第二章 その3 おっさん、疑われる
フレベル学科長はハイン・ぺスタロットの入学に関して何か裏があるのではないかと疑っていた。
本来ならば彼は受験自体できなかったはずだ。
入学願書が送られてきたとき、回復術師科の教員は皆無言で首を横に振って棄却文書ファイルに放り込んだ。
しかしどこで聞きつけたのか、デュイン学園長から直々に「学則にも受験年齢制限は記されていない」と叱責を受け、それならばせめて受験だけでもと受験票を送り返したのだった。
もう歳も歳だ。この試験のために何年もかけて勉強してくる頭の柔軟な若い学生が相手では、どうせ合格は難しいだろうと誰もが高を括っていた。
だがハインは合格してしまった。それも志願者413人中3位という文句なしの好成績で。
フレベル先生は点数を弄ってでも不合格通知を送るべきだと学園長に掛け合ったものの、学園長の答えは一貫して「何者も彼の入学を断ることはできない」というものだった。
しかしそれ以上に大きなわだかまりを、フレベル先生はずっと感じていた。
ハインを一目見た時から、どういうわけか初めて出会った気がしないのだ。
初めて聞く名前であるし、そもそも貴族である自分が平民と関りを持つ機会は学園以外では限られている。それなのに入学式でハインと出会って以来、その姿をどこかで見た覚えがあると心の奥底に引っかかりを抱え続けている。
それがなぜなのか、彼には皆目見当がつかない。とはいえ入学を一度許可してしまった以上、ハイン・ぺスタロットも生徒であることに変わりはない。納得はできないが、学内では教員と生徒の関係で接しなければならないのだ。
ハインたちが初めての総合魔術実践の授業を終えたその日の午後のことだった。
300人近くが収容できる階段状の講堂で、フレベル学科長は巨大な黒板にチョークを走らせながら声高らかに講義を行っていた。
聴講するのはこの座席数をも埋め尽くす学生たち。彼らは試験勉強のため一言も聞き漏らすまいと、耳を傾け必死にノートを取る。
「150年前の建国以来、我が王国がそれまで一般的であった教会中心の政治体制から脱却し、魔術理学を頂点とした学術研究を基盤とする啓蒙主義に移行したことは皆様もご存知の通りです」
これは必修の王国史の授業だ。この授業は回復術師科だけでなく軍用魔術師科に魔術工学技師科と学園の1年生が全員同時に受講していた。
フレベル学科長は魔術生理学の高名な研究者であると同時に歴史の研究でも名を馳せている。まるで異なる分野を両方とも修めている人物は珍しく、学界において彼の名を知らぬ者はいない。
「この世の出来事はすべて神の意志に従っているという従来の考えを改め、人間の理性をもってこの世を支配する法則を解き明かそうとするものです。優れた魔術師であった初代国王フランシス陛下はすでに確立され始めていた魔術の理論を基盤として、あらゆる学問を体系化するよう命じました。その甲斐あって魔術工学や魔術生理学が発展し、今日の回復術や軍事魔術の普及につながっているのです」
「先生、よろしいですか?」
学生たちがペンを走らせる中、ひとりの女子生徒が手を挙げる。
回復術師科のナディア・クルフーズだ。
「何ですかな?」
抗議を中断され機嫌を曲げながらも、フレベル先生は肩の長さで切りそろえた茶髪のナディアに向き直った。気になることがあればすぐ尋ねるよう最初に言ったのは自分自身、発言に責任は持たねばならない。
「現在の王国は魔術で大いに発展しました。ですがはるか昔、人類は薬草や火薬などを使い、文明を発展させてきたともお聞きしています。そういった魔術を介さない技術はここ400年ほど停滞していますが、それらの自然科学に関しては現在どのように扱われているのでしょうか?」
講堂がどよめいた。
こいつは何てことを言うんだ?
