第一章 その4 おっさん、人命を助ける

「マリーナ!」


 少女たちは転落した級友の名を叫びながら崖下を覗き込んだ。


 だがいくら叫んでも、マリーナは泥に汚れた地面に仰向けで倒れ込んだままピクリともしない。


 駆けつけたいところだが、ここは土がむき出しの急斜面だ。彼女たちに降りることはできない。


「あわわわわ、どうしましょう」


 パーカース先生は混乱で呂律も思考も回っていない。


「魔術師さん、どうにかしてください!」


「ど、どうにかって言われても、この高さじゃ魔道具が無けりゃどうしようもねえ」


 生徒たちは運転手の魔術師に詰め寄るが、一運転手である彼らはこのような状況に使える魔術を身に着けていない。魔術のエネルギーを動力に変換する魔道具がなければ力を発揮できない。


 そもそも魔道車の運転は高度な技術を持たなくとも魔術師ならば比較的簡単に身につけることができる。回復術師のような専門性の高い職業を目指さない場合、定員無制限の一般魔術師認可学校を1年かけて卒業すれば魔術の使用を許可されるのだ。


 彼らは一般魔術学校の卒業生であり、いわば魔道具を用いる権利を得ている点以外では他の平民と大差ない。


「先生、通信魔法は使えますか!?」


 鬼気迫る表情でナディアが尋ねると、パーカース先生はようやく落ち着きを取り戻した。


「ええ、学園なら」


 と泥に濡れた裾からオーブを取り出す。これは対応するオーブと連絡を取り合える魔道具だが、かなり高額なので大商人や王侯貴族しか所有できない代物だ。それを教員全員に配布している王立学園はさすがの資本力と言ったところか。


「こちらパーカースです。土砂崩れで生徒が1名……マリーナ・モンテッソーリさんが崖下に転落しました! 大至急、各所に連絡をお願いします」


 声を荒げて学園に連絡する先生からは少し離れ、ハインは崖の縁に座り込んでじっと下の様子を窺っていた。


「旦那、ロープはあるかい?」


 唐突に尋ねられ、運転手は戸惑いながらも「ああ、あるぜ」と答える。別の荷台を牽引するためのロープは常に携行しているのが運転手の心得だ。


「使わせてくれ、なんとかなるかもしれない」


 そう言ってゆっくりと立ち上がるハインに、女生徒たちはどよめいた。


「ハインさん、何をするのです?」


「彼女を引き揚げよう。僕が降りるから、みんな手伝ってくれ!」


 運転手からロープを受け取りながらハインが言い放つと、生徒たちは叫びにも近い声でざわめき立つ。


「そんな、危険です! 先生が今連絡しましたから、助けが来るのを待ちましょう!」


 ナディアがハインに駆けつけて腕をつかんだ。


 だがハインはその腕を払うこともなく、手にしたロープを手近な木に括り付けたのだった。


「僕は元石工だ。もっと深い山に入って、自分よりずっと重い石を掘り出して、かついで持って帰ったこともある。女の子一人くらい石材に比べれば屁でもないさ」


 話しながらロープのもう片方を自分の身体にくくり付けると、ハインはにかっとナディアに笑いかけた。


 その堂々としたハインの態度に何も言い返すことができず、ナディアは下を向いて静かに手を放した。


 いつしか生徒たちは皆黙り込み、ロープを使って崖下に背を向けるハインを見守っていた。


「降りるのはなんとかなる。ただ上がるときはみんなでゆっくりロープを引っ張ってくれ」


 そう言うとハインは土の剥き出した斜面に足を貼り付け、肩に巻いたロープを少しずつ足しながら徐々に徐々に崖下へと降り始めた。


「すごい……」


 彼の巨体からは想像もできない器用な芸当に、誰もが口を開けていた。


 ハインはあっという間に崖下にたどり着くと、倒れたマリーナに駆け寄る。


「マリーナ、無事か!?」


「うう、ここは……いたたたたた!」


 目を覚ました途端、マリーナは顔を歪めて叫んだ。ブーツが脱げ、むき出しになった左脚が血と泥で汚れている。


「ひどい怪我だ、骨が折れているかもしれない」


 様子を見るなりハインはマリーナから離れ、近くの木の枝をぽきりと折ると再び彼女の傍に戻る。


 そして直後、自分の着ていたシャツの袖を思い切り破き始めた。


「な、何をしてるの!?」


 今ハインの着ているシャツは胸元に校章の刺繍された特別品で、魔術師養成学園の生徒である証だ。そんな権威と名誉の象徴を躊躇せず破く姿に、マリーナは痛みに襲われながらも戸惑った。


