第2部

第五章 その1 おっさん、ヘレン先生と一夜を過ごす

 王立魔術師養成学園の教師陣はほとんどが大学で成果を残した一流の研究者だ。軍人上がりのヘルバールのような一部の例外を除き、経歴のほとんどを極めてアカデミックな世界に浸かってきた人々だと言ってよい。


 回復術師科の最年少教員ヘレン・パーカースも靴職人の家の生まれながら幼い頃より並外れた勉学の才を発揮し、王国一の名門と名高い王立大学魔術理学科で生体魔術反応を修めた才女だ。


 しかし若い研究者はそのまま大学に残って研究に打ち込むのがほとんどだが、彼女は卒業と同時にまるで逃れるように大学を離れ、教員の道へと進んだのだった。


「パーカースさん、あなた本当にこの研究で良いと思っているのですか?」


 休日だというのに大勢で埋め尽くされた学園名物の扇形の大講義室。この日、階段状に備え付けられた席に座っているのは若い学生ではなく、白髪の老人や立派な髭の中年ばかりだった。


 そんな彼ら全員の突き刺すような視線を受けながら、ローブ姿のヘレン先生は講堂の中心にぽつんと立っていた。彼女はいつも以上に身を縮ませ、まるで今にも泣き出しそうだった。


 今日は魔術理学の研究者が集まる学会だ。各自が研究成果を発表し、論文完成の前に他の研究者からの質問を受けるのが通例となっている。この過程を経てより論文の完成度を高めるのが本来の目的だが、時として注がれる辛辣な指摘は無慈悲な知識の暴力と化す。


「確かに魔術的刺激を与えれば、死後間もない身体なら反応を示すことは以前より知られている。だがこの研究は頭部を切り取ったカエルを使っている。いくら死体で試すことは不可能と言っても、人体とカエルの構造はまるで違う。同様に語るのは無理があるのではありませんか?」


 参加者のひとりが立ち上がり、配布された発表プログラムのヘレン先生の要旨のページをぴしぴしと指で叩く。この冊子には今回の研究発表者15名の発表内容がそれぞれ1ページずつまとめられているのだが、彼女のページを目にした参加者はいずれも眉をひそめていた。


「で、ですが解剖学者は人体の構造と他の獣の構造に共通点を見出し、原理は同じでないかと考えており――」


「解剖学!? そんな魔術理学の範疇に含まれない分野を基に、この理論を構築されたのですか!?」


 しまった。先生は口を押さえたがもう遅かった。


「自然科学と魔術理学は違う。そんなこと常識だろう!」


「あなたは何もわかっていない、我々が議論しているのは魔術理学なのです!」


 次々と沸き起こる野次。ヘレン先生の目に涙がじわっとたまっていく。


 彼らは皆魔術理学を絶対の学問と信じ、その生涯を過ごしてきた。研究者は奇抜な発想と系統だった思考に優れているものの、その一方で自らの信念を簡単には曲げない頑かたくなな思考の持ち主でもある。魔術理学こそ世界を解き明かす唯一の学問であるという前提であらゆる理論を展開してきた彼らにとって、前時代的な自然科学など軽蔑の対象でしかなかった。


「パーカース君、ちょっと良いかな?」


 厳しく吼える参加者たちの中、ただひとり穏やかに手を上げる初老の紳士を見てヘレン先生はほんの少しだけ表情を緩めた。その男性は大学時代の恩師のジャン・エミール・ルソー教授だった。


「研究の着眼点はおもしろい。ただ異なる分野の理論をつなげるにはいささか強引すぎると思うんだ。もっとじっくり、魔術理学に立脚した先行研究を積み立てて論理を展開してみてはどうかな?」


 教授は学生の頃と同じように穏やかに諭す。


 だが残念なことにその言葉はヘレン先生にこの日一番のショックを与えただけだった。


 結局、私は何も進歩していないんだと、彼女は虚しいほど痛感したのだった。




「うえーん、学会なんて大嫌い、もう抜けてやる!」


 夕食時で賑わう繁華街の酒場、発表で着ていたローブ姿のまま、ヘレン・パーカース先生はカウンターに突っ伏してわんわんと泣き散らしていた。傍らには空っぽになったビールのジョッキが3つも転がっていた。


「それと同じこと、去年も一昨年も聞いたよ」


 仕事終わりの労働者たちがぎょっと目を向けて固まる中、髭を整えたマスターはなんの気にも留めていない様子で蒸留酒アクアビットをボトルからショットグラスへと注いでいた。


「今年は本気、私はもう研究の世界じゃ生きていけないのですもの!」


 先生は頭を上げると同時にどんと強く机を叩く。顔は真っ赤で、瞳孔は大きくなったり小さくなったりと正常に働いていなかった。


「そうかい、まあ今日は大変だったろう、これは俺からのおごりだ、飲んで楽になれよ」


 マスターは呆れてため息を吐きながらも、無色透明の酒で満たしたグラスを先生の前にそっと置いた。


「ありがとう、マスター大好き!」


 そう言ってヘレン先生は出された酒を一気に飲み干した。


 アクアビットはジャガイモを原料に作られる、喉が焼け付くほどアルコール濃度の高い蒸留酒だ。だが今の彼女にはこれでもまだまだ物足りなかった。




「らららー王立大学ー、栄光のー我が母校ー」


 酔いが回りすぎてすっかりできあがってしまったヘレン先生は足取りもフラフラで、まっすぐ歩くこともできず酒場建ち並ぶ夜の路地をあっちにこっち蛇行していた。


 絡まれたら厄介だからと、すれ違う人々は皆道の端に寄って距離を取りながら足早に過ぎ去っていく。分厚い眼鏡に切りそろえた黒髪と、一風変わった格好も怪しさに拍車をかけていた。


「あっはっはー、みんなも飲もうよ良いお酒ー」


「おい大丈夫か? しっかりしろよ」


 そんな陽気に歌う酔っ払いを見かねてか、ひとつの大きな人影が走り寄る。そして後ろから先生の肩を掴んで先生身体を支えたと同時に、ぎょっと目を飛び出させたのだった。


「……え、パーカース先生!?」


 駆け寄ってきたのはハインだった。先ほどまで飲み友達のヘルバール先生と夜の酒宴を満喫し、今ちょうど下宿に帰ろうとしていたところだった。


「あらぁーその声はぺスタロットさん? あらやっぱり、あなたも飲みに来たの?」


 紅潮した頬にとろんとした眼を向けるて熱い吐息を吹きかける先生。普段とは違い、今日は酒が入っているせいかそこはかとなく艶っぽかった。


「いえ、もう帰るところですけど……こんな場所で何しているのです? もうべろんべろんじゃないですか」


「なぁーにがペロペロよぅ、あんたも好きねぇー。あ、すっごく困った顔してる、でも安心して、私はいつも通りよぉ。じぇーんじぇん酔ってなんかないわぁ」


「これはひどい……先生、家はどこですか? お送りしますよ」


「うーんだ、今日は一晩中飲むって決めたんだもん。私の夜はまだまだ終わらないわよぉー」


 甘えるように、先生はハインの分厚い胸板に抱き着いた。


「だめだこりゃ」


 しがみつく先生を払うまでもなく、ぼりぼりと頭を掻くハイン。


 冬の足音がすぐそこに聞こえ、朝には水溜まりに氷も張り始める季節だ。このまま放置しておくなど、お人好しの彼にはとてもできなかった。




「ハインさん、お帰りなさ……」


 コメニス書店の裏口から入った屋内の廊下。下宿人の帰宅にたまたま居合わせた書店の娘ハーマニーは寝巻き姿に蝋燭を手にしたまま目を見開いて硬直した。


 当然だろう。ばつの悪そうな顔のハインが、ずり落ちた眼鏡の下でうとうとと眠りかけている若い女性を脇に抱えて帰ってきたのだから。


「ど、どなたですかその女性は!?」


「学校の先生だよ。道で酔いつぶれていたんだけど、家に帰りたくないって言い張るし場所も教えてくれないしで……とりあえず僕の部屋で寝かせるよ」


「ハインさんって思ったより大胆ですね。お持ち帰りって実物初めて見ました」


「そういうのじゃない! というか14歳の君がどうしてそんな言葉を知ってるんだ?」


 そうこう言いながらもハーマニーとハインは見事な連携で先生の身体を持ち上げ、慎重な足取りで階段を上る。ようやく3階のハインの部屋まで運び入れると、先生をベッドに寝かせた。


「果物でも持ってきますね」


 部屋を出たハーマニーにハインは「ありがとう」と返すも、先生はおかまいなしにベッドの上をごろごろと転がり始めた。


「あはははは、ふっかふかのお布団ー」


 これは手に負えんな。ハインは水差しから冷たい水をコップに注ぎそっと手渡す。


 先生はベッドに仰向けになったまま「はい次のグラス追加ー」と弾むような声を上げながら受け取ると、口の端からぽたぽたと水を滴らせながら喉に流し込んだ。


「先生、私は椅子で寝てますからね。何かあったらすぐ声かけてくださいよ」


「先生なんて呼ばれるほど偉くないわよー、私はただの学会のいらない子なのよー」


 空になったコップをベッドの上に転がすヘレン先生。すでに焦点は失ってはいるものの、その眼からは言い知れぬ寂しさがうかがい知れた。


「あんなに頑張ったのに……なんで認められないのよぉー、えぐ、ひっく……」


「先生、何かあったのですか?」


「何もカニもエビもないわよ、みんなあんなすごいのに、私だけいつも……うわあああああん!」


 気持ちよく酔っていたかと思えば突如の大号泣。


「困ったなぁ……」


 ハインには何が何だかさっぱりだった。


 ただわかったのはよほど辛いことがあったというだけだ。今はとにかく先生の酔いが醒めるのを待つしかない。


 そう考えながら自分も水を飲もうと水差しに手を振れると、中はちょうど空っぽになっていた。新しい水を汲みに行こうと部屋を出ると、ちょうどハーマニーが手にリンゴと包丁を持って階段を上がって来ていたところだった。


 いまだ部屋から漏れ出る先生のすすり泣く声に、ハーマニーは足を止めじっとハインを睨みつけた。


「ハインさん、レディはもっと丁寧に扱うものですよ」


「だからそういうのじゃない!」

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