第三章 その6 おっさん、回想回に出番を失う
「そんな、ハ、ハイン!?」
「え、エレンお嬢……様!?」
唖然と顔を見合わせ固まるふたり。ハインに至っては持っていた工具を足元に落としてしまっても、拾うことにさえ頭が回らなかった。
作業の進捗を覗きに行った際、職人たちが作業に打ち込むその真ん中で伯爵夫人エレンとハインは偶然の再会を果たしたのだった。
10年の時の流れのおかげで、ふたりともかつての見た目とは大きく変わっている。それでも互いに顔を見合わせただけで一瞬でわかってしまったのは、最早心の奥底で常に再会を望んでいたから、としか言いようがない。
日中の仕事が終わった後、伯爵夫人は石工の親方を通じて密かにハインを呼び出した。
伯爵もいる手前、会う場所は屋敷の中ではなく日よけのため庭園の隅に作られた
「お久しぶりです、ブルーナ伯爵家に嫁いでおられたとはまったく存じておりませんでした。お元気でしたか?」
「ええ、身体は至って元気よ。子どもも無事成長しているわ。でもまさかこの領地にいたなんて、何でずっと気付かなかったのかしら」
「実は10年ほど前から東の山地から良い石材が産出されまして、王国中の石工が集まっていたのです。私も新たな石材を探すために山に籠ったり、親方の下で修業に励んでいる間にこんな年齢になって、ようやく一人前として認められました」
「そうだったの。私がここに来たのは5年前だったから、領地での生活はハインの方が先輩ね。どう、読書は続けてる?」
「はい、もちろん。山に籠っている時は本も読めないですが、大きな町にいる時は暇さえあれば図書館や書店に通っています。この前は珍しい博物学の書を見つけて、遠い異国の植物について興味深く知ることができましたよ」
「そう、それは良かった」
月明りの下、久々の再会に会話も弾む。話したいことが多すぎて、何から話せばよいのかわからないほどだ。
「奥様、どこに行かれたのです?」
だが屋敷から響く召使の声に、引き戻された伯爵夫人は慌てて立ち上がる。
「あらいけない。ねえ、また明日ここに来てくれる? 10年分、話したいことがたくさんあるのよ」
「ええ、もちろんです」
そう約束を交わし、ふたりは各々家路についたのだった。
約束通り、その翌日にもふたりは四阿でひと時のふれあいを楽しみ、また翌日も、さらに次の日も、と陽が沈んでからの逢瀬を重ね続けたのだった。
当然、伯爵夫人という身分、肉体の関係が無かったことは断言しておく。だがそれでも一連の出来事はたちまち伯爵の耳に届くこところとなり、ある夜伯爵は寝室で妻を問い詰めたのだった。
「お前、ここ最近夜に屋敷を抜け出しているようだな」
「ええ、夜の風に当たりに」
鏡台の前で長い髪をとかしながら伯爵夫人は素っ気なく答えるが、伯爵は「嘘をつくな!」とヘアブラシを取り上げたのだった。
「知っているぞ、石工の男と逢い引きしているのだろう。この
まくし立てる伯爵に、じっと睨みつけたまま聞き入るエレン。だが一通り怒鳴り散らして間を置くや否や、ここぞとばかりに言い返す。
「その言葉、そっくりお返ししますわ。私に伯爵夫人としてふさわしい振る舞いをお求めなさるなら、どうか人の上に立つ主として民衆に、そして家族に愛を注いでください」
「私はお前を愛している! でなければ既にお前が顔から血を流すほど叩いているぞ」
「いいえ、かつての愛はもうありません。であれば夜に私を尾行して、その場で止めていたでしょうに」
そう言ってシルクのナイトキャップを被ると、伯爵夫人はベッドに潜り込んでしまった。
呼びかけても振り向きさえしない妻に、伯爵は返す言葉が見つからなかった。
その後は幼い頃よりお付きを務めている侍従の力添えでハインを正式に屋敷に招き、息子のイマヌエル公子とも母の友人として出会うほどの仲になったという。
「へえ、伯爵夫人やりますね!」
「そうね……妻として私は最低ね」
マリーナは羨ましそうに見つめるものの、伯爵夫人は自嘲気味に俯きながらティーカップの縁をそっと指でなぞる。
お茶会は伯爵の帰宅後も庭先でなくテラスに場所を移して続行していた。
「そんなことはありませんよ。堂々と浮気されているのにこちらは許せだなんて、不平等にもほどがある。本当、あの男はだらしがねえってもんです」
来客であるレフ・ヴィゴットも熱い眼差しを贈る女子生徒に挟まれて茶会に加わっていた。
