4-10
両親に最後の別れを告げた後、僕は妃和と共に一度綾さんの家に戻り荷物などを持ってある場所を目指した。その場所とは僕と妃和が本当に初めて出会った公園だ。
右手に妃和の温もりを感じ、左手に母親が残していった数冊のノートを持ち、僕はこの町を歩く。
夕暮れ時、二つの影が伸びていて、一つに交わっている。どこまでも遠く、遠くへと橙色が世界を包み、僕等はその中を歩いていた。
言葉はいらなかった。ただこうして一緒に手を繋いで歩いているだけでよかった。並んで歩いて時折目が合って微笑み合う。それだけで僕は彼女とすべてを分かり合えているような気がしていた。
公園は変わらない。しかし僕達は変わった。もう二人で並んでトンネルの中に入ることは難しいだろう。
誰もいない公園で僕は妃和と一緒に日が暮れるまで過ごした。かつては他の子どもたちがいて遊ぶことが出来なかったけれど、今はこの公園に僕と妃和だけしかいないから思う存分遊ぶことが出来た。
ブランコに乗る。二人乗りは危ないなんて両親に言われたものだけれど、今日くらいはいいだろうと思って妃和と一緒に乗る。どこまでも高く、高く、次第に暗くなってゆく空に近づこうとした。
何度も滑り台を滑って、試しにトンネルの中に入ろうとして、子どもみたいに大声で笑い合った。
最後にジャングルジムの一番高いところに僕達は寄り添って座って、夕日が沈んでいく様子を眺めた。
疲れ切ってしまったのか妃和はぐったりと僕に体を預けて来て、だから帰り道は妃和を背負って家を目指した。
帰る家はあった。もう何年振りになるのか分からないけれど、帰る家は変わらずにそこにあった。
僕が母親と父親と一緒に過ごした家だ。
綾さんがこれまで管理をしてくれていたらしい。綾さんから受け取った鍵は、しっかりとこの家の扉に合い鍵が開く。
何も変わらない。時が経っても変わらずここに存在している。
「ただいま」
僕の小さな声が家に反響する。返事は無いけれど、どこからか両親の「おかえり」と言う声が聞こえて来るようだった。
「妃和、着いたよ」
妃和を背中から下ろす。彼女は眠そうにしながらも靴を脱ぐ。
電気はつかなかった。だから僕は妃和を連れて縁側に向かった。
僕は妃和と並んで縁側に座る。なんだか昔のことを思い出す。
そして、僕は母親の残した日記に目を通した。月と星の光に照らされ、母親の文字が浮かび上がる。
長い時間をかけて、ゆっくりと母親の顔を思い出しながら。すぐ隣で妃和を感じながら。
綾さんの話していた通り、その日記に書かれている文字は苦悩で満ちていた。この日記は記憶を書き記す役割も果たしていたらしい。その日あった事が書き記された項目と、決して忘れてはいけない事が書き記された項目、それら二つの項目に分かれ日記が書かれていた。
決して忘れてはいけない項目には必ず僕の名前が書かれていて、心情が書かれていた項目にはどうしようもないほど苦悩に満ちた文字が並んでいる。小さく丸い染みが点々としていて、ページをめくるたびにその染みが増えていた。
私がこれまで何をしてきたのか忘れてしまった。どうやら教師をしていたらしい。けれど、生徒の名前や顔、その時の記憶はない。一つだけまだ覚えていることがあるとすれば、綾、という子だけだった。
私は、これまでの事を忘れてしまうらしい。これまでどれほど幸福な出来事があったのか、そのすべてを忘れてしまうらしい。でも、どうしたって有紀のことは忘れたくない。けれど忘れてしまうかもしれない。会いたいけれど会えるわけもない。絶望させたくはない。
見知らぬ女の子が来てくれた。私が「どちら様ですか?」と言うと、その女の子はとても悲しそうな顔をした。どうやら、私の教え子で、私に何かあった時は有紀を頼むと話をした綾、という名の子だったらしい。そんな大切な子のことさえ忘れてしまった。綾のことさえも忘れてしまった。私は、どうなってしまうのだろう。
夫はずっとそばにいてくれている。ずっと、ずっとそばにいてくれている。大丈夫だと、そう言ってくれている。私は、どれだけ助けられているだろうか。けれど、いつか夫さえも忘れてしまうのではないのかと、そう思ってしまう。
今、有紀はどこで何をしているのだろう。家に置いて行ってしまって、寂しがってはいないだろうか。
会いたい。会いたい。会いたい。会いたい。
もう、私は私じゃあない。分からない。何も分からない。
きっと、有紀とは二度と会うことは出来ないでしょう。まだ覚えているけれど、忘れてしまえば、本当に私は失ってしまう。
私は、本当にどうしようもない。
忘れたくはない。忘れる前に。
それは、たった一つ、この世界で見つけ出すことの出来たものだから。
日記はその一文で終わっていた。
多分、僕にとっての妃和のような存在が、僕の父親にとっては僕の母親のようで、僕の母親にとっては僕だった。
それが分かっただけで、もう十分だった。
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