第三章 その5 おっさん、墓参りに行く
クラスメイトも招いた晩餐会の翌日、ハインと伯爵夫人は朝から街外れの墓地へと向かった。
いくつもの墓標が建ち並ぶ中、石碑のように一際大きく目を惹く墓石。この下には歴代の伯爵家の人間が眠っている。
「ここは全然変わらないね」
「墓守がいつも手入れしてくれているもの。感謝しなきゃね」
当主や夫人は個別に埋葬されるため、墓石に刻まれるのは若くして亡くなったり弟など当主の座を継承できなかった者の名ばかり。
その一番下にはつい7年前、4歳にして亡くなった子供の名が刻まれていた。
「イマヌエル……」
墓石の前で立ち尽くした伯爵夫人はじっと目を瞑る。脇に立つハインも同じく黙祷をささげた。
静かな墓地に鳥の鳴き声と風の吹く音だけが響く中、ふたりは微動だにせず今は亡き幼子に思いを馳せる。やがて伯爵夫人がゆくりと目を開くとほぼ同時に、ハインもふうと息を吐いた。
「ありがとう、ここに来るとどうしてもあの時のことを思い出しちゃって。ひとりじゃ辛いの」
そう言って笑いながら振り返る伯爵夫人だが、瞳は死人のように曇っていた。
「公子、お待ちください!」
墓地から帰宅後、広大な伯爵家の庭園にて追いかけっこをするハインとジェローム公子、それに混じるナディアは今日は動きやすい普段着だ。
そんな騒がしい彼らを庭先の円卓で眺めながら、伯爵夫人とマリーナら数名の女子生徒は紅茶を囲んでいた。
「ハインさんとは20年以上ずっと交流があるのですか?」
マリーナがぼそっと尋ねると、周囲の生徒たちも身を乗り出して耳を傾ける。
「いいえ、そうというわけでもないの。実は長い間、会いたくなっても会えなかった時期があったのよ」
エレンを監視していた魔術師により幼い彼女が公爵家の人間であると知らされた後も、ハインは知らぬふりをして彼女と交流を続けていた。
しかしある日を境にがさつなしゃべり方からまるで大切なガラス細工を扱うように態度がコロッと変わったのに、エレンも幼心に不思議に思ったものだった。
やがて王侯貴族の学校に通い、より高度な教育を受けるようになったエレンは学校内での不満や文句をハインに吐き出すようになった。
「ねえ、聞いてよ。ようやく試験が終わったと思ったら、今度は新しく北方王国語の授業が始まったのよ。文法とか全然違うから、前よりもさらに大変になっちゃったじゃないの」
屋敷近くの丘の上に座り込み、頬を膨らます10歳のエレン。
その彼女の隣で本を眺めながら、ハインは苦笑いするのだった。
「良いことではありませんか。新たな言語を学ぶということは、それだけ多くの人々と話せ、多くの書物を読めるようになるのですから。翻訳を介さず文書を読めれば、訳者の仲介を経ることなしに直接著者の意図を汲み取れるのですよ」
「ハインも正論を言うようになったのね」
「正論はどこまでいっても正論ゆえ、正論たり得るのです」
この頃、ハイン自身も学校で習った内容を聞くことができ、いっしょに教科書を読んだり図書館の本のまた貸しを頼んだりして、学校に通わずとも自発的な学習を進めていた。
生まれ持っての素質もあったのだろう、ハインは数学や歴史、さらには自分には使えぬ魔術に関しても多くの本を濫読した。文語体を学んでからというもの、加速度的に様々な書物に触れてその知識を増強させ、思考を深化させたのだった。
特にハインが好んだのは哲学や思想だった。この時もハインは初代国王が提唱した啓蒙主義、すなわち教会の信仰よりも魔術理論に基づく学問の体系化と合理的な人民の統治に関する本を読んでいた。
「よくそんな面倒な本読めるわね」
エレンがハインの本を背中から覗き込みながら退屈そうに言う。
「エレン様、人間は思ったこと、感じたことをうまく言葉にし、他者と共感できないかと悩むものです。ですがそのためには語彙、それに混沌とした思考を分類する術が必要です。哲学者や思想家の著作を読めば、その言葉を借りて自分の内より湧き起こる無限の感情を整理することができるのですよ」
「むぅーん、最近ハインの言うことが難しくなってきてつまらない」
エレンはドレスのまま、ごろんと草の上に寝転がる。
だが彼女にとって、ハインの傍でくつろげるこの時間こそが何よりも至福の時間となっていたことは、決して口に出せなかった。
しかし別れは突然にやってくる。
エレンが11歳になった頃、ハインが親方の都合で王都を離れることになったのだ。いつもは陽気に返事してくれるハインが、その日は重く曇った表情だったのを彼女は鮮明に覚えている。
そしてその日から屋敷の傍の森へ行ってもハインは現れず、3か月以上通い続けてようやく諦めたのだった。
心にぽっかりと穴が開いたような気分のまま日々は過ぎ、やがてエレンは少女から女性へと成長した。ハインのことも幼い日の甘く苦い思い出だと割り切り、そして17歳でブルーナ伯爵家に嫁ぐと2年後には第一子のイマヌエル公子を授かったのだった。
「あれ、ジェローム公子は第一子ではなかったのですか?」
紅茶を片手にマリーナが素っ頓狂な声を上げる。
「ええ、あの子は二人目。上の子は今はもういないの」
「そうですか、お気の毒に」
目を逸らす伯爵夫人余計なことを訊いてしまったと後悔しながら、マリーナは頭を垂れた。
回復術の発達した世界とはいえ、伝染病や生まれ持っての病などで幼くして亡くなる子供は多い。
回復術は自己治癒能力を促進させたり術者の魔力によって病の素を消し去ることは可能だが、それだけではまだ全ての病気を治療することはできず、また重篤な場合にはどうしようもないことも多々ある。
村で同じ年に生まれた子供が7歳まで半分も生き残っていれば、それは十分恵まれている方だと言えた。
「今はジェロームが伯爵家の跡継ぎです。あの子には亡くなった上の子の分も、すくすくと成長してもらいたいわ」
そう言いながら上品に紅茶をすする伯爵夫人も、どことなく寂しそうだ。同じ女性として、子供を失う悲しみは若輩のマリーナたちも痛いほど同情していた。
その時、屋敷から出てきた使用人が足音も立てず近付き、「奥様、伯爵がお戻りです」とそっと言い放つ。
「ええ、もう!? 明後日だって聞いていたのに」
「用事が早く終わったそうです。またヴィゴット様もご一緒だそうです」
「はあ、いつもいつも……急いで家の者を呼びなさい、出迎えます」
頭を抱える伯爵夫人に、マリーナが「伯爵がもうお帰りになられたのですか?」と尋ねる。
「ええ、悪いけどあなたたちも一緒に来てくれない?」
女子生徒たちは「はい」とすぐに席を立ち、玄関へと急ぐ。
既に庭は主人の帰りを待つ召使たちが並んでおり、生徒とハイン、さらにはデュイン公爵もエントランスの一角で伯爵を出迎える。
庭に横付けされた魔動車から降りて来たブルーナ伯爵はきりっとした端正な顔立ちと上品にカールした口ひげの持ち主だった。35歳という年齢ながら若さにも溢れ、社交界でも若い貴族に劣らぬ女性人気を獲得している。
そして続いてもう一人、客人のレフ・ヴィゴットも降り立つ。
彼は侯爵家の三男坊で自由人として各地を旅しているそうだが、小柄な体躯に眠そうな目、貴族とは思えないボロボロの格好をしており一見すると冴えない印象を周囲に与えていた。
「わざわざこんなことをしなくともよかったのに」
伯爵は庭に並んで出迎える召使に荷物を手渡しながら、玄関先の伯爵夫人にぶつぶつと文句を垂れる。
「今日はヴィゴット様もご一緒とお聞きしました。通信用魔道具もあるのですから、ご連絡はお早めに」
「ここは私の家だぞ、いつ帰ってきても私の自由であろう……?」
妻にそう言いかけたところで、エントランスに立つマリーナら回復術師科の生徒を目にし、伯爵はたちまちそちらに好奇の目を向けたのだった。
「あちらの
「一昨日お話ししました、王立魔術師養成学園の生徒たちです。叔父様の教え子ですわ」
伯爵の視線に、少女たちはぺこりと一礼する。
伯爵もついさっきまで文句を垂れていたのとは全く別の穏やかな顔で彼女たちに近付くのだった。
「見苦しい所をお見せして申し訳ない、この領地を治めているブルーナだ、よろしく」
「ええ、お招きくださりありがとうございます」
「心配はいらない。この屋敷は自由に使ってくれてかまわないよ」
にこやかに話す伯爵。その後ろを小柄なレフ・ヴィゴットがそっと近づき、笑いを堪えるようにして言い放つのだった。
「お嬢様方、伯爵の甘い誘いに乗られてはいけませんよ。あの方の女癖の悪さはそれはそれは評判なのですから」
「ヴィゴット、余計なことを言うな!」
「お父様!」
ちょうどそこに息子のジェローム公子も駆けつける。伯爵は公子の頭を撫で、久々の再会を喜んだ。
「ただいま、ジェローム。土産の菓子も買ってきたぞ、後で食べさせてやろう」
そう言って身を屈めた時、伯爵の目と壁際にいたハインの目が合ってしまった。
ほんの一瞬、伯爵はギロリと恐ろしい視線で睨みつけたものの、すぐにぷいっと目を逸らし息子と並んで屋敷の奥へと歩いて行ったのだった。
「やあヴィゴット。久しぶりだな」
「これはこれはデュイン公爵、久々に王国まで帰ってきましたよ。今回は東の国々を訪ねていましたので、収集した耳寄りな話題をお話ししましょう」
元学園長ことデュイン公爵も放浪人のヴィゴットとは面識があるようだ。彼らも屋敷の奥へと進んでいったので、これから男同士酒でも飲みながら話をするのだろう。
「ヴィゴット様って、もしかしてあの?」
エントランスに残された伯爵夫人に、生徒の一人が尋ねる。
「ええ、『ゲルニア諸国旅行記』のあのレフ・ヴィゴット様ですわ」
途端、生徒たちから一斉に「きゃっ!」と歓声が挙がる。
「あの方の本は本当に面白くって、何度も何度も読み返したわ! まさかここでお顔をお目にかかるなんて」
「王国内外の貴族と伝手があって、一所に留まらず各地を渡り歩いているという噂は本当だったのね」
「ええ、主人と仲が良くてよく来られるのです」
笑いながらも、伯爵夫人の顔はすっかり疲れ切っていた。
まさかの出会いに沸く女の子たち。だがマリーナは上流貴族の裏側をのぞき見してしまったようで胸が痛く落ち着かなかった。
「奥様、出過ぎた真似かと思いますが……私たちやハインさんが屋敷にいるのでは伯爵も落ち着かないのではありませんか?」
伯爵夫人に話しかける。自分たちがこのまま屋敷に厄介になるのは相手にも、自分にも居心地が悪いように思えた。
だが伯爵夫人はふっと流すような目で「いいのよ、気にしないで。あの人とはお互い様だから」と言い放つのだった。
すべてを諦め、もうどうにでもなれと半ば自棄になっているようだった。
跡取りにも恵まれ、傍からは幸せの絶頂にあるようなブルーナ伯爵夫人エレンだったが、実際の夫婦生活は決して満たされたものではなかった。
夫のブルーナ伯爵も最初の頃こそ若く美しい新妻を愛でて慈しんでいたものの、やがて飽きてしまった。休日も頻繁に出歩き、夜遅くまで遊び歩いていることが多くなると夫婦生活は完全に冷めたものとなり、加えて公子の子育てや伯爵夫人としての務めにも追われエレン自身疲れ切っていた。
しかし第一子イマヌエル公子が3歳になった頃、彼女は奇跡的な再会を果たす。
当時、伯爵家は庭園の一角に噴水を新設しようと領民に工事を発注した。
そしてこともあろうにその工事に馳せ参じた職人の中に、石工として一人前になっていたハインがいたのだった。
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