第三章 その4 おっさん、晩餐会で過去を晒される
「ええ、そんな偶然で!?」
食堂に招かれたマリーナが叫ぶ。手には前菜の薄切りハムを食べるためのフォークを握っている。
「20年以上も前だなんて、すごくロマンチック」
ナディアはうっとりと陶酔するような瞳を浮かべながらも、手は凄まじい勢いでパクパクと出されたばかりのサラダマリネとハムを口に運んでいた。この晩餐会は一皿ずつ提供されるコース形式だ。
「そうですよ。でもハインったら、この後がおもしろかったのですから」
「伯爵夫人、この話はそれ以上は……」
ハインが弱く割り込むが、マリーナたちが「どんなことがあったのです?」と身を乗り出して尋ねるのでこそこそと引っ込んでしまった。
夫人はふっと微笑み、中空を見つめながら再び話し始める。
「ついに王子は竜のお城に潜入します。助けを呼ぶお姫様。王子は強くて大きな竜を前にしても、1歩も下がることはありませんでした」
晴れ渡る空の下分厚い本を手に持ち、文字を懸命に追って口にする7歳の伯爵夫人ことエレン公女。
その声に聞き入りながら、15歳のハインは呆れたように言い放つのだった。
「文字ばっかり、よくそんな本読めるな」
「べライターに教えられたからね」
「べライター?」
「家庭教師ってみんなは呼んでるわ」
「ふーん、まあいい。続けろ」
「えっと、竜が炎を吐き出します。王子は……王子は……あーん、何て書いてあるのかわからないよぅ」
半分泣き出しそうになエレンに、ハインはついに痺れを切らし「どれ、ちょっと見せてみろ」と本を取り上げる。
だがそのページを目にした瞬間、ぎょっとした顔で固まるのだった。
「何だこれ、お前はこんなの読めるのか?」
「古ゲルニア語だって。書き方は違うけど、読み方はだいたいいっしょ」
そこに書かれていたのはハインの知る言語とはまるで異なる文字体系だった。古ゲルニア語はかつて一部の地域のみで使われていたものの、王国が広域を支配するに当たって徐々に簡略化され、現在主流のゲルニア語へと変化を遂げたのだ。
つまりはハインが普段使っている言語の文語体であり、一般民衆が目にする機会はほとんど無い。詩や格式高い公文書などでは、現在でも好んで用いられることも多いのがこの古ゲルニア語だ。
貴族階級では接する機会も多く子供の内から習うが、平民階級は一度も目にしないまま生涯を終えるのがほとんどだ。
この童話は上流階級の子供向けに古ゲルニア語の入門として書かれたものだった。簡単な読み書きは身に付けているものの、貴族としての教育を受けていないハインには読めるはずもなかった。
ハインは苦虫をかみつぶしたように顔をしかめ、本を乱暴にエレンに返す。
「さっぱりわからん……おいお前、明日またここに来るか?」
きょとんと瞳を丸めるエレン。だがすぐに満面の笑みで「うん、毎日でも来るよ」と答える。
「じゃあ明日同じ時間に俺はここで待っているから、それまでに続きを読めるようになってこい。早く続きを教えろ」
「うん、わかった! ねえおじさん、名前教えてよ」
「おじさんじゃねえ、ハインだ。そう言うお前は?」
「私はエレン!」
「あっはっは、何ですそれ。本の続きが知りたかったからまた来いって、しかも7つの子に……あ、ごめんなさい」
肉汁滴る熱々のミートローフを前に、マリーナはじめクラスメイト達が噴飯もので笑う。
主賓のはずのハインはすっかり小さくなっていたが、伯爵夫人はそれでも容赦なく話を続けた。
それからしばらくの間、ハインとエレンは頻繁に出会い続けた。
エレンが本を読み聞かせ、代わりにハインは木登りのコツや食べられる木の実を教える。年齢も身分も離れているふたりだが、不思議と親しみを感じるものがあった。
そんな日々が続いたある時、ハインの膝の上に座り込んで本を開いていたエレンが何気なく尋ねたのだった。
「ハインはどうして本を読まないの?」
「読まないんじゃない、読めないんだ。エレンはいい所の子だからこういう難しい字も教えてもらえるけどな、俺の周りじゃ自分の名前が書ける奴の方が少ないくらいだ」
渋る顔を見せながら丁寧に答えるハイン。だがエレンは今ひとつ腑に落ちない。物心ついた頃から本に囲まれ、屋敷には立派な書斎も備えている彼女にとっては文字を読まない生活というものが考えられなかった。
「変な話。それじゃ本も手紙も読めないじゃない」
「それでも生きていけるからな。政治だの難しいことはわからん。だから俺たちは腕を磨いて職人として生きているんだぜ」
考え込むエレン。だがしばらくするとぱあっと顔を明らめて「そうだ!」と言いながら本を閉じたのだった。
「じゃあハイン、私が字を教えるから一緒に本読もうよ!」
「……はあ?」
きらきらとした瞳を向けるエレンに、遅れて首を傾げるハイン。だがエレンはおかまいなしにまくし立てる。
「そうなればハインだってもっとたくさんの本を読めるわ! だから色んな遊びをこれからももっとたくさん教えてちょうだい」
ハインがぽりぽりと頭を掻く。
「……まあ、そうだな。退屈しのぎになら付き合ってやってもいいぞ」
「やった、ありがと! じゃあ早速レッスンね。まずはこの字だけど……」
早速手近な木の棒を拾い、土の上にガリガリと文字を書き始めるエレン。ハインはそれを覗き込み、ふむふむと頷く。
