえたのだ。
「そうだ、今日はナディアさんが注文していた本を取りに来られる約束があるのでした!」
そう言うや否や、ハインに持っていた鍋を押し付け階段を駆け下りる。まだ開店の時間ではないが、教会に礼拝に行く前に渡すことになっていた。
慌てて降りた店先の鍵のかかった扉の向こうでは、私服姿のナディアがにこやかに手を振っている。
「おはようハーマニー。頼んでいた本を受け取りに来たわ」
「ナディアさん、おはようございます。ええ、昨日入荷しましたよ。はい、どうぞ」
扉をあけるなり、ハーマニーは手に取っていた分厚い装丁の本をナディアに渡す。放浪の貴族レフ・ヴィゴットの旅行記の最新刊だ。伯爵領にいる間に本人から著書を借りて読み、すっかりはまってしまったのだった。
「ありがとう、これ最新の本だから図書館でもまだ入ってないのよ」
「頼まれれば東洋の思想書でもうちは探してみせますよ」
えへんと慎ましやかな胸を張り出すハーマニー。しばらくして鍋と皿を台所に置いてきたハインも顔を見せる。
「やあナディアおはよう」
「おはようございますハインさん、今日は……あれ?」
ナディアが目を丸くした。そして自分の首をそっと指差し、ハインに伝える。
「首元、汚れてますよ?」
「へ?」
ハインがぐるりと首を回す。だが当然ながら自分の目で首の汚れが見えるはずもない。
すぐさまハーマニーが駆け寄って襟のあたりを覗き込むと、「あ!」と声を上げて驚いたのだった。
「ハインさん、キスマークがついてますよ」
「ええ!?」
ハインがそっと首を手でこすると、確かに指先に赤い染料のようなものが付着していた。
昨夜ヘレン先生を運んでいた時にでも付いてしまったのだろう。彼女は発表会に参加するため、白粉や口紅でいつも以上に気合いの入った化粧をしていた。
一連の出来事を知っていたハーマニーはやれやれと頭を振る。だがここにはそんな込み入った事情などまったく聞いていない人がいたことについて、ハインもハーマニーも完全に失念していた。
「キ、キ、キスマークぅ!?」
目玉を飛び出さんばかりに開かせるナディア。受け取ったばかりの本が手から滑り落ち、床にばさっと広がる。
あ、これは面倒なパターンだ。ハインの38年の人生で培ってきた直感がそう訴える。
「大スクープです、まさかハインさんにそういうお相手がいたなんて! お相手はどなたです?」
鼻息を荒げたナディアはどこからかメモ帳と鉛筆を取り出して顔を近付ける。好奇心で顔を真っ赤にし、耳から蒸気が出てきそうだ。
「誤解しないでほしいな、昨日酒場で酔いつぶれていた女性を介抱してあげただけだよ」
「本当にそれだけですか?」
「本当だよ、それだけだよ」
じっと疑いの目を向け続けるナディアに、あくまで否定し続けるハイン。だが物事というのは一度変な方向に転がり始めると、もう収集がつかなくなるのが世の常だ。
「あら、ここって本屋だったのですね」
なんとタイミングの悪いことに、ヘレン先生がちょうど上の階から降りてきたのだった。歩ける程度に回復したのは良いことだが、今はもうしばらく寝ていて欲しかった。
「せ、せんせ……い!?」
わなわなと震えるナディア。そしてヘレン先生が教え子に気付き「あ」と顔を向けた途端、彼女はくるりと回れ右し、凄まじい速力で朝もやの街へと駆け出したのだった。
「こんなこと誰が予想できたでしょう!? あまりに急転直下の怒濤の展開、運命とは非情にして思わぬ方向へと転がっていくもの。とりあえずこれだけでマリーナを半年はからかえる材料ができましたよ」
「誤解だぁああああ!」
情けない絶叫とともにナディアを追いかけ店を飛び出すハイン。恐らくこの日は彼が今まで生きてきた中でも最もついてない日だった。
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