侯爵家の三男坊である彼は上流貴族相手にも歯に衣着せぬ物言いを繰り出すのだが、そのあまりのストレートさが一種のキャラとして定着し身分を問わず受け入れられている節があった。またこれでも本当に大事なことに関しては口も堅く、諸国を旅して得た見識のおかげで多くの貴族から相談相手として慕われているのだという。
「ありがとう。あの頃の夫婦関係は完全に終わっていたわ。そこにタイミングよくハインが現れて、なんだか久しぶりに私という存在を取り戻せた気分だったの。ただ……その後は大変だったわ」
そして作業は進みイマヌエル公子も4歳を迎えてしばらく経った頃、噴水はようやく完成した。円形の池の真ん中に大理石製の半裸の大地の女神像が置かれ、その周りから水の噴き出す古典的ながらも見事な出来だった。
数日後の昼にはお披露目のために近隣の貴族や大商人を招き立食会が開かれ、ハインたち職人集団も伯爵夫人のはからいで特別に料理を振る舞われた。石工や水道の技術者たちは、普段自分たちの口にしている物とは何段階も上の味覚を大いに楽しんだのだった。
その夜、鳥と虫の声にだけに包まれた庭園の四阿に呼び出されたハインは、いつものように伯爵夫人と夜の談笑を楽しんでいた。
「みんな噴水のことを褒めてくれていたわ、ありがとう」
「いえ、石工としてできる限りのことをしたまでですよ」
「ハインには本当世話になったわ。何かお礼をしたいのだけれど、何がいいかしら?」
「いえいえ、きちんとお代も頂いておりますし、これ以上のことは――」
「そういう意味じゃないの」
突如として真剣な声色に一変する伯爵夫人に、ハインは言葉を切られてしまった。
「小さい頃からずっとハインと一緒にいたから、今日の私があるのよ。じゃないと学校を卒業するまで耐えられたかもわからないわ。これも勉強の楽しさを教えてくれたあなたのおかげ。それに今だって、灰色の生活に久しぶりに色を取り戻してくれたわ」
「伯爵夫人、ですが――」
そうハインが口を開いた途端、夫人は人差し指を立てて強引にハインの口に押し当てる。
「ねえ、もうよそよそしいのはやめましょうよ。最初の頃みたいに、貴族とも平民とも知らない人と人の関係で」
星明りだけが頼りだが、ハインは顔を赤らめているようだった。そして押し当てられた夫人の腕をそっと手に取ると、親愛深く「ああ、エレン……」と一礼したのだった。
伯爵夫人はこの時、久々に心の底から幸福を感じたような気がした。
だがその気分も束の間、屋敷の方から誰かが大声で叫ぶ声が聞こえ、ハインも伯爵夫人もそちらに目を向ける。
「何かしら?」
そう言ってふたりが屋敷に戻ると、召使たちが慌ただしく右往左往していた。
「イマヌエル公子、どちらですか?」
声を張り上げながら廊下を歩く老執事に、伯爵夫人は「どうしたの?」と声をかける。
「夕食の後から公子の姿が見えないのです。お休みになるためメイドが部屋に連れて行ったのですが、その後部屋を抜け出したようで」
「そんな……イマヌエル、どこにいるの!?」
たちまち母親の顔に戻る伯爵夫人。身分など関係なく、メイドや運転手に混じって屋敷内を走り回って公子の名を呼ぶ。
屋敷を挙げての大捜索だった。寝室のクローゼットの中、食堂の机の下、使用人の私室、思いつく限りありとあらゆる場所が調べられる。だがこれだけ探し回っても公子の姿はどこにも無かった。
「だめです、見つかりません」
「地下室も見てきましたが、いませんでした」
玄関に一同が集まり報告し合うも、手掛かりすら無い。まさに八方塞がりだった。
「もう可能性は外に出たとしか……」
召使のひとりがちらりと窓の外の夜闇に目を移す。夜間、玄関や勝手口の鍵は閉めているが、その隙をついて抜け出したとしても不思議ではない。
そしてハインはふと思い出す。作業中、伯爵夫人に連れられて石工たちの働きぶりを見に来た際、形作られていく巨大な噴水を興味あり気にしげしげと眺めていたイマヌエル公子の姿を。
「まさか……執事さん、玄関を開けてください!」
一抹の不安が走り、ハインは叫ぶ。
言われるがままに執事が玄関の鍵を開けると、ハインはすぐさま庭へと駆け出した。
「どうしたんだ!?」
「まさかとは思いますが、公子の御身が危ない!」
全力で庭園を駆け抜けるハインを、使用人たちも必死で追いかける。目指すは完成したばかりの噴水。
そして嫌な予感は的中した。
なみなみと水を蓄えた噴水の池、その水面にイマヌエル公子の小さな身体が浮かんでいたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます