第三章 その7 おっさん、回復術師を目指す

「イマヌエル、イマヌエル!」


 執事に抱きかかえられたイマヌエル公子は顔色青くぐったりとしている。


 エレンはすがり付くように息子の名を呼ぶが、指先ひとつ動く様子もない。


「急いで回復術師を呼べ!」


 食堂脇のサイドテーブルに公子を寝かせ、執事は吠えるように命令した。


「心臓の音はどうです?」


 使用人たちが慌ただしく走り回る中、ハインは大声で尋ねる。だが執事には「早くしろ!」と怒鳴るだけで聞く耳を持たない。


「イマヌエル公子、お目覚めください!」


 執事は眼を血走らせながら公子の白くなった頬を何度もきつく叩く。


 見てはいられないとハインはまたも口を挟んだ。


「あの、身体を逆さに――」


「部外者は黙っていてくれ!」


 だが雷鳴のような執事の一声に黙らされてしまう。


 しかし脇にいた伯爵夫人はハインの物言いたげな表情に一縷の望みを見いだした。


「ハイン、どうにかできる方法を知っているの?」


「はい、川でおぼれた時の蘇生法に心当たりがあります。成功する可能性はわずかですが」


 これは天啓か。藁にもすがる思いだった。


「お願い、ハインに任せてあげて!」


 エレンは涙目で執事の顔を覗き込みながら懇願した。


「ですが奥様……」


 これには堅物の執事もさすがに戸惑う。屋敷の使用人を統括する立場として、大切な公子を回復術師でもないこんな男に託すなど簡単には了承できない。いくら伯爵夫人の頼みでも、公子の安全を考えれば一刻も早く回復術師に診せるべきなのだが。


 だがちょうどその時、「イマヌエル!」と鬼気迫る声とともに食堂に慌ててひとりの男が駆けつける。


 ブルーナ伯爵だ。付き合いで昼間のパーティーの後近くの貴族の屋敷に呼ばれていたのだが、帰宅するなり息子の状況を聞き魔動車から飛び降りて走ってきたのだ。


「あなた、ハインがイマヌエルを助けられる方法を知っているって!」


 息を切らす伯爵にエレンが飛びつき、涙ながらに訴える。


 テーブルに寝かされた公子に立ち尽くすハインと執事を見て状況を察し、伯爵は一瞬黙り込む。


「本当に……助かるんだな?」


 そして静かに、噴出する何かを必死で押さえ込むように尋ねたのだった。ハインは「はい」と頷きながら返した。


「可能性があるとだけ。私の知る限り5人中助かったのは2人です」


 じっと聞き入る伯爵。だが数瞬の後、確かに呟いたのだった。


「……頼む」


 エレンの目からさらに涙が溢れた。


「ありがとうございます!」


 そう言いながらハインは公子の足を掴み、逆さづりにする。


 執事たちは目を丸くして驚くが、これは溺れた人間を助けるのによく使われる方法だった。大人ならロープを足に括り付け木などにひっかけてつるし上げるが、公子は子供で身体も小さくさらに溺れてから相当の時間が経っているのでそのまま逆さにする。


 そして何度も激しく上下に振るう。公子のだらんと垂らした腕が頭が、激しく揺さぶられる。


「うまくいけば水を吐き出します」


 生まれたばかりの赤子が泣かない時のように、たまに背中も叩く。


 だがそれでも公子はぐったりしたまま、ただ重力に従って身体を揺らすだけだ。


「早く、早く吐き出してくれ……!」


 懸命に思い付く限りの処置を繰り返すも一向に好転しない状況に、誰もが焦りを隠しきれなかったその時だった。


「回復術師が来ました!」


 召使いの声に部屋が沸き立つ。屋敷近くの病院から初老の回復術師が駆けつけたのだ。


 回復術師は部屋に入るなり公子を寝かせ、その小さな胸にそっと手を添える。


 そして力を込めた瞬間、公子の口から間欠泉のように水が吐き出された。術で肺を圧迫し、たまった水を吐き出させたのだ。


 おお! と歓声に包まれる。これであとは息を吹き返せば安心だ。


 だが公子は動かない。青白くなった頬をいくら叩いても指先ひとつ震えない。


 召使たちがどよめく。エレンも喉の奥が完全に乾き、声さえも上げられない。頭をよぎった最悪の予感、受け入れるべきなのに受け入れたくないと、激しく呼吸を繰り返していた。