自然科学のことを尋ねるなんて、あり得ない。
生徒たちが口々に話し出すも、先生が「静粛に!」と一喝した途端嘘のように静まり返った。
「ナディア・クルフーズ君、君はすこぶる優秀だ。しかしいささか浮世離れしているようだな」
フレベル先生はきょとんとした顔のナディアを嘲笑いながら続けた。
「自然科学が文明の基盤を作ったのは事実だと認めよう。だが魔術が自然科学の限界を超えている現状では、自然科学など単に技術の穴埋めにしかならないのだよ。薬草の知識は回復術に、冶金や機械は魔術工学にとより効率的な学問に移行し、最早今日ではその技術も時代と共に廃れようとしている」
「ですが薬草の知恵は魔術ほど効果は見られないにしろ、魔術の使えない人々にとっては決して役に立っていないとは言い切れないのではないかと思います。それならば今にも消えんとするその知識や技術は、なぜ大学では研究されないのでしょうか?」
フレベル先生は聞こえないよう小さく舌打ちをした。
この娘はハインに感化されている。先日の応急処置を目の当たりにして、魔術の万能性に疑問を抱き始めたのだろう。
フレベル学科長は推察し、この娘を黙らせなくてはと勿体ぶって尋ねた。
「これ以上自然科学を研究したところで、社会の発展につながると君は思うかね?」
「わかりません」
即答。それも予想外の答え。
今までも似たような質問をしてくる生徒は何人かいたが、彼らはいずれも答えに詰まりながらも「はい、そうです」と答えるばかりだったので、徹底的に論破してこれた。
だが彼女のような回答は初めてで、先生の思考は一瞬止まってしまった。
「というのも突き詰めた先に何があるかは研究してみなくてはわからないからです」
ナディアはさらに続ける。
「これまでにも回復術の研究者が発表した論文が意外な形で軍用魔術に応用されるなどの実例もあります。そもそも多くの学者が研究に没頭した動機も、社会の発展のためだけでなく単にその分野を究めたかったから、知的好奇心の発露として研究論文が産み出されたのではないかと思います。自然科学もまだまだ研究の余地はあるはずです。自然科学の限界というのも、人間が設けた一種の思い込みではないでしょうか?」
「クルフーズ君、黙りたまえ!」
叫びにも似た怒号。ナディアは「ひっ」と小さな悲鳴を上げて固まった。
「大学に通ったこともない君が学術論を語るなど不愉快だ。今回は許すが、以後慎むように」
あまりの剣幕に口ごもるナディア。
周囲の生徒たちはこの世間知らずの少女を憐れむ。しかし同時にいけ好かない学科長の大人げない姿を見させてくれたことに心の中で拍手を贈っていた。
「ふう、本当に憎たらしい。何も知らない田舎娘が……ん? 君、ちょっと待ちたまえ!」
授業後、フレベル先生は自室に戻る最中、廊下で見かけた生徒を呼び止めた。
こそこそと周囲を窺いながら歩いていたその生徒は、背後から声をかけられたのでビクリと身を震わせると、恐る恐る顔を向ける。
互いに顔を見合せ、驚いたのはむしろフレベル学科長の方だった。
「軍事魔術師科のフレイ君じゃないか。こんな所でどうしたんだい?」
フレイは無言のまま、その端正な顔立ちでじっとフレベル先生を睨む。成績優秀で品行方正な彼は模範生として教員の間でも名が知られていたが、このような顔を教員に向けたことは未だかつて無い。
そんな彼の手にした木箱とその中身を見て、フレベル先生はさらに仰天した。
「解呪の腕輪じゃないか、何故君がそれを。ヘルバール先生に取ってくるよう言われたのかい?」
そこでようやくはっと気付く。だがフレイは容赦しなかった。
「傲慢な魔術師に制裁を!」
フレイは木箱を床に落とし、素早く腕を突き出す。緑のローブから覗いた手首には、黒光りする解呪の腕輪がはめられていた。
直後、フレベル先生の身体が後ろに吹き飛んだ。猛牛の突進を真正面から受けたような衝撃がフレイの掌から胸元に伝わり、砲弾のごとく弾かれてしまった。
「ぬわ!」
壁にしこたま頭をぶつけ、激しい痛みに立つこともできない。
「ま、待て……」
カツラがずれ、血の筋が頭から伝う。だがフレベル先生は薄れゆく意識の中、木箱を拾って慌てて走り去る男子生徒に手を伸ばし続けたのだった。
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