こうして青空の下、7歳の講師と15歳の生徒による授業が始まったのだった。
「なるほど、そうやってハインさんは古ゲルニア語を習われたのですね」
ナディアがマスのムニエルの最後の一口を名残惜しそうにゆっくりと口に運びながらしみじみと話す。
「あんた、さっきから本当に言動が一致してないわね」
終始食べるペースを一切落とさなかったナディアに呆れながらマリーナが言い放つ。だがナディアは耳に入っていないようで極上のマスの身を感慨深げに噛みしめていた。
「まあ、所詮子供の教えることだからちぐはぐだったけど、基本的な読み方は身に着いたよ。おかげで町の本屋で自分からいろんな本を買って読むことができるようになったし、物語だけじゃなくて政治や学問についての本を読むこともできた。あの時に伯爵夫人と出会っていなかったら、今の僕は無かっただろうね」
「でもハインさん、相手がいくら小さな子供でも公爵家の令嬢だなんてばれたら大変なことになったんじゃ?」
「もちろん、ばれてたさ。ひとりで抜け出しているようで、ずっと監視の魔術師が傍にいたらしい。1年ほどしてから公爵家のお嬢様だって知った時には口から心臓が飛び出るくらい驚いたよ」
「私もそれを知ったのは随分と後のことでした。ですが広く色々なものを見てほしいという父の教育方針のおかげで、ハインと出会っているのも黙認されていたようです」
つまり彼らの密会も、すべて大人はお見通しだったというわけだ。
もしもハインが良からぬことを企む悪漢で、幼いエレンに手を出そうものならすぐさま公爵家お抱えの魔術師によって消し炭にされていただろう。
そんなことにならなくてよかったとマリーナが密かに安堵の息を漏らしていると、手に食器を持った男性の召使たちが整列しながら食堂に参上する。
「皆様、デザートにパンケーキをどうぞ」
そして各人の前に手早くプレートを並べる。
ジャガイモを生地に練り込んだこのパンケーキ自体は小振りなものの、各種ベリーを混ぜ合わせた酸味の利いたソースをトッピングし、さらに冷たいメレンゲのアイスまで添えられている。
アイスを作るための冷却魔術は熱エネルギーを操る高度な魔術であり、卓越したお抱えの魔術師がいないと実現できない。これは伯爵家が優れた人材を養っていることも意味していた。
だがまだ若い女子生徒たちにとって、大事なのはそんなことよりもデザートそのもののようだ。
「冷たくて美味しーい!」
「私も貴族のお屋敷に生まれたかったなぁ」
珍しいアイスを賞味し、次々と賛辞を贈る。
「こんなにご馳走になってしまって、今日は本当にありがとうございます」
マリーナが改めて礼を言う。彼女も男爵家の娘ではあるが、父は平民から叙勲されたいわば成り上がり貴族だ。礼儀作法は一通り身に付けているものの、高級な晩餐会や舞踏会に呼ばれることは滅多にない。
同じくアイスを味わっていた公爵は笑いながらうむうむと頷く。
「なになに、かわいい教え子のためならなんてことない。何ならほれ、この屋敷を自分の家だと思って自由に出入りしてもいいぞ」
「まあ叔父様ったら。でも私も皆様とお話しできて楽しかったですわ。ここにいる間、いつでも気軽にお立ち寄りください」
「それではお言葉に甘えて、またご厄介になりますね」
晩餐会も終わり、女子生徒たちは魔動車に乗せられてマリーナの伯父の家へと送られる。
「そうか、あんな過去が……敵わないな」
ずっと笑顔を絶やさなかったマリーナは魔動車に乗り込むなり、ずんと沈んだように俯いていた。
ようやくハインへの好意を自覚し受け入れることができたと思ったら、自分よりもはるかに彼にとって縁深い相手がいたことが判明したのだ。憧れとも嫉妬とも似ているようで異なる敗北感に、マリーナはすっかり打ちのめされてしまった。
生徒たちはひどく落ち込む級友にどのように声をかけてよいものかわからず、黙り込んでいた。
だがナディアは口に手を当てたままじっと考え込んでいるかと思えば、突如口を開いたのだった。
「でも、どうしてお二人の関係が今でも続いているのかしら?」
マリーナがはっと頭を上げる。それにつられるかのように、他の女子生徒たちも口々に話し始める。
「そうねぇ、いくら付き合いが長くても、貴族と平民があんなに堂々と出会っているなんて不思議だわ」
「きっとその後にもいろんなことがあったのよ」
そもそも今日知れたのは20年以上前の話だ。それ以降もふたりの交流がなぜ続いたのかは聞かされていない。
「第一、伯爵夫人はもうご結婚されていて、お子様までいるのよ。いくらおふたりがお似合いだからって、結婚は絶対にできないじゃないの」
ナディアの一言にマリーナは「ええ!」と力強く頷く。
「これは……もっと探ってみる必要がありそうね」
彼女の目には炎が宿っていた。ハインの過去を知り、自分のつけ入る隙を何とでも探さんと対抗意識に燃え滾っている。
その隣のナディアは火の点いた友人を応援する一方、妙に瞳を輝かせていた。
「ナディア……あんたやっぱりマリーナで遊んでいるだけでしょ」
級友の耳打ちにもナディアは「さあ、どうかしらねー」と明後日の方向を向いてとぼけるのだった。
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