 しばらくの間回復術師は別の術を施すなどして蘇生を試していたものの、やがて添えていた手をだらんと垂らして神妙な面持ちでゆっくりと振り返ると、重々しくこう呟いたのだった。


「お気の毒ですが……公子は既に亡くなられています」




 翌日、公子の葬儀はしめやかに執り行われた。


 ハインら職人たちは重苦しい空気に包まれた屋敷を静かに去り、伯爵は葬儀から帰るなりお披露目したばかりの噴水を潰すよう召使に命じた。その命令は即日実行され、職人たちによる渾身の彫像はたちまち粉々に砕かれたのだった。


 伯爵家の跡継ぎの突然の死は広く報じられ、領民は皆嘆き悲しんだ。その年はあらゆる祭事が自粛され、領地全体がまるで葬儀会場のように意気消沈した。


 それから数ヵ月。伯爵領でもようやく悲しみを乗り越えようという機運が高まっていた頃、久々にエレンの下をハインが訪ねてきたのだった。


「ハイン、お久しぶり」


 伯爵が留守とはいえ、大々的に招き入れるのは気が引ける。エレンは心を許せる使用人数名だけで来客用の部屋を準備し、小さな机で対面して紅茶を飲んでハインを迎えた。


 最愛の息子の死にエレンは心ここにあらずの状態で、しばらくの間誰とも口を利かなかった。しかし最近になってようやく笑顔も作れるようになり、他人の会話にも耳を傾けられるようになった頃合いでハインから久々に会いたいと手紙が届いたのだ。


 まだ外に出るほどの気力は無かったため、日時を指定して屋敷に来るよう返事をしたところ、その時刻ぴったりにハイン訪ねてきたのだった。


 喪服姿ではなく庶民としては一張羅のスーツを着たいつものハインの姿にエレンは言いようの無い安心感を覚え、表情を緩ませたのだった。


「エレン様、お久しぶりです。ここ数ヶ月は本当に苦しかったでしょう」


 そう言いながらティーカップを手に取るハインの目線は、さっきから室内をちらちらと忙しなく動き回っている。


「少し部屋を出ていてくれない?」


 エレンが命じると使用人たちは「畏まりました」と素早くこの場を去る。


 さあ、これで邪魔はいなくなった。互いに本心をさらけ出す準備が整い、エレンは両肘をついてハインに顔を近づける。


「ハイン、今日は一体どんな用事で?」


「前から考えていたことがあるんだ。今日はその決心をエレンに聞いて欲しくてここに来た」


 カップを置きながら話すハインの声は、優しさよりも頑固さ、揺ぎ無い決意を感じさせた。


「石工として働いてきた今まで、僕は何人も仲間を失った。石像を作る際の転落事故、建造中の建物の崩落……採石所の坑道が崩れたときは数十人が生き埋めになったこともあった」


 まっすぐにこちらを見つめるハインの瞳を、エレンはじっと見据えて耳を傾ける。頷くことも相槌を打つことも無い。しかしその眼だけで互いに心の底から話を聞いていることを表明していた。


「その度に思うんだ、僕にもっと力があればって。応急処置を施しても間に合わなかった時もあれば、回復術師に診せてもどうにもならなかったこともある。そんな時にもしも僕にもっと知識と技術があったら、救えた命があったかもしれないって後悔してしまう。だから僕は応急処置と民間療法の方法をとにかく吸収した。職業集団ごとに伝わる様々な方法を知り合いやギルドを通じて尋ね回り、ノートにまとめたりもした。でもこれだけでは完治までは至らない、高度に体系化された回復術に比べれば、薬草を知っているから何だ、というのが現状のレベルだから」


