4-9
その日、とても懐かしい夢を見て僕は目を覚ました。昔、綾さんの家でお世話になっていた時の夢だ。詳しいことは思い出せないけれど、何となく微笑ましい夢だった。
布団から体を起こし隣で寝ている妃和を見とめた後、僕はまだぼんやりとした頭で部屋の様子を眺める。
部屋はかつて僕がここで過ごしていた時となんら変わっていない。小さな机に小さな本棚。綾さんと一緒に近くの河原で撮った写真が飾られていて、畳の匂いが懐かしい。
上半身を伸ばす。すると、寝ていた妃和も目を覚まし「ここは……」と目を擦りながら体を起こした。
「おはよう、妃和。ここは綾さんの家の一室だよ」
「そう、なの。じゃあ、町には着いたってこと?」
「うん」
そんな風に妃和と話をしていると、下の階から綾さんの「起きろ~」という声が聞こえて来た。
こんなことも、その昔毎朝のようにあったのだったと、そんなことを思いながら僕は妃和と一緒に下の階に下りた。
下の階に下りてみると、すでに綾さんは椅子に座っていて、綾さんの母親は朝食をテーブルの上に並べており、綾さんの父親はお茶を入れていた。
僕と妃和は綾さんに言われるがまま椅子に座る。テーブルの上にすべての朝食が並び終わると緩やかに朝食の時間が始まった。
数人の人と一緒に朝食を食べるというのは久しぶりのことで、妃和にしてみれば初めてのことらしい。
朝食はいたってシンプルで、ご飯に卵焼き、味噌汁にたくわん。なんだかホッとする味だった。
朝食を食べながら改めて妃和に綾さんを紹介して、ついでに久しぶりに綾さんの両親と挨拶をした。昔の頃の様子と比べ綾さんの両親は年老いて見えた。時が経っているのだしそれは当たり前だけれど、なんだが妙に虚しくて、もしも僕の両親がまだ生きていたのなら今頃どんな顔になっていたのだろうかと、そんなことを考えてしまった。
朝食を済ませた後、僕は妃和とこれからどうするか話をした。まず妃和はこの町にある母親のお墓参りをして、公園に行きたいとそう話した。
そして、僕はどうしたいかなのだけれど、大体妃和と同じことをしたいと思っていた。僕も最後位両親のお墓参りがしたいと、そう思っていたのだった。
時間も限られているし早速お墓参りに行くことにした。綾さんもそれに同行することになって、僕と妃和は綾さんと共にお墓のあるお寺を目指した。
どうやら妃和のお母さんが眠っているのは僕の両親と同じ場所らしい。この町にある墓地はあそこしかないため、そうなるのも当然なのかもしれないが、なんだか不思議な縁を感じてしまう。
お墓へと向かう道中、綾さんが珍しくどこか元気のない様子で、それだけが少し気がかりだった。
それと、昨日の夜に綾さんは僕に話したいことがあると言っていたけれど、それは一体何なのだろうか。
そんなことを考えながら町を歩き墓地を目指す。道の途中それなりに急な階段があって妃和の体力を考えながらゆっくりと、慌てずに上って行った。
階段を上り切り、そこから見える景色を眺め「ここから見える光景は、やっぱり綺麗ね」と妃和がそう呟く。それは僕も同意見だ。
山門をくぐる。すると、お寺の前に散らばる落ち葉を箒で掃いているお寺の住職さんの姿が見えた。
僕達以外の人を見たのは初めてで、なんだか妙に緊張してしまったが、住職さんは僕達に気が付くと微笑みながら軽く頭を下げた。僕達もそれに答えるように軽く頭を下げる。
あの住職さんには見覚えがあるような気がする。昔このお寺周辺で綾さんと遊んでいた時、度々見かけたことがあった。
綾さんは住職さんに、「こんにちは」と声をかけ、少しだけ立ち話をし始める。そんな様子を僕と妃和は少し離れた所から眺める。
「本当にまだ地球に残っている人間がいたのね」
なんて、妃和がそんなことを耳元で言う。妃和の言うことは良く分かる。話だけで知っていることと、こうして実際に見ることとでは実感という面で全く違う。
しばらくすると綾さんが僕達を呼び寄せる。
僕は妃和と共に綾さんと住職さんの元に近づく。
「こ、こんにちは」
「はい。こんにちは。しかし懐かしい顔だ。有紀君、とても大きくなりましたね」
やはり、僕はこの住職さんの声を聞いたことがある。
「僕のこと、覚えているんですか?」
「はい。昔よくここで綾さんと遊んでいましたし、よく覚えていますよ。それに隣にいる女の子も、確か妃和さん、でしたよね。あなたも随分と大きくなられた」
どうやら妃和とも認識があるらしい。一方で、妃和はこの住職さんのことを知らないようでやや困惑した色をその顔に浮かべている様に見えた。
「妃和さんのお母様のご葬儀の時にお見かけしたのですよ。ご葬儀中、ずっとお母様のすぐそばで泣いていたのがどうにも忘れられなくて、よく覚えています」
住職さんは「しかし、今はもう大丈夫そうですね」と、話す。妃和はどこか恥ずかしそうに「そうですか」と口にするのだった。
そうして、僕達は墓地へと足を踏み入れた。
多くの人が眠っている中、僕達はまず妃和の母親に会いに行く。
僕は妃和と並んで彼女の母親の前に立つ。
綾さん家から持ってきてくれていた線香をあげる。線香から立ち上がる煙は揺らぎながら一本の白い線となり、遠く、遠くの空へと昇って行った。
「お母さん、久しぶりね。こうして会いに来ることが出来たのは、何年振りになるのでしょうね」
妃和はまず「ごめんなさい」と謝る。本当は毎年会いに来たかったけれどそれは難しかったと。それと、一度死のうと思ってしまったことを。
それから妃和は語った。母親と永遠の別れをした後何を経験してきたのかを。多くは僕に関することだった。すぐ隣で聞いていてなんだか気恥ずかしくなってしまうけれど、でもとても嬉しい。自然と僕達は手を繋いでいて、妃和はそっと手を握って来る。僕もそれに答える。
「私、生まれて来てよかったって、そう思うわ。お母さんと一緒に過ごせて、こうして有紀君と出会うことが出来て、本当によかったと、今ならそう思える。不幸だと呼べることも多くあった。自分から死のうと思った事もあった。生きていても意味はないって、そう思ったことも沢山あった」
妃和の頬に、涙が伝う。でも話すことは止めない。
「でもね、今はとても幸せよ。お母さんとの思い出は私の中にある。有紀君との思い出は、今もこの手の内にある。だから、私は幸せ。とても幸せなの」
妃和は目を逸らさない。涙を流そうとも、ずっと母親の姿を見続け、ずっと笑みを浮かべ続ける。
そして彼女は「ありがとう」と、力強く立ち、震える声でそう言った。
これで最後だから。感謝することが出来るのも、話をすることが出来るのもこれが最後。
彼女の「ありがとう」という言葉にどれほどの気持ちが込められているのか僕は知らない。だけれど、とても幸福に包まれた言葉であったことは僕にも分かる。
しばらく妃和は顔を上げて瞼を閉じていた。僕はか弱くも強い彼女の支えになれるよう、ずっとこの手を放さずにいたいと、そう思った。
妃和は瞳を開ける。僕を見る。僕は彼女の強くて脆そうな目を受け止める。
「もう、大丈夫?」
「ええ。有紀君、ありがとう」
もう一度強く手を握った。
次は僕の番だ。
両親の前に立つ。妃和は僕の隣にいてくれている。
「僕は今、幸福の中で生きているよ」
昔のことを思い出す。まだ僕は幼くて両親に手を引かれていた時のことを。
未来は明るい。将来は希望に満ちている。こんな世界なのに、両親はどうしてそんなにも自信を持って言い切ることが出来ていたのだろう。
世界はもうじき終わるよ。未来は永久にその明かりを消し、道を閉ざしてしまう。でもどうしてだろう。今はとても満ち足りていて、幸せで、希望に満ち溢れているような気がしてならないんだ。
僕はもう死ぬ。残り数日の命だ。僕は死を選んだ。両親と同じだ。僕は自ら死を選んだのだ。
だけれど、それが間違いだとは思っていない。生きる目的も、その意味も、これから先の未来にはなかったから。
隣に居る妃和の傍に、この小さな手を放さないように。
僕は何となく分かったよ。この世界でも生きて行く意味を。
僕達は別に無理をしてまで生きる必要はないのだ。妃和の言っていた通り、僕達は望んで生まれて来た訳ではない。
でも、生まれて来てしまったからにはそれに値する何かを見つけなければならない。あるのかも分からない探し物を求め続けなければならない。
それは苦痛を伴うだろう。途中でやめてしまいたいと思うこともあるだろう。でも、それを見つけ出すことが出来た時、途端に世界は色付き始める。満ち足りて、明かりが灯る。
「きっと、そういうことだったんだよね」
両親にとって見つけ出すことの出来た物は一体何だったのだろうか。最後にそれを僕は知りたかった。でも、もうそれも叶わないだろう。
もっと話をしてみたかった。こういった話を、暖かな部屋で、ゆっくりと話したかった。
その様子を頭の中で思い浮かべる。決して叶わない光景を。
「どうして、死んでしまったの……」
どうして。どうして僕の目の前からいなくなってしまったのか。手から伝わる温もりが強まる。泣くつもりなんてなかったのに、どうしようもなくて我慢できそうにない。
その時「有紀君」と、後ろから綾さんが僕の名前を呼んだのが分かった。
「私はね、一つだけ有紀君に話さないといけない事があるの」
綾さんはそう言って僕の隣に立った。そうして綾さんは「夏芽先生。もう話しても大丈夫だよね」と呟く。
「綾さん?」
綾さんは少し目を俯かせ、徐に話し始めた。
「私が話さないといけない事はね、とても辛いことよ。夏芽先生は、最後まで苦しんでこの世を去って行ったっていうことを私は有紀君に話そうとしているの」
綾さんは「先生は脳の病気を患って、ずっと病院で過ごしていたんだよ」と続けた。
「有紀君がウチで過ごすようになった時のこと、覚えている?」
僕が綾さんの家に預けられたのは、両親の仕事が忙しくて家にあまり帰ることが出来なかったから。でも、実際は違った。僕が綾さんに預けられた日、僕の母親は病院に入院し、僕の父親は仕事をしながら付きっきりで母親の傍に居たのだそうだ。
僕の母親は、病気の影響で少しずつ記憶を無くしていったという。
「記憶を無くしていくという苦悩は私には想像できないけれど、でもとても辛いものだったんだと思う。私、何度か夏芽先生のお見舞いに行ったことがあるんだけどね、とっても苦しそうな顔をしていたんだ。しばらくして私のことも忘れちゃって。私もさ、どうしたらいいのか分からなくなっちゃって、あの時は流石に泣いちゃったよ。でも先生は何とか思い出そうとしていて。私はとても見ていられなかった。そんな中でね、私は言われたんだよ」
「もしも私が有紀のことを忘れてしまったら、そんなことは考えたくもないけれど、もしもそうなってしまったら、有紀のことを頼むって」
「私にとって先生は恩人みたいな人だから、そんな人のお願いを私は断る訳にはいかなかった。それにさ、有紀君は見ていて本当に心配だったから。あなたはとても優しいけれど、とても弱い」
綾さんは数冊のノートを取り出した。
「これは?」
「夏芽先生の日記。ここに、先生の思いと一緒に有紀君が知りたいことが書かれていると思う」
数冊の古ぼけたノート。表紙には「日記―記録―」と書かれていて、それは確かに母親の文字だった。
「夏芽先生が何を思い、どうしていたのかは私が話すよりもこの日記を読んで知った方が良いと思う。でね、最後に私から言いたいこと」
優しく、僕は綾さんに頭を撫でられる。
「私にとって、本当に有紀君は弟みたいな存在だった。夏芽先生が亡くなって、私も悲しかったけれどさ、有紀君のことを考えたらもっと辛くなった。きっと有紀君は私なんかよりもずっと悲しくて、辛いんだろうって。私はさ、先生から頼まれたのに、ろくに有紀君の力になることが出来なかった。一人で暮らす、なんて言い始めた時も結局私は何も言えなかった」
綾さんは「だから、ごめんなさい。ずっと、謝りたかった」と目を赤くして、涙をこらえて、頭を下げる。
どうして綾さんが謝るのだろう。綾さんは何も悪くない。僕の方こそ、綾さんに迷惑をかけて来た。昔から独りぼっちの僕と一緒に遊んでくれて、今思えば、昔からずっとそばで僕のことを見てくれていたのは綾さんしかいない。
僕も綾さんに言わなければならないことがある。ずっとお世話になって来たし、ずっと迷惑をかけて来た。
「綾さん、僕にとっても、綾さんは姉みたいな存在でした。昔のこと、僕は覚えています」
綾さんの家にお世話になるようになって、僕は一人でよく町を歩いて、狭い所を見つけては蹲って、でも必ず綾さんが僕のことを探し出してくれて手を引いてくれた。お母さんとは違うけれど別の優しさに包まれていて、僕は素直じゃあないし臆病者だから、その時は何も言うことが出来なかったけれど、でも僕は覚えている。
僕が一人街で暮らすようになってからも、度々綾さんは連絡をしてくれた。ずっと、僕のことを気に止めていた。
「僕の方こそ、色々と迷惑をかけたと思います」
そうかと、もうこれで綾さんともお別れなのだ。
「綾さん、これまでお世話になりました」
僕のことを見ていてくれてありがとう。
ずっとそばにいてくれてありがとう。
この町で待ってくれていてありがとう。
「なによもう、最後にらしくないこと言って」
綾さんはやっぱり僕の頭をクシャクシャにする。何か僕に合った時、綾さんはよくこんな風にしてくれていた。
「ほら、泣くんじゃないよ」
「綾さんだって、泣いているじゃあないですか」
綾さんは「うるさい」と言ってさらに僕の頭を乱暴に撫でまわす。
綾さん、迷惑ばかりかけてきたけれど、出来の悪い弟だったけれど、それでもずっとそばにいてくれて。
本当に、ありがとうございました。
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