「今のままじゃすぐに悪化する。こうして脚を固定すれば治りも早くなるし、痛みも少しは和らぐよ」


 そう言ってハインはてきぱきと添木を作り上げた。マリーナの左脚を膝から足首までしっかりと縛ると、言うことを利かない足の痛みも幾分か楽になった気がする。


 そしてハインは自分を縛るロープを素早く解くとマリーナの身体を背負い、自分と彼女の身体を強く縛る。


「うう……」


 不本意ながらハインの大きく固い背中に押し付けられ、マリーナは小さく唸った。


 だが彼の背中からはかつてよくおぶってもらった父親の背中と同じ温もりを感じ、心なしか脚の痛みも和らいだ気がする。


「さあ、もうしばらくの辛抱だ。みんな、引き上げてくれ!」


 大声で崖の上の生徒たちに呼びかけると、生徒たち18人と先生、それに運転手2人は崖下のハインとつながったロープを握った。


「イチ、ニの掛け声で引っ張るのよ!」


 ナディアの提案に全員が頷き、すぐに「イチ、ニ!」の掛け声とともに綱引きの要領でふたりの身体を引っ張った。


「いいぞ、その調子だ!」


 ハインも降りてきた時と同様、足の裏で斜面を踏みながら少しずつ上る。


 背中のマリーナは持てる力を振り絞り、揺れるハインの背中にしがみついていた。


「ハインさん、どうして……私、あんなにひどいことしたのに」


 中腹まで差し掛かった頃、マリーナが小さく尋ねる。


「何を言ってる。助けられる人がいるなら助ける、それだけだよ」


 振り返ることもなく、ハインはただひたすらロープを手繰り崖を上り続けていた。


 その時、マリーナの眼に涙がじわりと浮かんだ。気丈な彼女の眼から涙があふれるなど、何年振りのことだろう。


「マリーナ!」


 ようやく崖を昇り終えた二人に皆が群がる。だがハインは素早くロープを解くと、マリーナを地面に寝かせたのだった。


 そして改めてマリーナの傷口を見て、想像以上の酷さに生徒たちは絶句した。気分が悪くなったのか「うっ……」と口元を押さえている子もいる。


「は、早く回復術師に見せないと!」


「先生、お願いします!」


「ごめんなさい、私は大学で生体魔術反応の研究をやってきただけだから。回復術師の資格は持ってないわ」


 パーカース先生は歯ぎしりをしながら目の前に寝そべる生徒を見つめるしかなかった。


 回復術は下手すれば患者の身体に悪影響も与え得るため、使用は回復術師としての専門教育を受けた者だけに許されている。無資格者の魔術使用は重罪であり、特に王立学校の教員という官職に就くパーカース先生にとっては理由は如何であれ首が飛ぶ事態になるだろう。


 今すぐにでも病院に運び込みたいところだが、魔道車は転倒して使い物にならない。持ち上げ直しても整備の必要があり、すぐに運転再開とはいかない。


「このままだと悪化する……」


 息をつく間もなく、ハインはきょろきょろと辺りを見回す。そして視界に飛び込んだのは近くの木の根元に生える植物だった。


「あれだ!」


 そう言って駆け出すと、その植物を引っこ抜く。細いツタに小さな丸い葉の付いたその植物は、山中ならば別段珍しくない野草だった。


「何です、それは?」


 ナディアが尋ねると、ハインはその植物の葉だけをぷちぷちとちぎりながら答えた。


「僕たちはチドメグサって呼んでいる。旦那、水はあるかい?」


「ああ、ここに」


 運転手が動物の胃袋で作った水筒を手渡す。当然ながら中は清潔な水で満たされている。


 ハインはその水で手を洗うと、ちぎったばかりの葉を両掌ではさみ、おもむろに揉んだりこすったりして、すり潰し始めたのだ。


 何をするつもりなんだ? 生徒たちはおろか先生も黙ってひたすらに手から緑色の汁を滴らせるハインを見守っていた。


「先生、傷口に水をかけてください!」


 突如前触れもなく呼ばれ、パーカースト先生は「は、はい!」と声を裏返して水筒を手に取った。


「痛いけど我慢してくれよ」


 そしてハインが手を広げると、その掌にはねばねばとした緑色の植物の汁がへばりついていた。


 直後、先生がマリーナの脚に水をかける。付着した泥と血が落ち、ずる剥けたピンク色の傷口が露わになる。


「ひいいい!」


 歯を食いしばりながら耐えるマリーナ。


 その傷口にハインはペースト状になった植物を押し込み、塗りつけたのだった。


「ちょっと、なんてことするのですか!?」


 ざわつく女子生徒たち。怪我すれば回復術師、その常識を覆す彼の行動に誰もが困惑した。


 回復術師は高度に体系化された回復術というノウハウに従い治療行為を行う。だがそこにハインが行っているような魔術を介さない民間療法は含まれていない。学術的裏付けの無い経験則に起因する治療は、回復術師の取るべき行動ではないのだ。


「やめてください、余計悪化したらどうするのですか!?」


 だが彼女たちの言葉を受けてもなお、ハインは手を休めずひたすらに傷口に植物を塗り込んでいた。


「山の中で怪我をした時にはこれが一番よく効くんだ」


「そんな、回復術師に任せればいいのに、わざわざそんな方法を!?」


「山の中に回復術師はいないけれど危険はそこら中にある。魔法の使用を認められていない山の民たちが編み出した知恵だよ」


「うぐぐぐぐ……!」


 反論する生徒たちも、苦しそうなマリーナのうめき声で静まってしまった。回復術を使える者がこの場にいない以上、彼に頼る他無い。


「しみるだろうけど、こうしないと後で化膿する。ひどい時には回復術でも間に合わなくなって、一生歩けなくなることもあるよ」


 植物の汁をしっかりと練り込み、最後にまたシャツを破ると水で洗って傷口に縛り付ける。これで応急処置は完了した。


「さあ、村まで運ぼう。バゼドウ先生に診せるんだ」


「でも、どうやって?」


 汗を拭うハインに生徒のひとりが尋ねると、彼は転倒した魔動車にひっかけていた自分のローブを手に取るとおもむろに破き始めた。


 結局、彼は長い木の棒2本と自分の服を使って即席の担架を作り、そこにマリーナを寝かせて山を降りたのだった。

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