 ハインは握りしめた拳を震わせる。失われた多くの命を思い出し、発作的に激情が沸き起こったのを必死でこらえているようだった。


 やがて震えも落ち着くと、改めてエレンの顔を見つめ直す。戦いに赴く騎士のような、勇ましい瞳だった。


「だから僕は決めたんだ。僕自身が回復術師になって、救える限り多くの人々を救っていこうと。そして民間の技術と回復術を併用した療法を開拓したいと。できれば各地の民間療法も一冊の本にまとめたりして、より広く知ってもらいたい。怪我や病は人間なら誰しもが恐れる身近なものなのに、回復術師に頼らざるを得ないこのおかしな状況を、僕の生涯を賭けて少しでも良いものに変えたいんだ!」


「素晴らしいわ、ハイン」


 今にも立ち上がらんと強く言い放つハインを、エレンはあふれる涙をぬぐいながら讃えた。


 話題にはしなかったものの、ハインの決意はイマヌエル公子の死によって後押しされたのはエレンも理解していた。おそらくは以前より漠然と思っていたことがあの事故をきっかけに明確な決意へと変容したのだろう。


「でも……その前に問題があるわ」


 声色を落ち着かせ、エレンはハインと向き合う。ハインも襟を正すようにこちらを見つめ返した。


「回復術は魔術の中でも特殊な技術、さらに人体に直接術を施すのだから特別な教育を受けなくては使用は許されない。あなたは今から学校に通う必要がある。それに回復術師は志望者も多いのよ、どこの学校でも入学は難しいわ。小さい頃から勉強漬けの子達があなたの相手なのよ」


 先ほどまで饒舌に話していたのとは打って変わって、ハインはじっとエレンの話に聞き入っている。


「そして何より……学術の世界は思った以上に排他的よ。自分たちと異なる考えの持ち主は排除されてしまうのが通例。特に回復術師は国の承認を得ないと認められない独特な分野、政治的な権力とも密接に関わっているはずよ。そこに挑むとなれば茨の道どころの苦難ではないわ。特にあなたのような学齢期をとっくに過ぎたような大人には」


「だからこそ僕は人生を賭ける。幸いにも蓄えはあるから、仕事を減らしても問題はない」


 ハインは強く言い切った。そんなものがどうした、と言いたげな強い意志と自信にあふれたまっすぐな瞳に、伯爵夫人もそれ以上止めることはできないと観念せざるを得なかった。


 この人には夢を叶えてほしい。そして我が子のような悲劇をもう二度と繰り返さないためにも。


「ねえ、その夢、私にも協力させてくれない? 叔父がちょうど王宮で務めているから、良い情報を教えてくれるかもしれないわ」


 その後、ハインは伯爵夫人のバックアップの下、仕事の傍らで入学試験の勉強に励み続けた。語学に数学、魔術理学に魔術工学、さらには貴族階級ならば嗜んでいる社会常識までその分野は多岐に渡った。


 そして7年、彼は王国最難関の回復術師科を擁する王立魔術師養成学園に入学を果たしたのである。




「まさかそんなことが……」


 目頭を指で押しながらマリーナが俯く。他の女子たちも口にはしないが皆嗚咽を漏らしている。


「良い話を聞かせてもらいました。本にまとめたいほどです」


 放浪の貴族レフ・ヴィゴットも懐からメモと鉛筆を取り出し凄まじい速さで文字を書き連ねている。さすがは文筆家、思いついたことはすぐに記録できるよう常に準備をしているようだ。


「ええ、でもよかった。あなたたちがハインと仲良くやっているようで。これからもよろしくね」


「はい、もちろんです!」


 伯爵夫人もマリーナたちもにっこりと笑う。


 ずっと気になっていたハインの過去について、そして伯爵夫人との関係が決して不純なものでなかったことを知れたことでマリーナはこの場に居る誰よりも安心していた。


 だがその時だった。突如若い男の召使が慌てて駆けつけてきたのだった。


「奥様、国王軍の兵士です!」


 伯爵夫人が「ええ!?」と声を上げる。予期せぬ客人のようだ。


「そんな、どうしたの突然!?」


 伯爵夫人は立ち上がりながら詰め寄る尋ねると、召使は目を背けるように言うのだった。


「それが、先日の王都大聖堂の立てこもりの件ですが……ブルーナ伯爵家に共謀の疑いがあると」

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